霊能探偵 月なき夜の女霊
本作『月なき夜の女霊』は、霊能探偵・伊田裕美が謎と怨念の渦巻く事件に挑む物語です。今回は、北陸の小さな漁村を舞台に、月のない夜に現れる怪異と、それに翻弄される人々の恐怖を描きました。
物語の発端は、一人の女性が舟で海を渡る最中に忽然と姿を消したことから始まります。その後、夜になるたびに起こる不可解な失踪事件と水死体の発見。SNSやメディアによって拡散される都市伝説は、単なる噂なのか、それとも本当に“何か”が潜んでいるのか——。
そんな異変に立ち向かうのは、旅をしながら怪事件を解決する霊能探偵・伊田裕美。冷静沈着でありながらも、人の心の闇を見抜く探偵としての鋭さを持つ彼女が、陰陽師の村田蔵六、依頼人の土浦誠一らとともに、事件の真相を暴いていきます。
本作では、人間の業と怨念、そしてそれが引き起こす怪奇現象をテーマにしました。過去の罪がどのように人々の運命を狂わせ、怨霊となって蘇るのか。その背景にある悲しみと怒りにも目を向けながら、最後までお楽しみいただければ幸いです。ぜひ、最後まで物語の行方を見届けてください。
【登場人物】
伊田裕美:霊能探偵、旅行ルポライター、ショートカットの黒髪を持ち、知的な印象を与える黒のスーツに身を包んでいた。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、どこか探偵のような雰囲気を漂わせていた。
伝兵衛:旅行雑誌編集長。
村田蔵六:陰陽師で湯川寺の住職、霊能探偵の相談相手。
岩崎郁子
高橋亮三
高橋信子
土浦誠一
第1章:悲劇の始まり
月のない夜、風が荒れ狂っていた。
波が逆巻き、黒い海が不吉にさざめく。岩崎郁子は、小さな手漕ぎの舟に身を預け、ゆっくりと波間を進んでいた。目的地は石川県の海岸、笹島からおよそ50キロの彼方にある、恋しい男の元へ向かう旅路だった。
彼女の手はオールを握りしめ、湿った夜気の中で震えていた。目の前には暗闇が広がり、唯一の頼りである灯台の光を探す。安堵の息をつきかけたその瞬間——
灯台の光が、ふっと消えた。
「えっ……?」
突然の闇。郁子は驚愕し、目を凝らした。だが、灯台の光はどこにもない。まるで何かが、それを呑み込んだかのように。
「どうして……?」
郁子の胸に、不吉な予感が押し寄せた。心臓が高鳴る。どこか遠くで風に乗って、かすかな笑い声が聞こえた気がした。
「誰……?」
彼女は振り返る。だが、そこには誰もいない。ただ黒い波が不気味にうねるだけだった。
次の瞬間——
轟音とともに、大きな波が舟を激しく揺さぶる。
「きゃっ……!」
舟が傾く。水が跳ね上がり、冷たい雫が彼女の顔に降りかかる。必死に体勢を立て直そうとするが、揺れは収まらない。波はどんどん高くなり、舟を押し流す。
視界が揺れる。
どこが空で、どこが海なのかわからない。
そして——
舟が転覆した。
「いや……!」
郁子の叫びは、暗闇の中に飲み込まれた。
冷たい水が一瞬にして全身を包む。足が水中に引き込まれる。もがいても、もがいても、上へ行けない。肺が焼けるように痛む。
そのとき——
水面に映る影が目に入った。
それは、灯台のそばに立つ、白い着物の女だった。
月もなく、光もない闇の中、その女だけが不気味に浮かび上がる。
郁子の意識が途切れる直前、女はふっと微笑み——
その姿は静かに闇へと溶けていった。
第2章:街に忍び寄る怪奇
月のない晩——。
この町では、夜になると異変が起こる。
風が唸りを上げ、家の窓を激しく揺らす。海沿いの道を歩く男も女も、突然姿を消し、数日後には水死体となって浜に打ち上げられる。無傷の者はいない。誰もが苦悶の表情を浮かべ、口を大きく開いたまま冷たい波間に漂っている。
それが何度も繰り返されるうちに、小さな漁村では人々が夜に外へ出ることをやめた。戸を固く閉ざし、灯りを消し、ただ風が過ぎ去るのを待つばかり。
しかし、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
東京のテレビ局がこの現象を都市伝説として報じたのだ。
「謎の強風の夜、続く水死体の発見——これは単なる事故なのか、それとも何かの呪いか?」
特集番組が組まれ、SNSでも騒ぎは一気に広がる。
《怪奇現象ヤバすぎ》
《あの漁村、もう終わりだな》
《これ、北○鮮の工作じゃないの?》
《いや、中○の新兵器だろ》
《むしろ呪いでしょ。封印が解かれたとか?》
《過去にも同じ事件があったらしい……》
《行ってみた。結果、ガチで怖い》
次々と投稿される証言。ある者は奇妙な影を見たと言い、またある者は耳元で何か囁かれたと語る。中には、一度行方不明になった人間が、翌日まるで別人のように無口になって戻ってきたという報告もあった。
噂は瞬く間に拡散し、やがて「月なき夜に現れる女霊」という呼び名が定着していった。
だが、それは単なる噂なのか。それとも、本当に“何か”がいるのか——。
裕美はその真相を確かめるため、漁村へと向かう決意を固めた。
第3章:予兆の夜
湯川寺の本堂には、伊田裕美、村田蔵六、そして依頼人の土浦誠一の三人が集まっていた。
普段なら、裕美は旅行雑誌社の編集作業に追われているはずだったが、今日は休日。そんな彼女のもとへ、土浦が助けを求めてやって来た。
「月のない晩に限って、強い風が吹き荒れる。そして、その晩に外へ出た者は行方不明になる。やがて数日後、水死体となって発見されるんです……」
土浦の声には、恐怖と焦燥がにじんでいた。
その時、不意に本堂の障子がガタガタと音を立てた。
「風が吹いてきたか……」
蔵六が目を細める。
「まさか、もう始まっているの?」
裕美が低くつぶやく。
その瞬間、寺の門の外から、誰かがこちらを覗いているような視線を感じた。
気のせいかと思いながらも、裕美は身構える。
「今回は気が向かないね……」
蔵六が腕を組みながら言った。
「どうして?」
「霊現象そのものより、この霊は“何か”を待っているような気がするんじゃよ」
「待っている?」
「何かが起これば、今まで以上に力を増す……そんな気がするんじゃ」
蔵六の言葉に、土浦が怯えた表情を浮かべる。
「月のない晩にのみ怪奇現象が起こる……少なくとも『たむならの鏡』は使用できないよ」
「わかっているわ。でも『たむならの剣』、『たむならの勾玉』、それに蔵六に全身に梵字を書いてもらえば大丈夫よ」
「たむならの剣は、邪霊の気を断つためのものよ」
「勾玉は?」
「霊の気配を探るための護符のようなものね」
「うん……墨で書いた梵字なんか、せいぜい2日もてばいいほうだよ。しかし……行くね、裕美は」
「ええ、私は千万人に一人の人間。この世の邪悪を討つために生まれたのよ」
裕美は静かに立ち上がり、強く拳を握った。
「霊が現れるなら、必ず正体を暴いてみせる」
「そのかわり、逐一わしにスマホで連絡するんじゃぞ」
「わかったわ、逐一スマホで連絡するわね」
そう言って裕美がスマホを確認した瞬間——
画面が一瞬乱れた。
画面に、一瞬だけ水滴のようなものが垂れる映像が映る。
「……?」
しかし、次の瞬間には何事もなかったかのようにスマホは元に戻っていた。
まるで、誰かが遠くからこちらを見ているような錯覚を覚えながら——。
裕美は土浦の案内で、石川県の小さな町・羽咋市へ向かう。
第4章:出会い
石川県の海岸線を縫うように走る一本の道路。
海風が車の窓を叩き、潮の香りが漂っていた。日差しは穏やかで、空は晴れ渡り、波が陽光を受けて輝いている。
そんな中、高橋亮三は車を走らせていた。仕事での移動中、前方に歩いている女性の姿を見つけた。
道端をふらつきながら歩く女性。すれ違おうとした瞬間——
彼女は、突然倒れ込んだ。
「えっ?」
亮三は急ブレーキを踏み、慌てて車を降りた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、女性はゆっくりと立ち上がり、弱々しく微笑んだ。
「……大丈夫です。ただ、転んだだけです」
彼女の顔には疲れが滲み、細い体が風に揺れている。亮三はほっと胸をなで下ろした。
「どこまで行くんですか?」
「これから三日月旅館に行くんです」
「ああ、それなら途中です。送りますよ」
そうして亮三は、女性を車に乗せ、三日月旅館へ向かった。
——いや、実は亮三自身もその三日月旅館に用があったのだ。
今夜はそこで一泊し、翌日には帰る予定だった。
【三日月旅館の夜】
岩崎郁子は、黒髪を肩まで伸ばした痩身の女性だった。
温泉に浸かりながら、彼女は今日までのことを思い返していた。
郁子のかつての恋人は、同じ笹島の出身で、東京で就職していた。
最初は手紙や電話で繋がっていたが、次第に連絡は減り、疎遠になり、やがて別れ話が持ち上がった。
彼女は今日、すべてを吹っ切るつもりで、この三日月旅館に泊まりに来たのだった。
その夜、ラウンジの柔らかな灯りの下で、郁子はワインを傾けていた。
そこへ、亮三がやってきた。
昼間の出来事がきっかけとなり、二人は自然に会話を交わし始める。ゆっくりと打ち解け、心の距離を縮めていく。
——そして、その夜、二人は男女の関係となった。
翌朝、二人は別れたが、LINEで繋がり続けた。
それからというもの、郁子は笹島から約5キロ離れた羽咋市まで、小さな手漕ぎ舟で通うようになった。
二人が密会する場所は、いつも三日月旅館だった。
【崩れる日常】
亮三は独身だと言っていた。
しかし、それは嘘だった。
実際には結婚しており、まだ子供はいなかったが、妻の高橋信子は、夫の行動を怪しみ始めていた。
違和感を覚えた信子は、ついに亮三を尾行し、その不貞を突き止めた。
「亮三……どういうことなの?」
三日月旅館の駐車場で、信子は夫を待ち伏せた。
「お前……なんでここに?」
亮三の顔が強張る。信子はスマホを取り出し、LINEのやり取りのスクリーンショットを見せつけた。
「これは何? 会社の出張じゃなかったの?」
「違う、これは……」
「言い訳しないで!」
信子の声が震えた。瞳には涙が浮かんでいる。しかし、亮三は黙ったままだった。
「あなたの行動、全部調べたの。会社の同僚に聞いたら、出張なんてなかった。ずっとこの女と会ってたのね」
「……」
「こんなに簡単に裏切れるものなの?」
沈黙が重くのしかかる。
「……ごめん」
亮三の口から漏れた謝罪の言葉は、あまりに軽く、信子の怒りをさらに燃え上がらせた。
「許さない……絶対に」
その日から、信子は亮三と郁子を執拗に監視し始めた。
——そして、運命の夜が訪れた。
月のない晩。
郁子は灯台の明かりを頼りに、舟を漕いで海を渡っていた。
しかし——
突如、灯台の光が消えた。
暗闇の中、舟は波間に呑まれ、郁子は姿を消した。
【再生する怨霊】
波間に沈んだはずの郁子。
しかし、暗闇の海の底で、彼女の意識は途切れなかった。
冷たい水が体を包み、息ができないはずなのに——
どこか遠くで、女の笑い声が聞こえた。
——もっと、苦しめ。
突然、郁子の身体が何かに引かれるように浮かび上がる。
水の中に広がる青白い光。その中心に、郁子は立っていた。
水面に映る自分の姿。
白く透けた指先。濡れた髪がゆらめく。
「……私は……?」
思考がぼやける。
だが、その瞬間、胸の奥からこみ上げる感情があった。
——怒り。
——絶望。
——復讐。
「私は、まだ終わっていない……」
次の瞬間、郁子の姿は波間に消えた。
そして、月のない夜。
高橋信子が最初の犠牲者となる。
彼女の耳元で囁く声。
「あなたは知りすぎた」
次に、亮三が恐怖の中で命を落とす。
郁子はすでに人ではない。
彼女は、月のない夜に現れる女霊となったのだ。
次に亮三に怨念は向かう。
亮三は郁子の霊に詫びた。
「許してくれ……すべて俺が悪かった……」
しかし、その願いは虚しく響いた。
月のない晩、亮三の部屋には異様な冷気が漂っていた。
鏡に映る自分の後ろに、ずぶ濡れの郁子の姿があった。
「裏切り者……」
耳元で囁かれた瞬間、彼は息が詰まり、足が震えた。
次の朝、亮三は無惨な姿で発見された。
指は爪が剥がれるほど床を引っ掻き、目は大きく見開かれていた。
まるで何かを振り払おうとしたかのように——。
【裕美の推理】
土浦に連れられ、裕美は石川県の笹島へ渡った。
郁子の災難に目をつけ、彼女の足跡を追う。
当然、羽咋市にある唯一の温泉旅館——三日月旅館にも足を運んだ。
女将は、亮三と郁子の関係をはっきりと覚えていた。
「二人はいつも一緒でしたよ。でも、彼女……最後に見たとき、何かを決意したような顔をしていました」
裕美が尋ねると、女将はカウンターの奥からスマホを取り出した。
「実はこれ……岩崎さんが旅館に忘れていったんです。亮三さんは気づいていなかったようで、私が預かっていました」
裕美はスマホを受け取り、電源を入れようとしたが、すでに電池が切れていた。
旅館の一室で充電しながら、中身を確認する。
そこには、亮三と郁子のやり取りが記されていた。
二人の関係のすべてが、このスマホに残されていた。
第5章:霊能探偵対郁子の怨霊
月のない晩。
裕美は怨霊との対峙に備え、三日月旅館の前で待機していた。
深夜、風が唸りを上げ、異様な気配が周囲を包む。
突如、郁子の怨念が現れた。
白く吊り上がった目、裂けた口。
彼女は両手を上げ、不気味な笑みを浮かべながら裕美へと迫ってくる。
「……お前も裏切るのか……?」
「私は探偵よ、真実を暴く者——」
裕美は『たむならの剣』を構えた。
怨霊は雄叫びを上げながら猛然と襲いかかる。
裕美は冷静に剣を振るい、郁子を切り裂いた。
次の瞬間——
郁子の身体から無数の船幽霊が飛び散る。
「これは……!」
郁子だけではない。
彼女は、浮かばれぬ怨霊たちの集合体だったのだ。
無数の手が、うごめく影が、裕美を取り囲む。
「このままでは……!」
戦いは、まだ終わらない——。
無数の船幽霊が周囲を取り囲むも、裕美の身体に刻まれた梵字の結界がそれらの手を弾く。
「霊の本体を見つけないと……」
彼女は息を整え、冷静に状況を見極めた。
船幽霊たちは郁子の怨念に引き寄せられているが、根本的な力の源は郁子の魂そのものにある。
「郁子……あなたがすべてを支配しているのね」
裕美は『たむならの勾玉』を手に取り、強く握りしめた。
勾玉が淡い青白い光を放つと、周囲の霊の気配がゆっくりと変化する。
漂う怨霊の流れが一瞬揺らぎ、空間が歪む。
「見つけた……!」
彼女は霊の気配を頼りに、郁子の本体がある場所を見極めた。
そこには、半透明の姿で佇む郁子がいた。
「なら、私が終わらせる!」
裕美は『たむならの剣』を抜き、一閃。
剣の刃が光を帯び、郁子の本体を切り裂いた。
刹那、閃光が弾け、激しい衝撃波が辺りを包み込む。
郁子の身体が崩れ、霧となって消えていく。
それと同時に、すべての怨念は消え去った。
冷たい風が吹き抜け、暗闇の中に静寂が戻る。
「……終わったのね」
裕美は剣を収め、そっと目を閉じた。
残されたのは、穏やかに広がる月明かりだけだった。
第6章:エピローグ
土浦は裕美に深く感謝した。
「あなたのおかげで、町に平和が戻った。市に頼んで、名誉市民に推薦しようと思ったんだが……」
「そういうのは性に合わないのよ」
裕美は軽く微笑みながら断った。
土浦は苦笑しながらも、それ以上は何も言わなかった。
事件が終わった夜、裕美は三日月旅館に宿泊することにした。
長い戦いを終え、久しぶりに一人でくつろぐ時間が訪れた。
部屋には静寂が広がり、窓の外では波の音が心地よく響いていた。
裕美は浴衣姿のまま、ゆっくりと立ち上がり、温泉へと足を運んだ。
湯気が立ち込める大浴場。
熱い湯に身体を沈めると、じんわりと疲れが和らいでいく。
腕を見ると、戦いのために刻まれた梵字がまだ薄く残っていた。
「……これも、もう必要ないわね」
裕美は湯をすくい、梵字を静かに洗い流した。
肌が元の滑らかさを取り戻すと同時に、戦いが本当に終わったことを実感する。
ふと、どこかで誰かが、まだ見えない怨念を抱えているのではないか——そんな思いがよぎる。
だが今はそれを考えるのはやめよう。
温泉の熱が心地よく、身体の芯から温まっていく。
裕美は目を閉じ、静かに湯に身をゆだねた。
戦いの緊張が解け、静かな安堵が広がる。
指先がそっと胸に触れ、ゆっくりと湯の中を滑る。
「……やっと、一息つけるわね」
湯気が舞う中、彼女は静かに息を吐いた。
夜は深まり、外では静かに風が吹いていた。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『月なき夜の女霊』は、これまでの霊能探偵シリーズとはまた違った雰囲気を持つ作品となりました。今回のテーマは、怨念と復讐、そして「何をもって怨霊を鎮めるのか」という問いです。果たしてすべての怨霊は浄化されるべきなのか、それともその怒りを理解し、受け止めるべきなのか——。
伊田裕美という探偵は、単に怪異を退治するだけの存在ではありません。彼女は常に、霊の背景にある人間の感情や事情を探り、最適な解決策を模索し続けます。今回もまた、彼女なりの方法で事件を終わらせましたが、読者の皆様の目にはどのように映ったでしょうか。
この物語を通じて、読者の皆様に少しでも恐怖と興奮、そして物語の余韻を感じていただけたなら幸いです。また次回作でも、伊田裕美とともに未知なる怪異の世界へと足を踏み入れていただければと思います。
また次の事件でお会いできる日を楽しみにしています。




