幽霊探偵・伊田裕美 呪縛の3000万円
本作『月なき夜の女霊』は、幽霊探偵・伊田裕美が謎と怨念の渦巻く事件に挑む物語です。今回は、北陸の小さな漁村を舞台に、月のない夜に現れる怪異と、それに翻弄される人々の恐怖を描きました。
物語の発端は、一人の女性が舟で海を渡る最中に忽然と姿を消したことから始まります。その後、夜になるたびに起こる不可解な失踪事件と水死体の発見。SNSやメディアによって拡散される都市伝説は、単なる噂なのか、それとも本当に“何か”が潜んでいるのか——。
そんな異変に立ち向かうのは、旅をしながら怪事件を解決する幽霊探偵・伊田裕美。冷静沈着でありながらも、人の心の闇を見抜く探偵としての鋭さを持つ彼女が、陰陽師の村田蔵六、依頼人の土浦誠一らとともに、事件の真相を暴いていきます。
本作では、人間の業と怨念、そしてそれが引き起こす怪奇現象をテーマにしました。過去の罪がどのように人々の運命を狂わせ、怨霊となって蘇るのか。その背景にある悲しみと怒りにも目を向けながら、最後までお楽しみいただければ幸いです。ぜひ、最後まで物語の行方を見届けてください。
幽霊探偵
伊田裕美:幽霊探偵、旅行ルポライター、ショートカットの黒髪を持ち、知的な印象を与える黒のスーツに身を包んでいた。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、どこか探偵のような雰囲気を漂わせていた。
伝兵衛:旅行雑誌編集長。
村田蔵六:陰陽師で湯川寺の住職、幽霊探偵の相談相手。
第1章:東尋坊の声
男の名前は斯波健介。その日、彼は冷えた風が吹き付ける北陸の東尋坊に立っていた。険しい崖が連なる景色の中、斯波は肩をすくめながらじっと海を見つめている。その顔には疲労と苦悩が刻まれ、かなりの重圧に苛まれている様子だった。
斯波健介はかつて社員10人ほどの小さな会社を経営していたが、今では社員の給料を払うどころか、自分の生活費すら捻出できない状況に追い込まれていた。彼には家族もおらず独身のまま。周囲には頼れる人もおらず、すべてをひとりで抱え込んでいた。
会社を放置し、行方をくらましてから5日が経った。今頃、会社では斯波健介の失踪が騒ぎになっているのだろう。だが、それすら、もはや斯波健介にはどうでもいいように思えた。彼の心は完全に折れ、唯一残された選択肢に見えたのは、自らこの世から消えることだった。
崖際で足を止め、斯波健介は何度も海を見下ろした。その冷たい波が下から呼び寄せるようだったが、一歩を踏み出す勇気がどうしても湧かなかった。何かが彼を引き止める。踏ん切りがつかず、斯波健介はただ立ち尽くしていた。
後ろから「お手伝いしましょうか?」
斯波は後ろを振り返った。誰もいない。斯波は背筋が凍った。
「だれ…だれ…」
あたりを見渡しても誰もいない。
「ふふ、死ぬ気じゃないのか?」
「いえ、わたしは…」
斯波は逃げ出そうとしたが、足が動かない。
「これは、きっと霊の仕業だ。死ぬんだ…」
「わしが助けてやろう!大牟田家の土葬の墓に行くが良い。大牟田家だ!」
響き渡るような声だった。
さっきまで動かなかった足が、今は動く。斯波から死ぬ気は失せていた。
斯波は途中の山道を逃げ帰った。道は狭く、両側には鬱蒼とした木々が生い茂っていた。石がごろごろと転がり、足元は不安定だった。風が枝葉を揺らし、ざわざわと不気味な音を立てる。暗闇に包まれた山道は、まるで別の世界へ続く道のようだった。
その晩、斯波は旅館に泊まった。
寝床で一晩中震えていた。怖くて仕方がなかった。
「こんなとき、そばに女性がいて温めてくれたら…」
第2章:大牟田家の土葬墓
翌朝、斯波健介は旅館の支払いを済ませた後、女将に大牟田家の墓の場所を尋ねた。女将は驚いた顔をしたが、やがて静かに語り出した。
「大牟田家は、このあたりじゃ昔からの名士です。でも、今は未亡人がひっそりと暮らしているだけですよ。お墓に行くんですか?」
斯波が頷くと、女将は少し躊躇しながらも、古い墓地の場所を教えてくれた。それは旅館からさらに山道を奥へ進んだ先にあるという。
斯波は教えられた道を進み、やがて鬱蒼とした木々に囲まれた一角に辿り着いた。そこには、墓というにはあまりにも巨大な、まるで倉庫のような建物が佇んでいた。石造りの壁は風雨に晒されて黒ずみ、長い年月の重みを感じさせる。
ぐるりと回って様子を窺うと、正面に大きな鉄製の扉があった。近づいてみると、錆びつき、ところどころ崩れかけている。試しに手をかけて押してみると、ギギギ……と不吉な音を立てながら、ほんのわずかに隙間ができた。人ひとりがぎりぎり通れるほどの幅だ。
斯波は深く息を吸い込み、意を決してその隙間から中へと足を踏み入れた。
中はひんやりとした空気が漂い、かすかに土と朽ちた木の匂いが混じっていた。薄暗がりの中、並んでいるのは幾つもの棺。古いものは木が朽ち、形を留めていないものもあったが、比較的新しいものも見受けられる。
斯波はひときわ目立つ、比較的新しい棺に手を伸ばした。意外にも、その蓋は軽く、ほんの少し力を入れただけで簡単に開いた。
中には、黒ずんだ布に包まれた、朽ち果てたミイラが横たわっていた。長い歳月の果てに、すでに人としての形を失いかけている。だが、斯波の目を引いたのは、それではなかった。ミイラの胸元に、ひとつのカバンが置かれていたのだ。
恐る恐るカバンを手に取ると、想像以上にずっしりとした重みがあった。震える手でジッパーを開けると、中には札束がぎっしりと詰め込まれていた。額にして、おそらく3000万円ほどあるだろう。
斯波は、一瞬だけ逡巡した。これは持ち帰っていいものなのか。しかし、その迷いはほんの数秒で消えた。こんな大金がここに眠っていても、誰の役にも立たない。それならば――。
斯波は躊躇することなく、カバンをしっかりと抱え込み、来た道を戻った。
――
それからの斯波は、まるで何かに導かれるように、すべてが順調に回り始めた。
倒産寸前だった会社は急速に成長し、事業は拡大を続けた。あの資金を元手に、経営を立て直し、次々と成功を手にしていった。運も味方し、大口の取引が決まり、新しい事業も軌道に乗った。気づけば社員の数も増え、斯波の会社はかつての小規模経営とは比べものにならないほどの成長を遂げていた。
私生活も順風満帆だった。やがて、彼は良き伴侶を得て、結婚した。美しい妻に恵まれ、幸せな家庭を築いた。
娘が生まれ、やがて息子も生まれた。
すべてが思い通りに進んでいた。まるで、あの夜、土葬の墓で出会った何かが、斯波に力を与えたかのように――。
第3章:成功と代償
斯波健介は、ある日を境にふさぎ込むようになった。仕事は順調だったはずなのに、何かが狂い始めていた。最初は些細なことだった。
娘が風呂に入っていると、ふと気配を感じたという。「誰かに見られている気がする」と怯えた表情で言った。最初は気のせいだと思ったが、それからというもの、家の中で不可解なことが次々と起こり始めた。
勝手に扉が開く。リビングのテレビが、誰も触れていないのに突然つく。そして、ザーッという砂嵐の画面のまま、男のうめき声が流れる。電気が勝手に点いたり消えたりし、冷蔵庫の扉が半開きになっていることもあった。ある晩、娘が悲鳴を上げた。駆けつけると、鏡に小さな手形が無数についていた。まるで、外側から誰かが触れたかのように。
そして極めつけは、私自身が目撃したものだった。真夜中、喉が渇いてキッチンへ向かったときだった。冷蔵庫の前に、娘と同じくらいの背格好の少年が立っていた。
しかし――違和感があった。
髪は短いが、何かが変だった。パジャマのような、しかし見覚えのない白い服を着ている。背を向けたまま、じっと冷蔵庫の扉に手をかけている。
「……誰だ?」
私が声をかけると、少年はゆっくりと振り向いた。
顔がなかった。
そこにあるはずの目も鼻も、ただの黒い穴になっており、ぽっかりと虚無の闇が広がっている。口だけが異様に大きく裂けており、にたりと笑っていた。
悲鳴を上げて電気を点けると、そこには誰もいなかった。
私は恐怖に取りつかれた。SNSで占い師、霊媒師を探し、次々と調べた。しかしどれも胡散臭いものばかりだった。そんなとき、ふと目に留まったのが「幽霊探偵」という言葉だった。
東京都荒川区日暮里。都会でありながら、どこか古き良き下町の雰囲気を残す街。駅前には商店が立ち並び、古着屋や布地問屋が軒を連ねている。外国人観光客が多く行き交い、活気があるが、一本路地に入れば昔ながらの静けさが漂う。
私は、そんな日暮里の雑居ビルにある旅行雑誌社を訪ねた。目的はただ一つ、幽霊探偵――伊田裕美に会うためだった。
社内では、裕美が編集長の伝兵衛にこき使われていた。
「おい伊田! 今度のルポの締め切り、明日だぞ!」
「ええっ!? まだ取材すら終わってないんですけど!」
「細かいことを言うな! 明日が締め切りなら、今日中に書けるだろ!」
「そんなわけないでしょうがっ!」
伝兵衛は豪快に笑いながらデスクへ戻った。そんなやり取りを聞きながら、私は改めて裕美に声をかけた。
「伊田裕美さんですね。話を聞いてほしいんです。」
カフェに移動し、私はこれまでの出来事を話した。10数年前のある出来事、そして最近見た夢について。
「夢の中で、コウモリが私の前に現れたんです。そいつは成功を褒めてくれたんですが……そのあと、こう言ったんです。」
『娘が15歳の誕生日になったら俺にくれ』
「そんな約束をあのときしていないじゃないか!」
『また、すべてを失いたいのか?』
最初はただの悪夢だと思った。しかし、毎晩、同じ夢を見るようになった。コウモリの声が耳元で囁く。
『あと○○日』
気がつけば、残りはあと5日になっていた。
「お願いです。私と娘、家族を助けてください。あのときなら死ねた。でも今は、家族のために死ねないんです。」
私は必死だった。裕美は黙って私の言葉を聞き、しばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。
「……わかった。あたしが調べてみるよ。」
その瞬間、私は安堵し、涙がこぼれた。
第4章:東尋坊の謎と3000万円の秘密
裕美は考えていた。すべての鍵は東尋坊――斯波がかつて自殺を図ろうとした場所にある。だが、それだけではない。この事件の背後には、過去に起こった「3000万円の消失事件」が関わっている可能性が高かった。
裕美は数十年前の新聞記事や警察資料を調査し、事件の記録を洗い直した。そして、ついに見つけた。
反社会勢力の片島和人。
この男はAV業界を食い物にする蛭だった。
片島は、業界の監督や女優を脅し、みかじめ料をふんだくることで金を巻き上げていた。そしてある日、彼は有名なAV監督を脅し、みかじめ料として3000万円をぶんどった。
しかし、被害者であるAV会社の社長が警察に被害届を提出したことで、片島は急いで逃亡することを余儀なくされた。
その後、片島は行方不明となる。
捜査の過程で分かったのは、彼が福井県出身であり、東尋坊周辺の地理に詳しかったということだ。さらに、彼は地元の旧家である大牟田家についても知識があった。
捜査記録によれば、片島は大牟田家の土葬墓に金を隠し、その後、逃亡を図ったとされている。しかし、彼の運命はあまりにも皮肉だった。
片島は逃走中、心臓発作を起こし、東尋坊の崖から海へ墜落。死亡が確認された。
当然、警察が発見した彼の遺体には、3000万円はなかった。
裕美は静かに呟いた。
「お金の謎はこれで解決した……。でも、今度の相手は何なのか、まだわからない。」
――
湯川寺での準備
裕美は、事件の鍵を握る何かと戦う準備を進めていた。向かった先は、福井県にある湯川寺。この寺には、古くからの霊的な力を持つ僧侶がいる。
彼の名は村田蔵六。
この男は、霊的な存在を封じるための秘術に長けている。裕美は本堂へと通されると、意を決して上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着まで脱ぎ去った。そして、完全に裸の状態で蔵六の前に座った。
「全身に梵字を書いてください。」
蔵六は目を細め、ゆっくりと筆を手に取る。
「裕美ちゃんの生まれた姿を拝めるなんて、これも役得じゃな……」
裕美は、じっと彼の視線を受け止めた後、静かに微笑んだ。
「そんなにじっと見つめられると、恥ずかしいです……。それより、早く梵字をお願いします。」
蔵六は喉を鳴らし、照れ笑いを浮かべながらも、ゆっくりと筆を動かし始めた。顔を除く全身に梵字を描く儀式は、呪詛や怨霊の干渉を防ぐためのものだった。冷たい墨が肌に触れるたび、裕美は小さく息をのんだ。
全身に梵字が描かれ終わると、蔵六は彼女に向かって言った。
「これで霊の直接的な干渉は防げるじゃろう。しかし、万が一に備えて、これを持っていくがいい。」
蔵六が差し出したのは、2つの霊具だった。
ひとつは、「たむならの鏡」。
もうひとつは、「たむならの剣」。
どちらも強力な呪術的な力を持つとされる秘宝だった。
「これを隠し持っておけ。いざというとき、必ず役に立つ。」
裕美はそれらを慎重に手に取ると、深く頷いた。そして、すべての準備を整え、いよいよ東尋坊へ向かう決意を固めた。
第5章:対決!幽霊探偵 VS 呪われし者
「今日は満月。たむならの鏡が使えるわね。」
裕美は月を見上げた。夜空に浮かぶ満月の光が、彼女の手にしたたむならの鏡を静かに照らしている。この鏡は、月の光を浴びることで最大の力を発揮する。そして、今夜こそが決戦の時だった。
――
東尋坊
荒波が岩壁に砕け散り、轟音を響かせる。満月の下、険しい崖の上に立つ裕美。彼女は深く息を吸い、声を張り上げた。
「おーい、斯波さんの娘、恭子さんを連れてきたわ! さあ、出てきなさい!」
あえて霊を挑発するように叫ぶ。風が一瞬止まり、周囲の空気が凍りついた。
その瞬間、地面がざわめくような低い笑い声が響いた。
「ふふふ……そんな嘘に騙されるとでも?」
闇の中から、巨大な白い霊がゆらめきながら姿を現した。それはまるで、巨大な塊のような存在。明確な顔や形があるわけではない。だが、異形のエネルギーをまといながら、すさまじい速度で裕美に襲いかかってきた。
「っ……!」
裕美は反射的に後退りした。足元の岩が崩れかける。強烈な霊気が吹き荒れ、髪が舞い上がる。
戦いが始まった――。
霊の攻撃は激しかった。巨大な腕のようなものが闇の中から伸び、裕美を打ち据えようとする。彼女は何度も身を翻し、間一髪で攻撃を避けた。しかし、そのたびに強風が巻き起こり、足元をすくわれそうになる。
「……今よ!」
裕美は、タイミングを見計らい、たむならの鏡を掲げた。ちょうど満月の光が降り注ぐ。鏡が光を反射し、霊の中心に向かって一筋の閃光が放たれた。
ズドン――!
光が霊を貫く。瞬間、耳をつんざくようなうめき声が東尋坊全体に響き渡った。
霊は苦しみ、のたうち回る。しかし、それでも完全に消滅したわけではない。
「……これで勝ったと思うなよ。」
不気味な言葉を最後に、霊の姿は闇へと消えていった。
「……まだ終わっていない。」
裕美は確信した。
――
夜の静まり返った東京都世田谷区九品仏――斯波家
夜の静けさに包まれた住宅街。斯波家では、家族が集まり、恭子の15歳の誕生日を祝っていた。テーブルには豪華な料理とバースデーケーキ。
しかし、斯波は祝いの席にいながらも、どこか落ち着かなかった。
(あの事件……本当に解決したのだろうか?)
不安が胸をよぎる。そんな中、外の闇がふいに揺らいだ。
ゴォォォォ……
突如として、家の中の空気が一変する。
「……誰か、いるのか?」
斯波が思わず立ち上がったその瞬間、闇の中から霊が現れた。
「斯波……娘を頂く。」
闇の中から響く、低く不気味な声。
「15歳の娘を喰らえば、我は更なる100年の寿命を得るのだ。」
恭子が恐怖に凍りつく。斯波も妻も、息子までもが身動きできずにいた。
「そうはさせないわ!」
鋭い声が響いた。
裕美だった。
彼女はすでに準備を整え、たむならの剣を握りしめていた。
「やっぱり……まだ消滅していなかったのね。」
霊はついに正体を現した。――それは、巨大なオオコウモリの姿をしていた。
――
決戦――裕美VSオオコウモリ
オオコウモリは、地獄の風を巻き起こしながら飛び回る。その翼の一振りで、家具が吹き飛び、家の中に嵐が巻き起こる。
「たむならの剣……受けなさい!」
裕美は渾身の力でたむならの剣を投げた。
ズシュッ――!
剣は一直線に飛び、オオコウモリの胸に深々と突き刺さった。
「グギャアアアアアアアアア!」
霊は悲鳴とともに消滅した。
事件は終わった。斯波も、恭子も、妻も、息子も――皆、震えながら裕美を見つめていた。
「……あの3000万円の由来、話しておきますね。」
斯波は息をのんだ。
第6章:呪縛の終焉
湯川寺の静寂の中、裕美は湯殿へと向かった。長い戦いを終え、全身に描かれた梵字を洗い流す時が来たのだ。
湯桶を手に取り、ゆっくりと湯を肌にかける。ぬるりとした感触とともに、墨が水に溶け、淡い模様を描きながら流れ落ちていく。まるで、まとっていた重荷が剥がれ落ちるようだった。
湯殿の戸をそっと開くと、ほのかに立ちこめる湯気が頬を優しく撫でた。灯籠の明かりがぼんやりと湯面に映え、湯の波紋が揺れるたび、まるで生き物のように煌めく。
静かに湯の中へと足を入れ、肩まで沈む。熱がじんわりと体に染み込み、硬くこわばった筋肉がほどけていくのがわかる。静かに息を吐き、そっと目を閉じる。
指先で湯を掬い、ゆるやかに肌をなぞる。首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸のふくらみへ。心臓の鼓動がかすかに速まるのを感じる。疲れとともに、どこか奥底に沈めていた感覚が呼び覚まされていく。
湯の中で、そっと指が滑り込む。ひとり、静寂の中で身を委ねる解放感。かすかな波が揺れるたび、肌の感触が水のぬくもりと混じり合う。指が秘密の花園に触れ、いつしか上下している。
「いけない……あたしの悪い癖ね。」
かすかに笑みを浮かべ、そっと手を引く。今はただ、心と体を静かに鎮めるとき。名残惜しさを抱きながら、湯に身を委ね、裕美は微睡みの中へと溶け込んでいった。
―完―
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『月なき夜の女霊』は、これまでの幽霊探偵シリーズとはまた違った雰囲気を持つ作品となりました。今回のテーマは、怨念と復讐、そして「何をもって怨霊を鎮めるのか」という問いです。果たしてすべての怨霊は浄化されるべきなのか、それともその怒りを理解し、受け止めるべきなのか——。
伊田裕美という探偵は、単に怪異を退治するだけの存在ではありません。彼女は常に、霊の背景にある人間の感情や事情を探り、最適な解決策を模索し続けます。今回もまた、彼女なりの方法で事件を終わらせましたが、読者の皆様の目にはどのように映ったでしょうか。
この物語を通じて、読者の皆様に少しでも恐怖と興奮、そして物語の余韻を感じていただけたなら幸いです。また次回作でも、伊田裕美とともに未知なる怪異の世界へと足を踏み入れていただければと思います。
また次の事件でお会いできる日を楽しみにしています。




