戦慄の沼神(せんりつのしょうじん)
読者の皆様へ——
ようこそ、「幽霊探偵・伊田裕美」の世界へ。本作『戦慄の沼神』は、古くからの伝承と現代の開発が交錯する、不可解な怪奇事件を描いた物語です。
日本各地には、かつて神聖視された自然の領域が数多く存在します。沼や湖、森や山には、古くから「何か」が宿ると信じられ、人々はそれらと共存しながら生きてきました。しかし、時代の流れとともに、それらの存在が忘れ去られ、あるいは顧みられなくなったとき——時に、異変が起こるのです。
伊田裕美は、そんな「見えざる世界」に敏感な幽霊探偵。そして、彼女の旅は単なる心霊現象の解明にとどまらず、土地の歴史や、そこに関わる人々の思いを紡ぐものでもあります。本作では、沼にまつわる神秘と恐怖、そして「だき姫」という存在の悲しみが織り成す一つの事件を描きました。
読者の皆様も、もし旅先で「何か」の気配を感じたなら、そこに宿るものの声に耳を傾けてみてください。本書が、そんな世界への扉を開く一助となれば幸いです。
それでは、物語の幕を開けましょう——
登場人物
伊田裕美:幽霊探偵、旅行ルポライター
伝兵衛:旅行雑誌編集長
【怪奇現象】
それは、ある地方都市の片隅にひっそりと存在していた。人々が長年、近づくことを避けてきた薄暗い沼。そこにまつわる噂は幾度となく語られ、恐れられてきたが、時代の流れはそれを許さなかった。都市開発の名のもとに、沼の埋め立てが決定されたのだ。
最初の異変が起こったのは、工事が始まって数日後のことだった。朝、作業員の一人がいなくなった。彼の同僚たちは、昨夜まで酒を飲みながら笑っていた彼が忽然と姿を消したことに驚きを隠せなかった。警察が捜索を行うも、手がかりはまるで見つからない。ただ、彼の作業服の袖が湿った土の上に落ちていた。
その後も、工事関係者が次々と行方不明になっていった。まるで、沼に引き寄せられるかのように。
夜になると、工事現場に不気味な影が現れた。誰もいないはずの場所で、黒くうごめく影が建設機材の間を這いまわる。そして、遠くで聞こえるのだ。「やめてくれ……」「助けて……」——そんなか細い声が、冷たい夜風に紛れて響き渡る。それは、まるで何かが水の底に引きずり込もうとしているかのようだった。
さらに奇怪な出来事が続く。すでに水の干上がった場所に、ぬめった手形が残されていた。まるで、水の中から何者かが這い上がったかのように、ぬるりとした跡が地面に続いている。そして、工事車両が次々と故障し、時には原因不明のまま水没するという異常事態が起こった。まるで、見えざる手がそれを引きずり込んでいるかのように。
作業員たちは、日に日に恐怖を募らせ、誰もが口を閉ざしながら、ただ目を逸らすしかなかった。彼らは知っていたのだ——この土地には、決して怒らせてはいけない“何か”が眠っていることを。
【沼で異変が起きている】
工事請負人の担当者、工事為景は、見るからに土建屋らしい風貌をしていた。ごつごつとした大きな手、日に焼けた顔、無骨な口調。しかし、その屈強な男でさえも、この沼で起きている異変には抗えない何かを感じていた。
工事が始まって以来、不可解な事故や行方不明者の発生が後を絶たない。作業員の中には、夜中に黒い影を見たと話す者もいた。「沼の底から何かがこっちを見ていた……」と、恐怖に顔を引きつらせる者もいた。
このままでは、工事を続けることはできない——そう考えた為景は、ついに県議会議員大伴のもとを訪ね、工事の中止を直訴することにした。
「何を馬鹿なことを言っているんだ!」
県議会議員は机を叩きながら、一笑に付した。
「工事を止める?そんなことが許されると思っているのか?お前がそんなことを言うなら、業者を変えるぞ!」
為景は悔しさに歯を食いしばりながらも、頭を下げる以外道はなかった。彼には雇われの身である以上、決定権はないのだ。
しかし、姑息な県議はすぐさま別の業者を探し始めたものの、奇妙なことにどこも契約を引き受けようとしなかった。噂はすでに広がっていたのだ。この工事に関わった者は、次々と不可解な事故に見舞われる——それを知った他の業者たちは、一様に恐れをなしていた。
県議会議員・大伴は帰宅途中、後部座席で腕を組みながら眉をひそめた。
「まったく、科学の時代に迷信に惑わされやがって……」
運転手は無言でハンドルを握り、夜の闇を走る車内にかすかに湿った空気が忍び込む。道路の両脇には、夜露に濡れた森が広がっていた。
突如、異様な影がフロントガラスを覆った。ぬるりとした黒い腕が車体を這い、吸い付くような音とともにガラスを歪ませる。運転手が驚いてブレーキを踏むが、すでに手遅れだった。
「な、なんだこれは……!?」
闇の中から現れたのは、異形の怪物――だき。
その体は粘り気のある泥のようにうごめき、無数の赤い目が、不規則に開いたり閉じたりしていた。長くねじれた腕が車のドアを軋ませ、ゆっくりと大伴と運転手を包み込んでいく。
大伴は恐怖で身動きが取れなかった。叫ぼうとしたが、声が出ない。だきの口が裂けるように開き、中から黒い霧が流れ出した。
「やめろ!助け――」
次の瞬間、だきの長い腕が二人を絡め取り、闇の中へと引きずり込んだ。
沼の静寂が戻るころには、車も二人の姿も跡形もなく消えていた。
ただ、湿った風が、不吉なざわめきを運んでいた。
沼の異変は、すでに人々の間で囁かれ始めていた。
【幽霊探偵・伊田裕美登場】
工事は一向に進まなかった。作業員たちは次々と辞め、現場は荒れ果てたまま放置されている。そんな中、沼の近くの宿に滞在していた伊田裕美は、旅行記事の執筆をしながらも、この不可解な現象に強く惹かれていった。
「……どうも妙ね。これはただの事故じゃない」
裕美は自身の好奇心と探偵の勘に導かれ、沼について詳しく調べ始める。まずは地元の古老や歴史に詳しい人物に話を聞き、さらに村の古い神社や寺院に残された記録をあたることにした。
彼女は旅ルポライターとしての経験を生かし、地元の老人たちから話を聞くうちに、一つの名前が浮かび上がった。「だき姫」——沼に宿ると言われる精霊の名だった。
裕美はさらなる手がかりを求めて、村に古くから伝わる寺院「春園寺」を訪れることにした。寺の住職は、長い白髭をたくわえ、深い皺の刻まれた顔を持つ老人だった。その鋭い眼光は、まるで全てを見通しているかのようだった。彼は静かに彼女の話を聞き、奥から古い巻物を取り出した。
「この村の由来、そして沼と村人の関係について記されたものです。……だき姫についても、ここに記されています」
その伝承にはこうあった——
【沼の女神信仰】
だき姫は、かつて沼の守護者として崇められていた存在だった。沼に棲む精霊であり、その正体はスッポンの化身とも言われる。噛みついたら決して離さない強い執念を持ち、怒らせるとその本性を現す。普段は美しい女の姿をしているが、怒りに満ちると首が異様に伸び、目が赤く光り、鋭い牙を剥いて人を噛み砕くのだという。
沼が埋め立てられたことで、彼女は居場所を失った。そして、怒りと悲しみが交錯し、人々を沼に引きずり込んでいるのかもしれない——。
「人間が私の家を奪ったのだから、私も人間を奪う」
だが、もともと彼女は人を害する存在ではなかった。村人たちと共存し、長い間この土地を守っていたはずなのだ。
裕美は沼の異変の正体に一歩近づいた。だが、だき姫の怒りを鎮める方法はあるのか——?
【幽霊探偵と沼の聖霊との対決】
伊田裕美は満月の夜、最後の決戦に挑むため、沼の跡地に足を踏み入れた。湿った夜気が肌にまとわりつくような異様な空気が漂っている。辺りは静寂に包まれていたが、どこかで微かに、水が滴るような音が聞こえた。
「ここにいるのね……」
彼女は目を細め、ゆっくりと周囲を見渡した。すると突然、冷たい風が吹き抜け、闇の中から黒い影が蠢き始めた。影の中から姿を現したのは、首を異様に長く伸ばし、赤い光を宿した目で彼女を見据える、美しくも恐ろしい女の姿だった。
「なぜ、我を呼び覚ました……」
それは、沼の精霊・だき姫の本性だった。怒りと悲しみを纏い、幽玄な気配を放ちながら、彼女はゆっくりと裕美へと迫る。その体は徐々に変容し、白い肌は鱗に覆われ、口元には鋭い牙が覗く。
「……あなたの怒りは理解できる。でも、これはもう終わりにしないと」
幽霊探偵の言葉に、だき姫は嘲笑うように声をあげた。
「終わり……? 人間が我の家を奪い、我の怒りを封じようとするのか?」
すると、突如として沼の跡地に地響きが起こり、闇の中から無数の手が伸びる。それは、工事の犠牲となった者たちの魂だった。彼らは皆、だき姫の呪いによって、洞穴へ幽閉されていたのだ。
「助けてくれ……」「俺たちは何も悪くない……」
苦しげな声が響き渡る。裕美は彼らの魂を救い出すため、足を踏み出した。だき姫の呪縛を解くには、彼女の心を解きほぐし、怒りを鎮めなければならない。
「あなたは、かつて村人と共存していたはず。ここを守る存在だった。でも、人間の愚かさがあなたを追いやった……」
だき姫の目が揺らぐ。
「……昔のように戻れるとでも?」
「戻れる。あなたをこの場所に縛り付けているのは怒りじゃない。悲しみなのよ」
裕美は懐から、あるものを取り出した。それは、小さな壺の中に入った一匹のすっぽんだった。彼女はこれまでの調査の末に、この呪いを解く鍵がすっぽんそのものにあることを突き止めていた。
「新しい沼を用意したわ。そこに行って」
だき姫の赤い瞳が徐々に穏やかな光を宿していく。彼女は手を伸ばし、すっぽんを優しくすくい上げると、ゆっくりと消えていった。
その瞬間、幽閉されていた犠牲者たちの魂が光に包まれ、一人また一人と解放されていく。辺りには清らかな風が吹き抜け、暗闇は次第に晴れていった。
すべてが終わった。
翌朝、裕美は村の人々に新しい沼を見せた。そこには、悠々と泳ぐすっぽんの姿があった。
「これで……本当に終わったのね」
彼女は静かに沼を見つめながら、旅ルポライターとして新たな記事の構想を巡らせていた。
【エピローグ】
湯煙がゆらりと立ちのぼる。ほのかに硫黄の香りが鼻をくすぐる温泉の湯に、伊田裕美はゆっくりと身を沈めた。
熱すぎず、ぬるすぎず、絶妙な温度の湯が全身を包み込む。肌にまとわりつく湯の感触は、まるで柔らかな絹のようで、わずかに揺れる水面が光を反射して、うっすらとした金の波紋を描く。汗ばむ額にひんやりとした夜風が心地よく、ほっと息をつく。肩まで浸かると、疲れがじんわりと溶けていくようだった。
指を軽く伸ばせば、湯の中でしなやかに踊る。細やかな泡が弾けるたび、白く滑らかな肌がしっとりと潤い、わずかに色づいた頬を照らす湯気が、ほんのりとした官能を孕んでいた。浴衣の帯を解いた瞬間の解放感を思い出しながら、ふうともう一度息を吐く。
ふと、浴場の向こうから楽しげな声が響く。宿泊客たちの穏やかな談笑が、温泉の静けさに溶け込むように響いていた。遠くでは、かすかに虫の音が夜の帳を揺らしている。
のぼせる前にと、名残惜しげに湯を後にすると、ふわりとした浴衣を肩に羽織る。熱がこもった身体に、冷えた空気が甘やかにまとわりついた。
手に取ったスマホが震える。画面には「編集長 伝兵衛」の名。
「……はいはい、やりますよ」
苦笑しながら応じると、電話越しの伝兵衛は満足げに咳払いをした。
その夜、旅館の女将たちと工事請負人たちは、裕美に郷土料理のあんこう鍋と地酒を振る舞った。鍋の中でぷるりと揺れる白身に、裕美は唾を飲み込む。
「これは、絶品ですね……」
とろりとした旨味が口いっぱいに広がり、じわりと胃の底から温まる。地酒のほのかな香りが、舌の上でほどけていく。労をねぎらうような笑顔が、囲む人々の顔に浮かんでいた。
こういう夜も悪くない。
湯の余韻と、あたたかなもてなしに包まれながら、裕美は静かに杯を傾けた。
だが、彼女の戦いはまだ終わらない。
幽霊探偵の戦いは、これからも続いていくのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『戦慄の沼神』では、日本の土地に根付いた「聖なるもの」との関わりをテーマにしました。開発と信仰、現代と伝承——それらが衝突することで生まれる悲劇は、決してフィクションの中だけの話ではありません。
物語の中で登場した「だき姫」の伝承は架空のものですが、日本には類似する神話や怪異が数多く伝えられています。人間はしばしば、自分たちの利益のために自然を改変し、それに宿るものの声を無視してしまいます。しかし、何かを壊したとき、その「何か」もまた、人間に対して手を伸ばしてくるのかもしれません。
幽霊探偵・伊田裕美の旅は、これからも続きます。彼女が次にどんな怪奇事件に遭遇し、どのようにそれを解き明かしていくのか——それはまた、次回の物語でお会いできる日までのお楽しみです。
では、また次の旅先で——
著者より




