霞の中の龍野城 7
冬の寒さが和らぎ、春の兆しが見え始めても琴姫の祈りは届く気配がなかった。
「おおい、ここでいいのか」
八幡様の直ぐ近くまで堀を切り、また残土で土塁をつくる作業が続いている。
敵の侵入を防ぐ切掘りや土塁は、龍野城建設当時から備えられている。兄上は、更に増やすように指示を出していた。
活気とは違う騒がしさが、不安を煽っていく。
琴姫は作業の邪魔にならないよう、静かに八幡様に続く石畳を下って行った。道を半ばまで進んだところで足を止めた。
「ばかやろう、そんな置き方したら崩れるだろ」
「どこに置けって言うんだ」
少し離れた場所から怒声が聞こえる。こんな場面も増えてきた。
琴姫はしゃがみ込み視線を下げ、石の間の小さな花を見つめた。淡い紫の花びらが震えるように揺れた。
「大丈夫よ。八幡様の近くに根付いて賢かったわ。ここなら無事に生きて行ける」
菫に話しかけると、八幡様に祈りを捧げに再び石畳を下って行った。
薄暗くなり、作業をしていた者達が城を離れると琴姫は八幡様の石畳を歩く。土塁として運ばれた土の中、そして今後掘られる場所から菫の花を八幡様の近くに移動させる作業を開始するのだ。
暗くなり、周囲が見えなくなるまで作業を続けた。
「頑張って生きるのよ」
不在にしていると心配する者が出てくる。急いで立ち去ろうとしたが、城から揺らめく灯りが見えた。迎えが来たのだろうと、先に声をかけた。
「直ぐに戻るわ」
歩き始めた琴姫を、迎えの者はやんわり止めた。
「琴姫様、こちらが入り用ではありませんか」
「清忠様、お忙しいのに迎えに来てくれたのですか?」
揺らめく灯りの向こうで、清忠の柔らい笑みが見えた気がした。
「必要かと思い水を持ってきました」
琴姫の足下、なんとか土に埋まる菫を灯りが照らした。明るくなると、可哀想なくらい拙い植え替えに琴姫は恥ずかしさを感じた。
「あの、これは」
「根付くいいですね」
清忠は、桶から柄杓で水を汲み上げ菫の根元に掛けていく。水が土に染み込むと、菫は更に項垂れた様に下を向いた。
「根付くでしょうか」
不安になり呟いた言葉に、清忠は違う応え方をした。
「いつも我らが見落とす事に気がついて頂いて、ありがとうございます」
「そんな、私は何も出来なくて。広秀ですら兄上の手伝いをしているのに。城の中の事も、侍女達の方が上手にできるし。作業をされてる方に私が声を掛けると、雰囲気がおかしくなるし。父上が気に入っておられた琴も、奏でる事が出来なくて。私は、役に立てなくて」
言い始めると、止まらなくなった。
「ごめんなさい、みんな懸命に動いているのに私だけ弱い事を申しましたね」
気持ちを立て直そうと顔を上げると、近くで琴姫を見下ろす清忠と視線が合った。
「琴姫様、少しこちらでお待ち下さい」
直後、視線を外され去って行く清忠。
琴姫は残された小さな灯りで菫を照らした。
「何も出来ないのに、私は清忠に慰めて欲しかったのかしら。姫と呼ばれているのに情けないわね」
菫は俯いたまま、琴姫の言葉に耳を傾けようとしない。
「そうね、あなたも大変なのよね。頑張って生きるのよ」
水やりを再開していると、ざくっと石畳を歩く音が近づいてきた。
「お待たせしました」
戻ってきた清忠は、琴と灯りを携えていた。
「八幡様に琴姫様の音を奉納しましょう」
清忠は琴姫の横を通り、鳥居を潜り琴を置く場所を探し始めた。やがて、平たい土地に設置すると手巾を出して琴姫が座りやすいように敷いてくれた。
「琴姫様、お願いします」
返事をする間もなく、清忠は懐から横笛を取り出し奏で始めた。慣れ親しんだ、清忠の笛の音。気がつくと琴姫の指先は琴糸に触れていた。
高く澄んだ清忠の笛の音。寄り添う琴の音。
ああ、この戦国の世にあって幸せを感じてしまう。私は、こんなにも琴を奏でるのが好きなのだ。
琴姫は、何もかも忘れて心のままに奏で続けた。
どれくらい経ったのか、灯りは消え月が真上から照らしていた。月から離れた場所で星が煌めいている。
「えっ、あれ、どうしよう」
何もかも忘れて琴を奏でてしまっていた。みんなが頑張っている時に申し訳なくて狼狽える琴姫に、清忠は正面に座って笑いかけた。
「久しぶりに楽しい気持ちになりました」
月明かりだけでは細部まで見えないが、清忠の声と僅かに見える表情で言葉は本心に思えた。
くるるるるっ、安心したからかお腹が音を立てる。
「ごめんなさい」
慌ててお腹を抑えた。
「戻って夜のご飯を頂きましょう」
琴を抱えて、先を歩き出す清忠。
灯りは消えてしまったが、月の光が強い夜だった。青白く光る石の上を歩く事に問題は無い。
願うなら、もう少し清忠様のお顔を見ていたかった。
それでも、今の琴姫には、贅沢なひと時だった。
八幡様、この一時をありがとうございました。琴姫は頭を垂れて祈りを捧げた。