霞の中の龍野城 3
琴を携え、本丸に急いだ。
兄の横に清忠が控えている。やはり照れ臭くて、俯いてしまった。
「待たせてすまなかった。これより上洛して織田信長公に挨拶に行って参ろうと思う」
「上洛で、ございますか」
「ああ、信長公にご挨拶申し上げて来る」
それは、織田信長の掲げる天下布武。武力を持って天下統一を果たす野望を後押しする事を意味する。
「よろしいのですか」
琴姫の問には様々な意味が込められている。
「そうだな、琴は何がよろしくないと思う」
逆に問われ思案した琴だが、兄に問うてみる事にした。
「まず、播磨の情勢が不安定な中で兄上が不在になってもよろしいのでしょうか」
「大丈夫では無いかもしれない。我が龍野城を狙う者も居るかもしれん。そこで、信用出来る家臣の半分は城の守護に残ってもらう」
琴の後ろに控えていた広秀がおずおずと前に出てきた。
「城に人を残して兄上は大丈夫なのですか」
兄の身を案じているのだろう。
「織田信長とは、気まぐれな人と聞いている。気に入らなければ家臣が多い謀反だといいががりを付けて殺される可能性もある。なので、家臣は少ない方が良いだろう」
「嫌です。兄上が危ない場所に行くなんて。お止め下さい」
広秀の声に嗚咽が混ざる。
「行かなければ、もっと酷いことになる。上洛することが最善と判断したのだ、広秀」
兄は幼い弟の傍に寄り添い、頭を撫でた。
「心配してくれるのは、嬉しい。だが、もしもの時は広秀。お前が城主にならねばな」
兄、広貞は優しく弟を諭している。なのに、何故か琴は不安でたまらない。
「嫌です。兄上が城主です。僕は早く大人になって兄上をお支えするのです」
「そうだな、広秀が助けてくれると嬉しい。留守の間、琴と城の事を頼むぞ。なに、清忠も残していくから大丈夫だ」
「清忠殿もですか?兄上とご一緒しなくてやよろしいのですか」
兄である広貞と常に行動を共にしてきた清忠が、ここに来て離れることに違和感を感じる。
「清忠の父が同行する。これより、家臣たちの親と子は別れて行動する。意味がわかるか」
「分かりません」
素直に答える広秀。薄々、意味がわかった琴姫は拳を握りしめた。
「琴姫様、お力を緩めて下さい」
清忠がそっと声を掛けてきた。
「琴は分かったのだね。そう、こちらが織田信長公の不興を賜り龍野に帰れない時に戦力が偏らないようにしている。もしもの時は頼む」
「嫌です。兄上は、龍野に必要な方です。兄上が居なくては行けないのです。私が人質になります」
「ならぬ」
広秀の決意に対し、兄は即座に否を唱えた。
「気持ちは嬉しい。覚悟も伝わった。だがな、私とて最悪の状況を考えての対策なのだ。広秀を人質に出さずとも乗りきる道に掛ける。皆で龍野を治める為に、信長への過分の礼銭が必要だった。その目処も着いたのだ」
兄は金の工面をする為に駆けずり回っていたのだ。
「申し訳ありません。何も出来なくて」
それは、琴姫も同じだ。父が毒殺され、兄である広貞が休む間もなく動いていても、琴姫の日常は大きく変わりはしなかった。
「よい、これから学んでくれ。龍野の情勢については清忠から教わるように。いろいろ言うものもいるが惑わされるな」
「はい」
課題を与えられ、広秀は兄を正面から見据えた。
「兄上、どうか無事にお戻り下さい」
「ああ、琴よ聞かせてくれるか」
父と同じ事を、兄が言う。
「喜んで」
琴姫は琴を用意し、琴糸の張りを確かめた。
清忠が横笛を取り出すのを確認し、視線を送る。
琴と笛の音が響き始めると、空気が澄んでいく。
「早く祝言の段取りを進めなくてはな」
兄の呟きは、琴姫には届かなかった。
こうして、広貞は龍野城を出て織田信長に会いに行ったのだ。