霞の中の龍野城20
兄上様の気配が消えると、今まで聞こえなかった川の流れる音が耳に届くようになった。
「兄上が旅立たれました」
広秀は静かに呟くと、琴姫と清忠を正面から見据えた。
「私は城に戻りますが、二人は後から来てください」
いつになく、真剣な面持ちの広秀。
「この乱世において、時には自分に素直になる事も大切です。姉上も清忠も、辛抱ばかりです。この霧の中でだけでも本当の気持ちを話し合っていただきます」
「広秀、私は偽りを言葉にした事はありませんよ」
「そうではなくて。姉上、今しかないかもしれないんですよ」
琴姫の言葉に、苛立ちを隠せない。
「兄上様を失った今、私など些末な事ですよ」
姉の事より、龍野城の今後を考えて欲しい。
「ああ、もう。清忠、後は任せる。これが最後の機会だ」
広秀は、清忠の応える姿を確認する事なく踵を返し霧の中に消えていった。
後に残された二人は、無言だ。
真っ白な霧が、過酷な日常を遮断している。
川の音が、雑音を洗い流している。
清忠が動く気配がして、琴姫は身を強ばらせた。
今、何を言われても怖い。
だが、言葉はなく息を吸い込む「すっ」と聞こえた後、笛の音がした。
それは、子供が練習の為に奏でる音だった。順番に音を鳴らしていくだけのもの。逆に驚いて、琴姫は清忠を見てしまった。
「これは、初めて褒めて貰った曲です。覚えておられますか?」
「はい。私も、琴を始めたばかりだったので綺麗な音だと声を掛けた記憶があります」
父上様と母上様に守られて、世の中に幸せしか無かった幼い頃の話だ。
「綺麗な音ね」
幼い琴姫は、無邪気に言ったものだ。
「あの時、嬉しかったのです。広貞様にお仕えするのに、笛にうつつを抜かす時間など無いだろと叱られたばかりだったのです」
「私も琴をします。いつか一緒に奏でで欲しいですと、言いましたね」
それを、父上様が聞きつけて、清忠に笛を極めるように申し付けたのだ。
「迷惑ではありませんでしたか?」
清忠はゆっくりと頭を左右に振った。
「私の全ては広貞様の為にある。そう教えられて育ったので、笛を止めろと言われたら従っていたでしょう。でも、続けて学びたいと言うのが本音でした」
それだけ言うと、清忠は琴姫の前に両足を折って座り頭を下げた。
「広貞様の異変に気付けず、琴姫様の安寧を乱し、広秀様に苦労を強いる事になり、申し訳ありませんでした」
深く懺悔する清忠。
「頭を上げて、その様に考えた事などありません」
「琴姫様なら、そう言われると思いました。ですが、私は何一つ出来なかった自分が許せ無い」
不意に、枯れた菫を思い出した。
「清忠は、よくやっています。私など、菫すら生かすことが出来ない」
「琴姫様は、私を生かしてくれています。正直、広貞様が身罷られた時に死んでお詫びしようとしました」
「そんな!」
琴姫は言葉に詰まった。確かに、兄上様の最後を考えると有り得る話なのだ。
「広秀様に止められました。生き恥を晒しても、生きて欲しいと。今後は、琴姫様を守って欲しいと言われました」
「私を、ですか?広秀ではなくて?」
「はい。唯一残った姉上を守って欲しいと命じて貰えました。いつか、龍野の地に平和が訪れた時に、二人の奏でる音を聴きたいと。琴姫様こそが、私の生きる意味です」
「私などが、そんな」
「琴姫様が生きる意味なのです」
真っ直ぐに見据えられ、言い切られる。
私などにそんな価値があるのだろうかと、不安が押し寄せる。
だが、それを跳ね除ける喜びが心を支配していく。
直後、罪悪感が広がってくる。
清忠に応えることが出来ず、黙ったまま立ち尽くしていた。
「広貞様が命を落とされる程に苦しまれている時、私は琴姫様と二人で居られるのを喜んでいた。朝になるまで異変に気付きもせずにです。琴姫様と夫婦になった姿を思い、浮かれていた。私は自分が許せなない」
清忠は内に秘めた思いを吐露し、深々と頭を下げる清忠に、琴姫の瞳から次々に涙が零れた。
「私には母上様と過ごした記憶が少ししかありません。広秀が産まれて僅かのうちに身罷られたました。父上様は四年前、兄上様は」
涙で霞んだ先で、清忠が心配そうに琴姫を見上げている。その手が、差し出される直前で拳に変わり届かない。
「私こそ、役に立たない。出来ることは、有力城主を見つけて嫁ぐ事しか無いのです。なのに、清忠様。貴方が近くに居ると嬉しいと感じてしまう」
琴姫は、両手を胸の前で握り締めた。
「死なないで。生きて、、、生きて下さい。少しでも龍野城の為になる様に嫁ぎます。だから、」
「龍野城の為に、犠牲になると言うのですか?」
「違います。私は、龍野城の礎になりたいのです。皆が生きて行く為に」
「それを、犠牲と言うのです」
突然、清忠が大声で立ち上がった。
「龍野城の皆の為に、有力城主を見つけて嫁ぐ。相手の城に入って、龍野城を守るように立ち回る。どれだけ辛いことか、分かりますか?琴姫様だけが、どうして」
これ以上は、駄目だ。清忠が、琴姫の望む言葉を述べる前に終わらさなければならない。
「どうして、悲しむのです?私は、龍野城主の娘として、妹として、今は姉として役に立つ駒になれる事、嬉しく思っています。話は、ここまでにしましょう」
『姫』と呼ばれる者の矜恃が崩れないうちに、城に戻らねば。琴姫は、一人歩き出した。
「お待ちください」
清忠の願いを、無視する。
「琴姫様」
止まるな、と己に言い聞かせて足を動かした。
「行くな!」
泣き叫ぶような、一言に琴姫の足が止まる。
「嫌だ!行くな。行かないでくれ」
直後、琴姫は背後から抱き締められていた。




