霞の中の龍野城 2
琴姫は龍野城主、赤松政秀の娘として生を受けた。兄は広貞、弟は広秀という。
織田信長が京に上洛を果たし、父が姫路に兵を差し向けた時の琴姫は12歳。兄は17歳、弟は7歳だった。
西播磨の地において龍野城主と言えば権力者だった。だが、それも姫路城に出陣するまでのことだった。圧倒的な兵力で姫路の黒田孝高(後の官兵衛)に挑んだにも関わらず、彼らの善戦の前に敗退してしまったのだ。
姫路城を落とせなかった父は数日で歳を取ったように老けて見えた。家臣たちの一部は龍野城から離れていった。少し静かになった本丸で琴姫は琴を奏でていた。
「御一緒してもよろしいでしょうか」
笛を持った清忠がやって来た。
「はい」
顔を上げると頬が赤くなっていることに気づかれてしまいそうで、琴姫はいつも俯いていた。
そもそも、兄の乳兄弟である清忠と会話をした事はあまりない。清忠は常に兄の傍に控えていたし、琴姫も侍女や弟と過ごすことが多かった。
「お疲れですか」
一曲が終わると清忠が尋ねてきた。
「今日は上手く弾けませんでしたね」
「無理もありません。ゆるりとお過ごしください」
今日の音は精細さを欠いていた。立ち去る清忠の後ろ姿が見えなくなった時、咆哮が聞こえた。
「ぐおおっ」
激しく物が倒れる音。
「御館様」
父を呼ぶしか出来ない家臣の声。
「きゃああ」
鳴き声の様な悲鳴。
琴姫が部屋を飛び出すと、走る清忠の背中が見えた。琴姫も追いかける。
父のいる本丸の中心から悲鳴が途切れることなく聞こえる。
「父上」
不安が込み上げて、吐き気に変わる。
この頃、悪い事ばかりが立て続けに起こるのだ。
「琴姫様」
部屋に駆け込もうとした琴姫を自身の体で静止した者がいた。清忠だ。軽く抱きしめられる形で清忠が囁いた。
「今しばらく、お待ちください」
「なぜ」
「医師が到着いたしております」
良くない事があったのは明白だった。
夜も深くなる頃、琴姫と弟の広秀が兄の広貞に呼ばれた。
「父上が身罷られた」
広秀がビクッと体を震わせ嗚咽を漏らし始めた。
琴姫は信じることが出来ない。
「父上に会えますか」
兄の広貞は奥へと案内してくれた。
布団に横たわる父の顔には白い布が被せてあった。
「お顔を見てもいいですか」
琴姫の願いを、広貞は静かに叶える。白い布を取られた父の顔を見て、琴姫は心の臓がぎゅっと縮むのを感じた。
「父上」
手を差し伸べるのも躊躇う、変わり果てた父の顔。
顔色は土よりも黒く、眉は歪み、口を開ききり、苦悶の表情を浮かべたまま硬直していた。
琴姫達の母は、数年前に亡くなっている。原因は病死。少しずつ衰えて行ったが、血の気のない真っ白な顔に優しい表情を浮かべてこの世を去っている。
「父上は毒を盛られた」
「誰が、毒など」
琴姫の問に広貞は応えない。
葬儀は、城主とは思えないほど簡素なものだった。
父が憎まれていたと知ったのは冬の寒さが佳境に入った頃だった。
これが琴姫、13歳の記憶だった。
逢えなくなって、初めて知ることもある。
正月という行事を終えた兄は、琴姫を本丸に迎えた。家督を継いで城主となった兄は、日を追う事に疲れて見えた。
「琴は持って来ていないのか」
「すみません、二の丸に置いてきました。持ってきましょうか」
本来、城の本丸は政の話をする場として使われている。琴姫は二の丸で生活をしていた。琴もそちらに常備していたのだ。
「今はよい。父上が琴を聴きたくなる気持ちが今ならわかると思ったのだ。次に来る時は頼む」
琴姫は兄の正面に座った。
「承知いたしました。兄上、ご要件をお伺いできますか」
「うむ、その前に広秀も呼んでおる。暫し待て」
兄の言葉通り、パタパタと足音がして弟が顔を出した。
「遅れて申し訳ありません」
走ってきたのか息が弾んでいる。
「構わぬ。今後の話を伝えておきたくて呼んだのだ」
広貞が手ぬぐいで広秀の汗を拭いてやった。
「兄上、ありがとうございます。今後の話は私も聞いて良いのですか」
女子供には政の話は聞かせないのかと思っていたと広秀が仄めかす。
「私は若くして城主になどなってしまった。正直、お前たちの知恵も借りたいのだ」
広貞が語ったのは以下の事だった。
一つ、西播磨の情勢は混迷している事
一つ、備前の宇喜多直家の圧力
一つ、中国地方の毛利氏の勢力
そして、最大の懸念は織田信長と家臣たち。家臣と言えど、名だたる武将が揃っているのだ。
「そこで、琴」
「はい」
名を呼ばれ背筋を正す。兄の紡ぐ言葉は想像がついた。きっと、織田方への人質になって欲しいと言われるのだ。織田の重臣、荒木村重が「人質を差し出せ」と播磨に向かって来た事は琴姫の耳にも届いていた。
「お前には、清忠の元に嫁いで欲しい」
「はい。ええっ、と、嫁ぐのですか?き、清忠の?えっ、えええっ」
驚きと照れ臭さが相まって、言葉を上手く発することが出来ない。
「慌てるでない。いや、驚かせたか?」
「ええ、もう人質に行ってくれと言われるとばかり思っておりました」
「父上がな、憂いておられたのだ。織田信長は必ず攻めてくる。良くて人質、次に戦だとな。戦に勝つには播磨国が一丸となって挑まねばならぬとな」
その播磨は混迷している。良くて人質なら、兄が城主で妻も子も無い現状では琴姫か広秀が有力候補のはずなのだ。
「まさか、広秀を」
その先を言葉にする事は出来なかった。琴姫の直ぐ後ろで真っ青な顔で拳を握りしめる弟がいた。
「いや、広秀の人質は回避できるように考えている。琴よ、お前が人の目に留まったら人質に請われるかもしれんのだ。その、お前は美しいからな。女として危険があると父上が懸念されていた。そこで、清忠に嫁がせようと考えておられたのだよ」
「父上がそのような事を」
忙しい最中、琴姫を呼び寄せては黙って琴の音に耳を傾けてくれた父。父と交わした言葉は、先に亡くなった母より少ない。
琴姫の頬を、嗚咽とは違う静かな涙が伝って行った。
「有難くお受け致します」
こうして、琴姫は清忠に嫁ぐことが決まった。
清忠との婚約は整ったが、兄の広貞が忙しく休む間も無かったので乳兄弟の清忠も琴姫と会う時が持てなかった。
「姉上、兄上は私達の知恵を借りたいと言われましたが役に立てているとは思えません」
「そうですね。せめて兄上のお考えが分かれば良いのですが」
疲れた兄に琴を奏でたいと思っても機会すら訪れない。
冬も春も過ぎ、蝉の声が夏の暑さを増幅させる頃になって琴姫は兄に呼ばれた。