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霞の中の龍野城19

朝霧が辺りを覆い、隣に立つ広秀の姿さえも朧げにしか見えない。

「姉上、本当に良かったのでしょうか」

揖保川に向かう道中で、広秀が不安げに尋ねてきた。

「兄上様の事は、隠さなければなりません」

琴姫は、あえて『死』という言葉を避けた。

「分かっています。でも、これでは兄上の御霊が彷徨ってしまわれます」

「それでも、兄上様は存在していると思わせなければなりません」

織田信長は、広貞に播磨を任せようとしていた。広秀でも良いと言わせるには、弟は幼過ぎる。

それに、播磨の他の城主たちが龍野の地を攻めに来る可能性もある。

「兄上様の事が知れ渡れば、この龍野の地は淘汰されてしまうでしょう。広秀、そなたには辛い仕打ちをしていると分かっています。この業は、全て私が引き受けます。城主となる広秀は、見届けなければなりません」

琴姫は、手作りの小さな舟を抱きしめていた。葬儀を執り行わない代わりに、兄上様の御霊が無事に三途の川を渡れるように祈りを込めて舟を流すのだ。

「姉上、一緒にやりましょう」

「いいえ、これは私が成すべきことなのです」

朝霧の中足を進めると、川の流れが目の前に現れた。

琴姫は、迷うことなく川に入っていく。

川の水は冷たく、指先から痺れを感じたが厭わなかった。

「琴姫様、お待ち下さい」

川岸の草が、ざくざくと音を立て、琴を携えた清忠が現れた。

「止まりなさい。何故、来たのです」

「私が呼びました」

厳しい口調の琴姫に、広秀が割って入る。

「姉上、清忠にも手伝って貰うべきです」

「いいえ、私は清忠と祝言はあげません。故に、何もしてもらうつもりは、ありません」

龍野の地を守る力は激減している。自らの輿入れも、切り札にしなければならない。

もう、清忠との将来は望めない。

「はい、理解しております。ですが、広貞様は、我が主であり乳兄弟でもあります。一緒に送り出す事を、お許し頂きたいのです」

自ら発した事なのに、清忠に理解していると言われると、心がきゅっと嫌な音を立てる。

是も否も答えられず、立ち尽くす琴姫。

清忠は、川の流れを気にすることなくやってきた。

小さな舟に手を添え、

「広貞様」

と名を呼び、無言になった。

冷たい川水で足の感覚は消え始めていたが、清忠に触れそうな右腕だけが温かい。

「兄上様」

皆を守ろうと無理をし過ぎて、倒れた兄。冷たくなった頬を思い出すと、全ての熱に罪悪感を覚える。

「父上様と母上様の所に、無事にたどり着けますように」

琴姫に続いて清忠も言葉を発するのを待ったが、水が岩にあたる音だけが響いている。

「流しますね」

「はい」

静かに手を離すと、滑るように流れた舟は朝霧の中に消えていった。

「川から上がりましょう」

清忠に声をかけられ、琴姫は足を動かそうとした。

だが、凍えた足は打ち付けられた棒の様になり、前に出ようとした琴姫は倒れそうになった。

「危ない」

急な事に、手を差し伸べた清忠。自らの膝を川に着いて下から琴姫を抱きとめるように支えた。

「ごめんなさい」

慌てて離れようとしたが、足は棒のようになっている。

両手を清忠の肩に乗せ、彼の顔を見下ろす形で止まってしまった。

こんなに近くで清忠を見たのは、初めてだった。

「ごめんなさい」

再び、謝罪の言葉が出てきた。

一度目は、不甲斐なくも足が動かなくなった事へ。二度目は、支えられて喜んでしまった事へだ。

「琴姫様、動けますか?」

「はい」

肯定したが足の感覚は無い。清忠から離れたら最後、川に転がる姿しか想像出来ない。

だが、どうしても『助けて欲しい』と言葉が出てこない。

「失礼します」

琴姫の様子で悟ったのか、清忠は正面から抱きかかえて立たせてくれた。

「ごめんなさい」

小さな声で謝ると、清忠も小さく微笑んだ。

思わずその顔に見とれていると、体が浮く感覚の後で足が温かくなった。

「えっ、清忠」

「岸に着くまで、辛抱して下さい」

清忠は、琴姫を横抱きにしていた。

足が温かいと感じたのは、川の水から開放されたからだった。

「手を肩に置いて下さい」

躊躇ったが、不安定な川の中では言う通りにするのが最善だと判断した。

添える程の力で手を置くと、

「ありがとうございます」

お礼を言われ、心が痛んだ。

岸にたどり着くと、広秀が河原に御座を敷いて待っていた。清忠の持って来た琴が置かれている。

「清忠、姉上をこちらに。二人で兄上の為に奏でてもらいたい」

「はい、広貞様の御霊に届くように努めさせていただきます」

「姉上、足の方は大丈夫ですか?」

「少し冷えただけです。始めましょう」

清忠が笛をかなで、寄り添うように琴の音が響く。

二人の奏でる音は、真っ白な霧の中に溶け込み天に昇っていく。

兄上様が、ゆったりと座って聞いているような気がした。


「久しぶりに、琴姫と清忠の奏でる音がききたい」


最後の夜に語っていた兄上の顔を、思い出せない。

琴姫の脳裏には、目を瞑って口角を上げて耳を澄ます兄上の姿が浮かんでいた。

最後の弦を弾き終えると、自然に天を仰いでいた。

真っ白な朝霧の中に、白く輝く兄上の魂が昇っていく。

旅立つ姿を見せてくれたのだ。

「兄上様」

貴方は、どこまでも優しい。

琴姫は、流れ出る涙を拭いもせず天を見上げていた。









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