霞の中の龍野城14
人の形に膨れた布団は、寝息に動くことなく兄上様を覆っていた。
苦悶の顔を浮かべていた父と違って、兄上様は眠るように穏やかな顔だったが、血色だけが抜け落ちていた。
「兄上様」
そっと触れた指先から温かさは伝わってこない。
「嫌、嫌、嫌」
叫んでからの記憶は曖昧だ。
心に沸き起こる事を叫んで、髪を掻きむしって、畳に拳を叩きつけて、涙と嗚咽で苦しさのあまり咳き込んでも、広貞は動かなかった。
「琴姫様」
視界を遮られ温かさを感じた時、ようやく動きを止めた琴姫は、そこが清忠の腕の中だと気づくと罪悪感が沸き起こってきた。
両手でゆっくりと清忠を遠ざけ、何をするべきが考える。
「姉上、ここに居られますか?どうされました?」
騒ぎを聞きつけたのか、広秀がやって来ていた。
「入ってもよろしいですか?」
「待って」
咄嗟に静止した琴姫は、髪を直し涙を拭いて体裁を整えた。
「姉上」
不安そうな声に、琴姫は背筋を伸ばす。
直ぐ横に清忠が来てくれた。
「入りなさい」
琴姫が言うと、するっと扉が開く。
「中に入って閉めてくれる」
琴姫の言葉に素直に従う。
「広秀、兄上様が身罷られました」
広秀は、動きを止めゆっくりと布団に目を向ける。
「嘘です。昨日、一緒に政をしていこうと言われたではないですか」
広秀は、兄上様をみて琴姫同様泣き叫んだ。
その様が、琴姫を冷静にしていく。
これからは、私より歳下の弟が当主となる。
「頭を上げよ、辛い時ほど前を向け」
琴姫が告げると、広秀はゆっくりと顔を上げた。涙の乾かぬ目で見つめてくる。
「兄上様が父上様から送られた言葉です。
兄上様の座右の銘だとか。私たちに出来ると思いますか?」
広秀は、しばらく考えていた。やがて、口を開く。
「やらねばならぬでしょう」
「はい、私達で龍野の地を守らねばなりません。今、この時より広秀が御館様と呼ばれることになります。やりますか?」
琴姫の問いかけに、広秀は「はい」と応えたのだ。
私達は、あまりに弱く力を持たない。
琴姫と広秀は、感情を押し殺しやるべき事を粛々とこなす事にした。
二人は、広貞の名で家臣たちを招集したのだ。
広貞の座すべき場所に広秀が来ると、家臣よりざわめきがおこった。
「まずは、京より戻ったばかりの再びの招集を申し訳なく思う。本日、集まってもらったのは私、赤松広秀が家督を継いだ事を知らせるためである」
広秀の言葉に家臣達がどのような反応を示すのか、琴姫は黙って見つめた。
「我が兄、広貞は昨日身罷られた。現在の状況を鑑み、葬儀は最低限で行い兄上の死は出来る限る隠匿する。なお、これからの龍野に不安を感じるものは、この地を離れることを止めはしない。以上だ」
広秀が立ち上がろうとすると、お待ちくださいとの声が上がった。
「御館様が身罷られたとは、どうして」
「無理が過ぎたのだろう。昨夜、床に入られたまま」
広秀の声が震えかけ、言葉が途切れる。
「お顔を見させて頂くことは出来ますか」
「考えておこう」
それだけ述べて混乱する家臣を残し、広秀は退出した。
事実のみ告げて退出する迄、計画通りだった。
この後、家臣達がどうするのか?見定めるつもりだった。恐らく、龍野の地を去るものが増えると考えたのだが、周囲からすすり泣く声が溢れ始めた。
「儂らが無理をさせたのだ」
「若き、良き方だったのに。このご時世で無かったら、素晴らしい御館様になられていただろうに」
「頼りきりだったのだ。休まず働き過ぎたのだ」
口々に、悔やむ言葉を述べる家臣たちに琴姫は心を打たれた。が、感情を押し込める。
腹に力を込め、深く息を吸い込んだ。
「頭を上げよ!」
琴姫の声が高く響く。
「前を向け!」
敢えて(辛い時ほど)の言葉を抜き叫んだ。
「これより、播磨の地で生き抜いて行く。皆様、よろしいか」
現在。
美琴は、ここまでの記憶を強制的に見さされていた。
「止めて、私は来年受験なの。どうして、こんな記憶を見せるのよ。名前が似てるから?冗談じゃない。私は琴姫とは違う!私の人生があるの。こんなの、迷惑よ」
大声で叫んだ。
嫌だったのだ。
広貞の死が。
見たくなかった。
感じたくない、琴姫の感情が流れ込んできた。
本気で拒絶した。
すると、この先見なくなったのだ。
彼女がどうなったのか、美琴の中でこの先の物語は動かなくなった。
受験に合格して、大学生になった今も。
琴姫の物語は止まったま間になったのだ。
霞の中の龍野城、ここで一区切りになります。
広貞と広秀は史実として存在した方です。
この場面はどうしても避けられず、悲しいことになってしまいました。
お話はもう少し続きます。