『奇跡の王女』と呼ばないで
初恋の物語です。
イースティア王国、王立貴族学校のとある寮の一室でのことだ。
「ああ、実家に帰りますと言えたらどんなにいいかしら!」
セレネは寮の自室でベッドに倒れ込み、シーツを両手で掴んで、ムニムニと揉みしだきながら独り叫んだ。
ごく明るい金髪は見事な癖っ毛で、三つ編みにしているのにあちこち撥ねて先端まで光る。別に光らせているわけではないのだが、近くの照明や太陽の光を全部吸収してきたかのように、少しでも明かりのある場所では光っているように見えるのだ。それほど細く、明るい金髪をしている。
それはさておき、むすっとした顔を上げたセレネは、本日の朝起きたばかりの不愉快な出来事を思い出す。先ほどから何度も思い出しては怒りのぶつけどころがなくてシーツを揉んでいるのだが、同室であり今は不在の同級生パラスティーヌには「お行儀が悪いからやめなさい、猫じゃないんだから」とよく叱られている。
そう、セレネの怒りにはちゃんと理由があり、不条理さが怒りの矛先を失わせている。
「家に帰りたい……この理不尽な社会なんて滅びてしまえ……私のせいじゃないもん……」
思春期真っ只中の十五歳の少女セレネは、社会に依存する貴族身分のくせにそんなことをのたまうのである。
サンレイ伯爵嫡子、ベルネルティ公爵家預かりの貴族令嬢セレネ・サンレイ。それがセレネの貴族としての身分であり、名前だ。
家の事情で遠縁のベルネルティ公爵家に預けられてはや十年。とっても厳しい養父のベルネルティ公爵が、世間を見てこいとセレネへ貴族学校入学を命じてまだ数ヶ月だが、すでにセレネは退学したくてしょうがない。
なぜなら、セレネの婚約者候補であったジャン=ジャック・マードック——ド・ヴィシャ侯爵家預かりの天才が恋仲と思しき女性と歩いているところを見てしまったからだ。
確かに、まだセレネはジャンの婚約者ではない。というか、諸々の家の事情があってセレネが実家に帰れないのと同様、ジャンもまたド・ヴィシャ侯爵の婚外子という微妙な立場から、さっさとどこかに婿入りする話を決めたいがためにちょうどいいセレネとくっつける話が出ているだけだ。
つまり、外野が盛り上がっているだけで、セレネもジャンもまだお見合いすら行っていないのである。ジャンに至ってはすでに恋人がいるらしいのだから、いきなりどこぞの貴族令嬢の小娘を連れてこられても困惑するだけだろう。
セレネだって、それは分かっている。社会の仕組み、物事の道理が分からないほど愚鈍ではない。
だが、思春期の少女の心は傷ついた。
つまり、それとこれとは話が別だ。
「あー、これみよがしに私の目の前でいちゃいちゃするカップルは全員国外追放とかにならないかな……そうすれば、ジャンと恋人のユーギットの顔を見ずに済むのに。というか、私が他所に行けばいいんだけどさ、だけどさ! だから実家に帰りたいのに!」
もはや思考が支離滅裂になってきたが、セレネはシワだらけのシーツを握りしめたままだ。ぐるぐる勝手に回る思考をどうにか抑えたくて、でもどうすればいいのかさっぱり見当もつかない。
はあ、と大きなため息がセレネの口をついて出てきた。世の中は理不尽である、何もかもが自分の意思とは関係のないところで突っ走る。
ジャン=ジャックという男は、貴族学校の生徒ではなく、大学院生の数学教師だ。優秀な成績を修めた生徒が受けられる、王立大学校の授業料免除の奨学生であり、その頭脳を買われて貴族学校へ数学を教えに来ている。
何だか歳を食っているように聞こえるが、ジャンの年齢は十六歳だ。セレネと一歳しか変わらず、なのにすでに飛び級で大学、大学院にまで進学し、天才の呼び名高い。数学は若いうちじゃないといい頭の働きができないそうで、彗星のごとく現れた若き天才はあちこちで引っ張りだこだ。
ちなみに、ジャンはそこそこ顔もよく、十六歳だが大人びていて背も高い。煤けたような灰色の髪はいただけないが、将来有望であることは間違いないので女子の人気もある。
そこまで考えて、セレネははたと気付いた。
「……そんな恵まれた人間が、私と結婚なんてする? するわけないでしょ! 人をバカにするのも大概にしてよね! まったく!」
もはや、ため息さえ出ない。セレネが何をしようと、ユーギットという美人の伯爵令嬢に勝てないことも含め、何もかもが理不尽だ。
しかし、セレネに何ができるかと考えても、何も思いつかないのだ。婚約が成立するにせよ、破談になるにせよ、それともジャンが婚約を受け入れて浮気を続けようと、ただの貴族令嬢にすぎないセレネに一体何ができるというのだろう。
なので、こうすることにした。
「そうだ、やっぱり帰ろう。明日はお休みだし、一時帰宅くらい寮長も許してくれるでしょ……一応、お養父様にも連絡入れればまあ、連れ戻しにはこないだろうし」
セレネにはもう、問題の棚上げしかできない。一旦考えることをやめて、リフレッシュしたほうがいいのだ。
そうと決まれば、セレネの行動は早かった。さっさと荷物をまとめ、小型トランク一個を持って寮長のところへ向かい、適当に理由をでっち上げて一時帰宅の許可を得た。さらに走り書きの手紙を郵便ポストに放り込んで、準備完了だ。
あとは素知らぬ顔で大通りにある待合馬車に乗り込んで、久々の実家に帰宅だ。
そう、実家——サンレイ伯爵家ではなく、ベルネルティ公爵家でもなく——セレネの向かう先は、王都の郊外だった。
☆☆☆☆☆☆☆
セレネが貴族学校を飛び出した同日、ほぼ同時刻。
貴族学校の講義棟前にある渡り廊下の柱に、煤けた灰色の髪をした青年が背をもたせかけて立っていた。羽織っている王立大学校の制服である濃紺のボレロ式ジャケットがやけに立派で、錫色のメガネ、ライトベージュと暖色のベストが目立たないほどだ。分厚い本を小脇に抱え、紐で縛ったレポート用紙をペラペラとめくって目を通す。
そこへ、一人の女子生徒がやってきた。女性としては若干背が高く、ヒールの高さを足せば青年と同じくらいの身長になる。薄紅の詰襟のドレスは淑やかさと華やかさを両立し、彼女の大人びた美しい顔立ちとブラウンの長髪が際立つ。
女子生徒もまた、教科書やノートを胸の前に抱き、そこから十数枚ほどの紙束を取り出して、青年の挨拶とともに差し出す。
「ごきげんよう、ジャン。教えてほしいところがあるのだけれど」
挨拶もそこそこに、青年——ジャン=ジャック・マードックは紙束を受け取り、その表紙を一瞥した。すると、頬を緩ませ、感心する。
「ふむ、この論文は最新のものか。よく手に入ったね」
「お父様の伝手で、教授たちへ配布する写しの一部を王立大学校からいただいたの。次のページ、この数式は見たことのないものだけれど、何かしら?」
女子生徒——エールヴェ伯爵令嬢ユーギットは、ジャンがめくったページの末尾にある、まるで魔術のような複雑な数式を指差す。
それをジャンは、チラリと見ただけで数式の正体に気付いた。つい昨日、若手研究者たちの集まりで話題になったばかりのものだ。
「ああ、それは物理学者たちが最近好んで議題に挙げているもので、一般的にはまだ馴染みのないものだ。知らなくても無理はないよ」
「まあ、そうだったのね」
それから数回、質疑応答のやり取りがあったのち、ユーギットは「なるほど、まだまだ読み込み足りないわね。ありがとう」と感謝を述べて、ジャンが手放した論文の紙束を受け取る。
最新の数学論文についてなど、貴族学校の数学講師と生徒の会話にしてはなかなかに高度な話題だ。それも、ユーギットは女子生徒であり、数学が必修というわけでもない。むしろ女子は講義を受けられず、単位取得ができないため、聴講生として数学の講義に出席していた。その数学の講義で教えているのがジャンであり、おそらく男女合わせても今の貴族学校では随一の数学の才能を持つのがユーギットだ。
しかし、ユーギットは貴族令嬢だ。貴族学校を卒業すれば、結婚して家庭に入る。女性が数学など学んでも無駄だ、と世間一般では嘲られるように、ユーギットの数学への熱意が真に理解されることはないだろう。
ジャンとしては、そんな現状を嘆かざるをえない。
「ユーギットは意欲的で賢い。王立大学校に入ることも夢じゃないだろうに」
ユーギットはまあ、とわざと驚いたフリをして、やれやれと肩をすくめた。
「貴族令嬢にそんなことは求められていないわ。やるべきことなんて、淑女教育をまっとうして、いい家の殿方に嫁いで、後継を育てることだけよ」
「それが君の進むべき道なのか?」
「ええ、そうよ。そうすべきで、それ以外は私ではない人がやればいいの。だって、そうでなくて? 貴族というのは、その役割をまっとうする人間に与えられる身分よ。貴族としてやるべきことをやらず、他のことにかまけられるほど私は要領がよくないし、他人の目を気にしてしまう性分だから無理よ」
ユーギットのその言葉が、まるきりユーギット本人の意思であるわけがなかった。貴族令嬢が本心を口にしてしまえば、ろくなことにならないと騎士物語やロマンス小説が教訓として伝えるように、彼女たちは貴族令嬢という人形になることを望まれており、そうなるよう努める。中でも特別優秀なユーギットは、貴族令嬢という完璧な人形になりきることを期待される。
ゆえに、ユーギットはあるかもしれない未来を諦めているのだ。あるわけがない未来を望んでいれば諦めろと諭せるが、あるかもしれないのなら——本人も他人も希望が捨てきれないものだ。
だからと言って、ジャンにはどうすることもできない。彼女の境遇に、深い嘆息を贈るしかない。
「それがこの世の習いなら、致し方ないか」
「そう? あなただって、何かやるべきことがあるのではないかしら? 貴族の一員、と言っていいのか分からないけれど」
ド・ヴィシャ侯爵の婚外子に対してのユーギットの控えめな表現にジャンは苦笑しつつ、ユーギットの未来を揶揄した対価として自分のことを語る。
「ある天才を探している」
「天才? あなただって十分天才でしょうに?」
「ああ。僕よりもずっと……天才という表現はそぐわないな、『鬼才』と言ったほうが正しいかもしれない」
それはぼんやりとしていて、雲を掴むような話だ。
ジャンは生まれてこのかた、ずっと貴族の落胤という自身の身分のせいで嘲られてきた。自分だけならまだいい、母親までもが貴族に媚びへつらうだの、よその男を横取りしただのと陰口を叩かれ、散々な思いをしてきた。
その原因は実父であるド・ヴィシャ侯爵なのだが、彼は何の非難を受けることもなく、ただ後継を多く残しておくためだけにジャンを産ませたのだ。そんなことが許されるのは、彼が貴族であり、このイースティス王国では国王の側近や高位貴族は何をしても大抵許されるという悪しき常識が蔓延しているからだ。
「社会というものは、きっと維持するほうが大変なんだろう。だが、年月を経ていけばいずれ歪みが出て、大きな亀裂を産む。そうなったなら社会という器は一旦壊して、新しくしなければならない。そのとき、人間というのは必ずしもついてこられる者ばかりではなく、意図せず溢れてしまう者、抵抗できなかった弱者、見捨てられた孤児や老人、そんな人々は器の外に放り出されてしまうのだろう」
それゆえに、ジャンはこの国と貴族が嫌いだった。自分には数学の才能しかないが、ある日突然革命を起こす大人物が現れて、何もかもをひっくり返してくれないか……と、子どものように願っていたのだ。
そして、その一縷の望みを掴んだ。
「あなたが探しているのは、新しい社会という器を作る人? それとも、救世主のように放り出された人々を助ける人?」
「両方だ。両方をこなせてこそ、新時代を変革する資格のある為政者になりうる。だからこそ、『鬼才』は必要とされているんだ。なのに」
なのに、まだジャンはその人物と出会えてさえいない。手がかりは掴んでいるのに、出会うきっかけがないのだ。
嘆いてばかりではいられない、ジャンは前向きに、ユーギットに感謝する。
「ともかく、協力感謝する、ユーギット。君のおかげで、貴族学校に入る資格を得たのだから」
「大したことではないわ。私はただ、優秀な数学教師を招聘したかっただけだもの」
にっこりとユーギットは微笑む。ユーギットが貴族学校の怠惰な講師より、外部から優秀な数学の専門家を呼んで学びたかったというのは本音だ。そこへ、父のエールヴェ伯爵を通じてジャンと知り合い、数学講師として推挙したからこそ、ジャンは貴族でもないのに貴族学校への出入りを許されている。
これはチャンスだ。ジャンにとっては、待望する『鬼才』を見つけるのは今しかない。
「なのに、未だ探している相手と出会うことさえできていないなんて情けない……はあ、どこにいるのやら」
いかに天才といえど、ぼんやりとした人物像だけで、初等部から高等部まで数百人がいる貴族学校から一人を探し出すのはなかなかに困難だった。
改革派貴族たちの間で話題になっている『鬼才』——今は貴族学校にいて、王位継承権を持ち、現状を不服とし、密かに力を蓄えている人物。
今のところ、ジャンの目の届く範囲には、そんな人物はいそうになかった。
☆☆☆☆☆☆☆
セレネが王都郊外にある国軍の大兵営に辿り着いたのは、正午過ぎのことだった。
首都防衛の任と、交通の便のいい王都から各地方への最短ルートを押さえるという最重要任務を帯びた国内最大規模の軍団が常駐する大兵営は、いつでも数千から万単位の人々が暮らす、一個の都市だ。
そこへ突如現れた貴族令嬢、もとい癖っ毛の金髪が燦々と降り注ぐ太陽に照らされた少女セレネは、勝手知ったる我が家のごとく大兵営の中を突き進み、中央にある大兵営本陣の煉瓦造りの建物の前で衛兵へ名乗った。
「カーネリス将軍へ、セレネが来たとお伝えしてくれる? 私はここで待っているから」
いきなり大兵営のトップの名前を指名され、衛兵は戸惑いつつも伝令を出す。セレネの堂々とした態度は、やんごとない身分だと一目で分かるし、何より黄金よりも輝く金髪は一般市民ではありえない。
衛兵の判断は間違っておらず、何よりもその衛兵はまだ入営して二年目の兵士だった。伝令を出してわずか数分後には、偉丈夫の老将軍カーネリスが他の諸将五人を引き連れて駆け足でやってくるなど、想像もつかなかったのだ。
しかも、セレネを見るなりデレッデレのとろけた顔を見せて、まるで初孫を甘やかす老爺と化したものだから、事情を知らない衛兵はドン引きした。その目の前で、カーネリスほか五人は代わる代わるセレネを抱きしめ、大はしゃぎだ。
「おお! いとしのセレネじゃあないか!」
「学校を抜け出してきたのか?」
「違う、帰宅許可をもらったの!」
「何でもいい、今日は宴会だ!」
「肉屋に伝令を出せ! 我らがプリンセスのご帰還だとな!」
「ちゃんと食べているのか? 顔色が悪いぞ? そうだ、また遠駆けに行くか? セレネお嬢様は馬に乗れないからな、後ろに乗せて」
「おい貴様! 抜け駆けするな! セレネはお茶会をするんだ、それと新兵どもにも一度顔見せを」
「話をー! 聞いてー!」
和気あいあい、幼さの残る少女と六人の老人たちは親しげに話していたかと思いきや、セレネは咳払いをして真面目な顔を見せた。
今までとは打って変わって、本来の『肩書き』らしい挨拶を口にする。
「こほん、諸将に告ぐ。出迎えご苦労である、このセレネ・サンレイ、故郷の土を踏んだかのような安心を覚えた」
老人たちはこれに対し、背筋を伸ばして最敬礼を返す。そうすべき相手なのだ、と周囲の事情を分かっていない兵士たちにも伝わり、セレネが老将たちの敬意を受ける立場にあることが示された。
もっとも、その数秒後にはセレネの顔は緩み、年相応の朗らかさを宿す。今日は公務で来たわけではないのだから、真面目な場面はこれで終わり、とばかりだ。
「まあ、堅苦しいことは抜きにして、今日は肩書き抜きで遊びにきただけだから、お邪魔になりそうなら帰るつもりで」
「そんなことはない! おい、ひとまず茶だ! テラスに用意しろ!」
また騒がしくなったセレネたちが、天井の高い本陣の建物を奥へ進んでいく。衛兵だけでなくすれ違う兵士たちも傍へ身を寄せ、老将たちに囲まれるセレネの後ろ姿を眺めながら、思い当たる節を口にする。
「あれって、もしかして……『奇跡の王女』セレネ殿下か?」
「わっ、本当だ! 願掛けとけ」
「見かけたら幸運が訪れるってマジ?」
「俺は同じ場所にいれば必ず生きて帰れるって聞いた」
「前線で戦う兵士の俺らにとっちゃ、いるかどうかも分かんねぇ神様よりありがてぇな」
各々の信仰はさておき、兵士たちは思い思いの祈りをセレネへ向ける。
その最中のことだ。天井近くに並ぶ天窓から、強い陽光が差し込んだ。
その光は、セレネの頭頂から三つ編みまで飛び出して撥ねている癖っ毛に当たり、輝く。セレネの頭を中心にぼんやりと光の円が形成されて、いかにも神秘的な様相を呈していた。本人は日差しが当たって暑いな、くらいにしか思っていないが、それを見た兵士たちはざわつく。
なぜなら、老将たちを引き連れて歩く『奇跡の王女』の御姿という、皆が見る共通の幻想にふさわしい光景だったからだ。
「後光が差してる……」
「すげぇ」
「伝説の聖女か何かか? とりあえず拝んどこう」
呆気に取られ、感激し、畏怖と信仰が入り混じる。その日、セレネの姿を見た兵士たちの多くが『奇跡の王女』の話をあちらこちらで興奮して伝播させていったのだが、熟練の兵士は「そんなこと五年前から知ってるよ」と笑って答え、新兵は「一度でいいから見てみたい」とセレネを追いかけはじめる騒ぎになった。
概して軍人は現実主義だが、一方で験を担ぐことも好む。『奇跡の王女』セレネはちょうどその験担ぎにうってつけで、すっかり大兵営の話題を掻っ攫っていった。
そんなことは建物内でも歩いていれば耳に入るわけで、セレネをお茶のテラスへ案内するカーネリス将軍は愉快そうに笑う。
「すっかり噂になってしまってまあ」
「私、幸運の置き物扱い?」
不満ではないが、セレネは自分でも予期してこなかった扱いに少しげんなりしていた。甘やかされるのはさておき、信奉されるのはやりすぎな気がする。
「もう一つありますぞ」
「何?」
「セレネ様がいるところならば美味い食事にありつける、と。兵士にとって食事は一大事、そのまま軍全体の士気に繋がりますからな」
「それは前に私がサンレイ伯爵領から持ってきた支援物資の肉の話……?」
セレネはげんなりしているが、そもそもはセレネ本人が『奇跡の王女』の元となった逸話を作ったからこうなっている。
五年前のことだ。サンレイ伯爵代理を務めていた十歳のセレネは、『とある事情』で隣国との戦争の最前線に送られることになった。サンレイ伯爵領の食糧を前線に届けろ、という国王の命令が下ったからであり、当のサンレイ伯爵は別の戦場にいたため、急遽セレネが手配することとなった。もちろんセレネは当時十歳の少女だから、別の代理人を送ることになりつつあったのだが……『とある事情』のせいでそれは叶わなかった。
仕方なく、セレネはサンレイ伯爵領に残る兵士たちを引き連れ、食糧を大量に前線へ送り届けた。
それが、とても受けたのだ。
「サンレイ伯爵領は山がちながら畜産業が盛んですからな。王族でも滅多にありつけぬ熟成肉を夕食にたっぷり出されたとなれば、小さな肉片がいくつか浮いているだけのスープで長らえてきた連中はそりゃあ泣いて喜びますぞ」
「我々が鼓舞するよりずっと士気旺盛だったからなぁ」
「災い転じて福となす。暗愚の王よりも、奇跡の王女を尊ぶのは自然の成り行きです」
「うむ。訳の分からん予言者の言葉を信じて王女を養子に出し、あろうことか災厄の子扱いで始末しようとした愚策など潰えて当然。しかも、大臣の連絡によればまだセレネ様の追放や暗殺を諦めてはおらぬ有様」
うんうん、と当時を思い返した老将たちは頷く。
信じがたいことに、『とある事情』とは国王がそばに置いている予言者の言葉を信じて実子セレネを亡き者としようとしている、という耳を疑うような話だった。
初めは、セレネの母方の遠縁であるサンレイ伯爵家へ養子に出すことで丸く収まっていたのだが、次第に国王は自身に不幸が降りかかるたびセレネのせいだと言い放つようになり、暗殺や処刑を家臣に相談するようになった。
国王の乱心と一言で言い表せればいいが、それ以外のことは国王はまともだった。それゆえに、大臣をはじめ家臣たちはセレネをどうにか守らなくてはならない、と奮闘する羽目になる。
(普通に考えて、国王が自分の子どもを不幸の原因だから殺すなんて言いはじめたからって、その言いなりになって子どもを殺すようなことを認めるような人間はいないわよね……国内だけじゃなく諸外国にも悪い噂を流すようなものだし、予言者が国王以外に嫌われてたことも私にとっては幸いだった。まあ、お母様が色々手を回してくれて、ベルネルティ公爵の後ろ盾も得られたからやっと安心できたわけだし)
しかし、戦争の混迷期にはそれも行き届かず、ベルネルティ公爵家預かりになる前だったこともあって、セレネは危険極まりない最前線へ行くことになってしまった。そのときにセレネは老将たちと知り合い、暗殺騒ぎもあって——雨降って地固まるとばかりにセレネは老将たちの同情と愛情を受けて育つこととなったのだ。
『奇跡の王女』の話は大元は確かにセレネ自身の行動だが、そこに老将たちが尾ひれを付けに付けて、まるでセレネを幸運の女神のように仕立て上げたのだ。もっとも、元王女が最前線に来るという珍事、良質な食糧の大量供給という吉事、セレネがいる間はなんだかんだ軍は負けなかったという事実から、全部が全部嘘というわけでもないだけに、セレネはその異名を受け入れざるをえなかった。どうせ、その名が通用するのは軍の内部だけだ。
それだけに、まったくもってセレネにとって『とある事情』とは、身内の恥だった。
「私は国王のことなんかどうでもいいんだけど、なんかこう、実の父親が他人に迷惑かける様子を聞いちゃうと、罪悪感が芽生えちゃうなぁ……しかも私のせいっぽいし、何にもしてないのに」
大概の人間は、思春期には自分の親がさほど立派ではないと知って悩むものだ。
大きなため息一つ、それからセレネは老将たちへ、今の別の悩みを打ち明けることにした。
「そうだった。あのね、相談があって」
老将たちの耳目が、一斉にセレネへ向く。
☆☆☆☆☆☆☆
貴族学校の廊下に西陽が差し込む、夕方。
数学の講義を終えたジャンが、使用した教室の扉の鍵を閉める。先ほどまでの、やる気のない男子生徒たちが終業のベルとともに歓喜の声を上げてゾロゾロと帰っていった光景に、ジャンは胸中で何度もため息を吐いていた。
多くの男子生徒にとって数学は必須科目でありながら苦手分野であり、落第の原因となることも少なくない。ジャンはカンニング対策で定期試験を口述にしたため、不真面目な生徒たちからの評判は最悪だった。そのせいで、貴族の子弟は貴族ではないジャンをあからさまに見下し、直接公言はしないもののジャンがド・ヴィシャ侯爵の愛人の子だと陰口を叩いていることも、ジャンは知っている。
それが成績に関係のあることならともかく、あいにくと何ら関係なく、貴族学校の多くの講師と同じくジャンには賄賂が一切利かない。当たり前だが、定期試験の点数が足りなければ単位は与えられず、やむなくジャンは三回までの追試開催を受け入れたが、それでも嘆かわしいことにダメな生徒は一定数いた。
(家庭教師が付けられる貴族には、基礎科目の数学くらい簡単だろうと思っていたが……あんなに出来の悪い貴族の子どもたちが野放しにされていいのか? まったく、将来に何の希望もない)
果たして自分の勉強や研究の時間を割いてまで貴族学校の講師を務める意味はあるのか、とさえジャンは考えてしまうが、当初の目的を思い出して冷静になる。イースティス王国に革命を起こすような『鬼才』の存在、その人物を探す目的は、ジャンが革命を望んでいるだけではなく、会って話をしてみたいからだ。
この幻滅するような貴族社会を変えてしまう、燦然と輝くであろう『鬼才』は、一体全体どのような人物なのか。想像もつかないような人となりなのか、人智を超えたような存在なのか。すでに大半の人間が自分よりもはるかに劣ることを知ってしまった天才にとって、それは一度ならず失ってしまった未来への希望たりえた。
侯爵の婚外子、という身分を嘲られて育ってきたジャンは、実力で見返すほかに生きる道はなかった。幸いにして数学をはじめとする才能に恵まれ、実父の目に留まったことで国立大学校へ進学できたものの、それでもなおジャンの実力以外のところで足を引っ張ってくる有象無象はいる。その中には、身分社会の頂点にいる王族さえもジャンの生まれを馬鹿にして、どれほど実績を挙げても存在を無視する人間がいるというのだから、どうしようもない。相手は理屈や理論で倒せず、ジャンの手の届かないところから石代わりに権力で障害物を投げつけてくるし、止める術はない。
それが嫌なら、この国と社会を変えるしかないのだ。もしくはジャンは独り、理想的で住みやすいどこかの国を求めて去っていくしかない。
そのどちらも、常人には手の届かない夢のようなことだ。才能だけでは人を率いることはできず、理想郷はどこにもないと相場が決まっている。
であれば、どうすべきか。迷った挙句、ジャンは貴族たちの中にいる、イースティス王国を変革することを望む『改革派』という人々に辿り着いた。正確には、改革派の中心人物であるエールヴェ伯爵が「同志にならないか」とジャンへ声をかけてきたのだ。改革派の思惑はさまざまだろうが、ジャンは現状を変化させる最初の一歩として、とりあえず手を取ったのだ。
正直に言えば、ジャンは誰かの手先になることを好まないが、自分が才能以外無力な人間だということは分かりきっている。金も身分も権力もなく、まだただの学生に過ぎない。ド・ヴィシャ侯爵家預かりという身分は瑣末なもので、侯爵家の一員と認められているわけではないし、問題を起こせばすぐに剥奪されるものだ。エールヴェ伯爵にしたって、今はいい顔をしていても、ジャンが使えないと分かれば即座に手を切るだろう。
そんな現況を、ジャンが憂えずにいられるわけがなかった。夕日の紅さが寂しく、年相応に家に帰りたいと願っても、もう母のいた家はない。ジャンの母は療養のためとしてド・ヴィシャ侯爵領に送られてから年に一、二度手紙のやり取りをするだけで、国立大学校の寄宿舎にある狭い自室は周囲が騒がしすぎて夜もまともに眠れない。あまりの騒々しさに嫌気が差して、宿屋に比べて料金の安い娼館に間借りしたこともある。もっとも、宿屋の宿泊費に比べて下層の売春婦を買うほうが圧倒的に手頃だからであり、ジャンは買った売春婦を追い出して娼館の部屋のベッドだけを使っていた有様だが。
ジャンが教室の鍵を校舎の管理人へ渡しにいこうとした、そのときだった。
背後から、声がかけられたのだ。
「ジャン=ジャック・マードックか?」
ジャンが振り返る暇もなく、いつのまにか目前に一人の男がいた。背後にも一人、さらに少し離れたところに周囲を警戒するもう一人がいる。どの男たちも上背があり、鍛えていることは一目瞭然だ。同じ錆色のトレンチコートを着て、同じ黒のフェルトの山高帽を目深に被っている。
目の前の男が、短くこう言った。
「同行願おう」
身動きが取れないジャンは、その頭脳を回転させはじめる。
「何だ、君たちは……どこの兵士だ?」
目の前の男の容姿から判断できるのは、誰の差し金であるかではなく、誰の差し金ではないか、だ。
「近衛兵でもなく、どこかの騎士団というわけでもない。だが、熟練の兵であることは確かで、拉致誘拐に長けているわけではなさそうだ。同行を求める理由を話してもらえれば、協力もやぶさかではないが」
素早く目線を動かし、ジャンは取り囲む男たちの素性をできるかぎり推量する。だが、それだけでは決め手に欠ける。
ところが、この緊迫した雰囲気を、男たちが自ら壊した。
「どうする?」
「どこから話す?」
「うーん、困るな」
三人の男たちは、何とも困った様子で首を傾げ、素直にジャンの提案に従って理由を説明しようとしはじめたのだ。
目の前の男が、考えながらしゃべる。
「えー……ある少女がいて」
「少女?」
「馬鹿、もう少女という年齢じゃないだろう。立派なレディだ!」
「いや、俺たちの中ではいつまでも出会ったころのままだ!」
「そういう問題じゃない!」
まだ始まったばかりなのに、ジャンを放って、あっという間に話が飛んでいった。少女、立派なレディという単語しか分からない。
しばし待っていると話がひと段落したのか、あるいは諦めたのか、男たちは気取ることをやめて話を端折った。
「とにかく、その少女が貴様と話をしたいものの、話しかけるきっかけがなくて困っていると聞いた」
「は?」
「もういい、無理矢理連れてこいとは言われていない。なあ、今日は時間はあるか?」
「明日の講義の準備がある」
「なら、終わったあとでいい、大通りの乗合馬車でこの住所まで来てくれ。少し遠いが、帰りは送ろう」
謎の男三人は、結局フランクなおじさんに変化しつつ、ジャンへメモを渡した。廊下の先から足音がしたため、瞬く間に去っていく。
すっかりジャン以外誰もいなくなった廊下で、ぽつねんとジャンはつぶやく。
「何だったんだ……?」
ジャンの手にはちゃんと走り書きのメモが残っており、先ほどの出来事が現実だったことを証明している。
夕方のひとけのない廊下で、謎の男三人に取り囲まれ、要領を得ない話をされた挙句にメモを残された。この奇妙な出来事は一体、とジャンが悩んでいると、足音が近づく。ヒールの音だ。
顔を上げてみれば、見知った顔のユーギットだった。女子寮の監督生をしているユーギットは、一日の講義終了後の校舎の見回りも担当している。まだ残っているジャンを見つけて、ユーギットは意外そうだ。
「ジャン、どうしたの? 早く帰らないと門が閉まるわよ」
「ああ。準備をしてくる」
さすがに、今さっき不審者たちに囲まれて、などとユーギットに話してもしょうがない。ユーギットに見られないようメモを手のひらの中に咄嗟に握って隠したジャンは、まだ悩みが尾を引いていたが——ユーギットの「ああ、そうだった」という声に、意識が現実へ帰ってくる。
「ねえ、ジャン。お父様が手紙の返事はまだか、とおっしゃっていたのだけれど。私は手紙の内容までは分からないし、なるべく早くお返事を出してあげてちょうだいな」
それだけを言い残し、ユーギットは校舎の見回りに戻っていった。
数日前に受け取ったエールヴェ伯爵からの手紙は、改革派貴族の集会に来ないか、というお誘いだった。さすがにそこまで深入りすることは躊躇われ、当日になってもまだジャンは返事を出していない。
ジャンはわずかに頭を横に振り、選択を迫られていることに苛つきつつ——その隙を見越したように近くの教室の扉が開いて、山高帽の男の一人がひょこっと顔を出した。
「言い忘れたが」
「うわ!?」
「すまんすまん。夕食は抜きで頼む、用意してあるんだ」
どうやら伝え忘れたその一言のために、戻ってきたらしい。
驚かされたジャンは、少し苛立って突っかかる。
「僕をどうしたいんだ?」
「招きたいんだ」
「ならもっと情報を開示してくれ。状況がさっぱり分からない」
「それは無理だ。俺たちだってどこまでどうしていいか分からん。だが、何もしないでいられるほど情のない間抜けじゃないんだ」
いい加減、ジャンも腹に据えかねてきた。言いたいことがあるなら……というよりも、何かをするつもりがあるなら、まずはいつ、誰が、何のために、どこで、どうやってをきちんと伝えるべきだ。所詮は原理原則論だが、ジャンはそう考え、閃いた。
相手が言わないのなら、与えられた情報で推測するまでだ。
ジャンは手のひらのメモを広げ、そこに書かれた住所だけでその場所が何であるかをすぐに突き止めた。それだけではない、男たちの言動、行動、心情、そのすべてから、招待主まで見当をつける。
「住所は郊外の大兵営、僕や侯爵家とはまったく関係がない。おそらく年頃の少女が僕と話したがっていて、周囲の誰かが気を利かせて僕を招こうとしている。夕食に招き、家に帰すつもりはある。となると……大体見当はつく」
自分と何らかの関係のある有力な家出身の年若い異性は、ユーギットのほかには一人しかいない。いや、正確には関係が築かれる前だが、それでも繋がりはある。
ド・ヴィシャ侯爵家から勧められていた、まだ進展のない婚約話。その相手の名前くらいは憶えていた。
「彼女……セレネ・サンレイへ伝えてくれ。招きには応じるが、僕は君と婚約するつもりはない、話は断るつもりだ、と。それから、君に迷惑をかけたくない、とも付け足して」
それだけを言い残し、ジャンは踵を返した。
さっさと明日の講義の準備をして、大通りで待合馬車に乗って大兵営へ行って——セレネとは婚約しないことを伝えなくてはならないのだから。
☆☆☆☆☆☆☆
首都防衛の大任を負う大兵営の責任者は、総司令官たるカーネリス将軍だ。
そのカーネリス将軍は軍事に関しては飛び抜けて有能なのだが、それ以外では稀に失敗することもある。
セレネが相談してきた、婚約者になるかもしれない男——ジャン=ジャック・マードックを大兵営にこっそり招いて、セレネが望むように話を白黒はっきりさせようとしたのだが、貴族学校へ送り込んだ手勢の部下三人が帰ってきてその顛末を報告したせいで、とんでもない事態になってしまった。
老将たちとのお茶会を終え、甘いお菓子をたくさん食べてテラスに出されたカウチソファで夜風を浴びるご満悦のセレネとカーネリスの前で、山高帽を脱いだカーネリスの部下三人が申し訳なさそうに報告する。
「……ということだったんですが」
つまるところ、ジャンは招きに応じて大兵営へやってくるのだが、その目的は——最悪なことに——セレネとの婚約話を断るためだという。
報告を聞いていたセレネの顔は徐々に曇りはじめ、やがては涙目になり、大雨のごとき大泣きに至ってしまった。
「わあああああん!」
「えっ!? えええ!?」
「落ち着いてセレネ様! はい深呼吸!」
「びえええええ!」
部下たちが必死になだめようとするが、セレネは火がついたように泣き出して、泣き止む気配がない。
何せ、セレネが必死に心の中で蓋をして閉じていた膨れ上がった不安や、怒りや悲しみといった感情が爆発したのだ。
セレネはジャンのことが嫌いではなかった。むしろ、婚約という話を聞いて、ちょっとドキドキしていた。貴族に恋愛結婚はほぼない、だから誰かに決められたとはいえ、結婚を前提にした婚約者と恋人のような時間を過ごすことは乙女の憧れのようなものがあったのだが——。
「振られたー! 振られたんですけどー! 当たる前に砕けてるじゃないのー! わあああん!」
婚約が成立するどころか、その前に向こうから断られたのだ。セレネとしては、恋をする前に失恋したようなものである。
男世帯の大兵営では通常ありえない、少女の甲高い泣き声は、セレネがテラスにいたこともあって大兵営中に響いた。すでにテラスから離れていた老将たちさえ、緊急事態とばかりに慌ただしく戻ってきたほどだ。
遅かれ早かれそうなっていたということを鑑みたとしても、結局事態の引き金を引いてしまったカーネリスが頭を抱え、部下たちはセレネを囲む老将に何がどうしたのだと迫られ、対応に追われる。
「は? セレネが振られた……そうなるのか?」
「どこのどいつにだ!?」
「こうしてはおれん! 王都中を探して連れてこい!」
「大丈夫です! 自分から来るそうです! なので始末するのは夕食後で頼みます!」
「そいつの名前は!?」
「ジャン=ジャック・マードックです!」
「何だそのどこにでもいそうな名前は! どこの貴族だ!」
「えっと、ド・ヴィシャ侯爵家預かりで、セレネ様と婚約の話が持ち上がっていたということで」
「よし、処そう」
「だめー! 処しちゃだめー!」
「うちのセレネの何が不満で婚約しないと!? どこからどう見ても完璧な王女殿下だろうが!」
「いや、完璧ではないが、それでも可愛らしくて幸運の女神であることは事実!」
「脅迫しよう」
「そうしよう」
もはやメチャクチャである。
あくまでセレネが泣いたことにだけは重い責任を感じたカーネリスは、この混迷の事態を収拾すべく、若き日を思い出す大音声で叫んだ。
「ま、待ったッ! 全員、傾聴!」
大兵営本陣建物のテラス、この場にいるうちで軍人ではない人間はセレネ一人である。つまり、その他の全員は、厳しい訓練でもはや脳髄に刻まれたがごとく、命令文句を耳にした瞬間カーネリスのほうへ向き直った。
セレネ、老将たち、部下三人を前にして、カーネリスはわざとらしく落ち着き払った。
「まあ、落ち着け、皆の衆。私にいい考えがある」
「いい考えも何もお前がやらかした結果だろうが」
「やかましい! いいから聞け!」
茶化されてもめげない。だって総司令官だもん。そう思ったかは定かではないが、知将カーネリスの脳内には確かにこの事態を何とかする演説案があった。
「まず、セレネ。お前はそのジャン=ジャックという男と婚約、あるいは結婚したいのか?」
カーネリスの確認は、いきなりセレネの地雷を踏んだ。
「知らない、そんなの! 分かるわけないでしょー!」
「また泣かした!」
「敵の心は分かっても女心は分からんやつめ!」
「そんなだから嫁に半殺しにされるんじゃ!」
「やかましいわ! 余計なお世話だ!」
あと半殺しではない、剣を突きつけられただけだ、とカーネリスは反論するが、余計に白い目で見られるだけで逆効果だった。
しかし、今はカーネリスの過去ではなく、セレネの未来を案じなければならない。
カーネリスは威圧的な声色で、仕切り直す。
「いいか、そもそもセレネは元王女、現サンレイ伯爵嫡子だ! 貴族でもないどこの馬の骨やら分からん男と結婚させられるか!? 私は反対だ! なぜなら、セレネは」
カーネリスが今から言おうとしていることは、周知の事実だ。だが、だからと言って——。
カーネリスは懊悩を振り払い、改めて言葉にする。
「……父君たる国王陛下に邪険にされ、暗殺未遂までされているのだぞ」
しんとテラスが静まり返る中、セレネの嗚咽は、少しずつ抑えられていく。
父親に死んでほしいと願われる娘の気持ちは、如何ほどのものか。ここにいるセレネ以外の全員が、分かりようがない。老将とてそんな経験はなく、子を愛する親の気持ちは分かっても、その逆は到底理解しがたい。
「その男が陛下の差し金ではないと言い切れるか? 我々の半分は貴族ではないが、王位継承争いに関わる貴族たちはセレネをどう思っているかなどお見通しだ。『奇跡の王女』と謳うは我らのみ、王侯貴族の多くは我らのセレネを疎んじていることは自明! ならば……我々は、セレネを守らねばならん。たとえ、国王に反逆してでも」
そもそもは、セレネを遠ざけ、殺すよう予言者が進言したと聞いているが、果たしてそれは事実なのか。事実であろうとなかろうと、他人の言葉に従って実の娘の息の根を止めようとする父親に、自分たちは忠誠を誓えるのか。
何も、これまでの人生で老将たちが直面してきた苦境や難題ほど込み入った話ではない。それを許せるかどうか、ただそれだけなのだ。
おそらくは、これから先もセレネはその問題を抱えていく。命を狙われることもあれば、失脚を望まれ、母やベルネルティ公爵、サンレイ伯爵が庇いきれない事態に陥ることも十分に考えられる。
だったら、どうすべきか。一番簡単な解決法は、諸悪の根源を潰すことだ。
すなわち——イースティス王国国王と予言者の排除。少なくとも、それができなければ、セレネの今後の安全は保証されない。
誰もがその結論に一度は到達し、しかし実行に移せない数々の理由を前に頭から消し去っていた。老将たちはその結論を胸にしまい、セレネを可愛がってきた。それが問題の先送りと知りながら、『奇跡の王女』の名を利用してきた。
沈黙が重苦しい。すでに夕日は丘陵の地平線に沈みかけ、薄月と星が現れはじめる。
セレネは、ようやくハンカチで顔を拭いて、椅子から立ち上がる。
「ごめんなさい。それは、私が考えなきゃいけないことだった。浮かれてた、みんなに迷惑をかけちゃった」
誰も、セレネの言葉に返事ができない。その覚悟もない。
セレネはそれでもよかった。笑顔を作り、声を明るくする。
「カーネリス、食堂を借りてもいい? ジャンが来てくれるだろうから、ちゃんと話してくる。二人きりだと心配をかけちゃうから、誰か付き添ってくれると助かるんだけど」
すでに招いてしまったのなら、出迎えることが筋だ。ジャンの夕食を用意して、話し合って、婚約の話をなかったことにする。それが今のセレネのなすべきことだった。
カーネリスは、無理して明るく振る舞う少女に胸が痛みつつも、その意思に従う。
「ならば、私が控えていよう。部下たちにも同席させ、もし暗殺者であれば対処する。そうでなければ、彼を丁重に家まで送ろう」
ようやく緊迫の空気が薄まってきたこともあって、老将たちはセレネを気遣う言葉をかけた。
「そうか、そうか。セレネ、謝らなくていい。むしろ、ほっとしたぞ。お前が今でも我々を頼ってくれるのだから、つい、な」
「うむ。失礼しました、殿下。これからもどうぞ、休みの日はいらしてくだされ。我々が生きている間は必ずお出迎えいたしますゆえ」
「ありがとう。今日はお言葉に甘えるわ」
セレネは「それじゃあ、またね!」と元気よく食堂へ駆けていく。セレネが振り返ることはなかった、罪悪感に押し潰されそうになっている年長者たちの顔を立てなければならない。
カーネリスの部下たちは、滅多に見ない老将たちの苦悶の顔から目を逸らし、カーネリスからの命令を待つ。
セレネの足音が聞こえなくなってから、重い口を開いたカーネリスの言葉は、簡潔だった。
「全員、前を向け。まだ仕事が残っているぞ」
部下たちは、テラスから去るカーネリスの背を追う。
矍鑠たるその背中には、怒気がみなぎっていた。
☆☆☆☆☆☆☆
セレネは、カーネリスをはじめとした老将たちにずっと可愛がってもらってきた。彼らはいつかの戦場で兄弟や子ども、孫が戦死したという者ばかりで、それがより一層、孫同然のセレネへかけるちょっと重い愛情に繋がっていた。
だからこそ、セレネは一線を越えないように接してきた。今ならただの伯爵令嬢と縁のある老人たちくらいで済む、だがこれが大っぴらになれば、理不尽にも王命で身分を失った元王女と国内でも屈指の有力な軍関係者たちということになる。そうなれば、さまざまな疑いの目が生まれてもおかしくない。
やれ元王女は王位簒奪を企んでいるだの、元王女を利用して派閥を作った老将たちが国王へ圧力をかけようとしているだの、そういう視線はいずれ大きな疑念を生み、公然と噂されるようになり、いつの間にか事実のように扱われる。そうなれば、諸事情でセレネへの殺意を抑えている国王は、何かのはずみでセレネの殺害を強行するかもしれない。もしくは、国王の憂いを取り除くためにという名分で、褒賞や出世目当てでセレネを暴行するに至る者が現れても何もおかしくないのだ。
無論、それは今だって危険なままで、第二王妃である母やサンレイ伯爵家、ベルネルティ公爵家のおかげでセレネは普通の貴族令嬢を装えている。大人たちはそんなセレネの事情を知っていても、子女はそうとは限らないし、ましてや国王の汚点を広めないためにも世間一般に知られることはない。セレネが身分的には元王女であっても、成人の際には放棄することを前提にして王位継承権を奪われていないのはそのためだ。
そういうものなのだ。国王が死ぬまで、セレネは国王から死を与えられやしないかと怯えることとなる。予言者とやらが今も宮廷にいるとして、それが去ったとしても、国王が「どうあれセレネは死ぬべきだ」と固く信じているのならセレネの安寧はない。
そんなことは、セレネもとっくの昔に分かっていた……はずだった。
(あーあ、勝手に盛り上がって勝手に落ち込んで、迷惑かけて。私、本当に馬鹿だわ。ちゃんとしないといけないのに、いつもそう)
今、セレネが生きているのは、セレネに死んでもらっては困る人々のおかげだ。セレネを愛する人々、国王の不名誉を案じる人々、平穏に暮らしたい人々、そうした思惑がセレネの死を食い止めてくれている。決して、セレネ自身の力で、自分の身を守っているわけではないのだ。
王侯貴族であれば、その責任を重々自覚し、軽はずみな言動や行動を避けるべき。そのとおりだ、とセレネは自戒した。
なので、予定を変更して、食堂の馴染みの料理長にこう尋ねた。
「急で申し訳ないんだけど、サンドイッチとか軽食でいいから、持ち帰るバスケットに詰められるくらい作っていい?」
「おや、セレネ様。もちろん」
お髭の立派な料理長は、セレネを拒んだりせず、自分の隣に呼び寄せて手伝いを買って出た。
食堂は早めの夕食ピークが過ぎ、テーブル上に居並ぶビュッフェの料理もたっぷりある。それなりにゆったりとした雰囲気だ。これなら邪魔にはならないとセレネは安堵する。
セレネは勝手知ったる調理場でサンドイッチに挟む食パンや野菜を取りに行き、他の料理人たちの隙間を縫って戻ってくると、料理長は「残り物ですが」と言ってローストビーフの切れ端を持ってきた。
「やった、お肉だ。ありがとう!」
「いえいえ。それよりも、どうしたんですか? 今日はもう帰られるんです?」
「ううん、後で来る人に渡すの。本当は一緒に夕食をと思ったけどね」
料理人の一人が、気を利かせて古い軍用のバスケットを持ってきた。返さなくていいということなので、セレネはお言葉に甘える。
食パンを切り揃えて、バターを塗って、刻んだ野菜と大きめのローストビーフを一枚挟んで、それを五段ほど繰り返して。
その間にも、セレネは自分の中で渦巻く感情や思考をまとめようと、懸命にモチモチモチモチとコネまくる。無論、頭の中でだ。
(ジャンは私のこと、婚約を断るほど嫌いってことでしょ? 私、何にもしてないのに……いつもそうなんだから。人に嫌われる星の下に生まれたのかしら! ああ、やだやだ! 何でそんなことになるのよ、もう!)
セレネはあっという間にサンドイッチを押し切り、先回りして料理長がホコリを叩いて布巾で拭ったバスケットに詰め込む。ついでに残り物のパセリをもらって付け足し、それらしい見栄えになった。
今の気分はどうであれ、目の前にある料理——簡単でも料理は料理だ——は美味しそうに出来上がった。それが普通の貴族令嬢にはできないことを、セレネは知らない。様子を窺っていた料理人たちや料理長が完成を祝って拍手して、少しばかり驚いたほどだ。
料理長は、うんうんと満足そうに頷く。
「しっかし、手際がいいですねぇ」
「え?」
「セレネ様、料理はお得意でしょう? そりゃあ貴族のご令嬢が料理を作ることなんてないでしょうが、もったいないですねぇ」
「そう? サンレイのお屋敷でよく料理人に教わっていたの。ほら、サンレイのお肉は美味しいから、そのままでも全然いけるんだけど、ローストビーフやシチューにすればもっと美味しくて」
「ああ、確かに! 今でも思い出せますよ、あの戦場でセレネ様が美味い熟成肉をたんまり運んできてくださって、それが美味いの何のって……本当に、美味すぎて泣くやつらばっかりで。いやはや、あれのおかげで、あそこにいた兵士たちは生きる気力が湧いて、故郷に帰れたようなもんでしたよ」
料理長の昔話は、五年前の戦場を知らない料理人にとっては新鮮なのか、皆真面目に聞いている。
美味しい肉。イースティス王国では身分の上下を問わず、よく牛肉が食べられる。なだらかで日当たりのいい草原では馬が、少し冷涼な山麓では牛が飼われ、その加工技術も発達してきた。中でも、サンレイ伯爵領は美食を重んじる土地柄、氷室を使って作る熟成肉という手間暇のかかる極上の牛肉が生まれ、王室にも献上するほどだ。現地レストランでは、お忍びで貴族たちがやってきては肉一切れを奪い合う光景も珍しくはない。
それが将軍から一兵卒に至るまで行き渡るほど大量に、氷ごと素早く戦場まで送り届けたのだ。「頑張ってる人たちに食べてもらいたい」というセレネの発案で、途中の牧場や訓練施設から余っている馬を借りてきて迅速運搬の兵站物流を組めると確信したサンレイ伯爵家が全力で推し進めたその一件は、そのとき一口でも熟成肉を口にした人間からすれば神の恵みにも等しかった。
何度も何度もセレネはカーネリスたちだけでなく、兵士たちからも有形無形の感謝の気持ちを受け取った。だが、別にセレネは感謝されたくて行動に起こしたわけではないし、「美味しいお肉をみんなにも分けてあげたい」という当時十歳の子どもっぽい思いつきが形になっただけで、それを奇貨としたサンレイ伯爵家家中の切れ者たちがいたのだから実現したのだ。すべてがすべて、セレネの手柄ではない。そう思っていても、やはりセレネを見かけては手を振る兵士たちの、満面の笑顔は嬉しくなったものだ。
(美味しいものって、印象に残るものよね。じゃあ……美味しいサンドイッチを渡して、あなたはこんなに美味しいサンドイッチを作れるレディを振ったのよ、って言ってやるんだから!)
セレネの決意は固まった。
セレネとの婚約を断るジャンに、夕食代わりにサンドイッチを受け取らせて、そう言ってやるのだ。
バスケットを握り締め、セレネは大兵営の正門へ駆け出した。
▽▽▽▽▽▽
とある場所、とある人々が集まる部屋では、こんな会話がなされていた。
「ジャン=ジャックが大兵営に招かれた?」
「どういうことだ? あいつは我ら改革派の同胞エールヴェ伯爵から誘いを受けていただろう?」
「あれの頭脳と便利な身分は失うには惜しい。手に入らないのなら、いっそ」
「うむ、大兵営にいる王国派の将たちに疑われて殺された、という筋書きならどうか?」
「我ら改革派躍進の礎とするか」
「それがいい。急いで手配しろ」
彼らの命令を受けて、多くの人々が動き出す。
一方で、彼らの敵も、すでに行動を開始していた。
△△△△△△
王都の郊外ともなれば人家の明かりは減っていくものだが、大兵営に至る道々には篝火が焚かれ、頻繁に歩哨が巡回しているため夜道といえど暗くはないし安全だ。大兵営の正門ともなれば連なる石壁に篝火の光が反射して、まるで昼間のように明るい。
その灯りを受けて、セレネが必死にまとめた金の癖っ毛は明々と照らされて、いまいち整っていないことが露わになっているが、バスケットを抱えたセレネはそれどころではない。それを見て衛兵たちが「プリンセスいるな」、「いつもよりここ明るいな」、「夜でも光ってるよな」などとつぶやいている。
正門から遠く見える、大兵営にもっとも近い乗合馬車の停留所では、所用で戻ってきた兵士たち、王都内に帰っていく事務官たち、居残りをしていたのか人足をしていた一般の労働者たちも時折混じる。そこへ、その場には不釣り合いな——いかにもインテリの学生か何かという風貌の青年が一人、現れた。セレネの目に映る煤けた灰色の頭は、間違いない、ジャン=ジャック・マードックだ。
ジャンもこの場に不釣り合いな金髪の貴族令嬢であるセレネを見つけ、確信を持った足取りでやってくる。
カーネリスや他の老将たちの付き添いはやんわりと断り、セレネは一人、ジャンを出迎えるためにここにいる。どうせ過保護な誰かが近くにいるだろうとは思っているが、あえて無視だ。
石畳の上に散乱する、砕けた砂利を踏んでいく足音が近づいてくる。正門に入るために衛兵のほうへ向かう人々の流れとは別に、突っ立ったセレネの前へと青年が歩み来る。
思えば、お互いがお互いの目の前に立つことさえも初めてなのだ。セレネはジャンの顔も姿も知っているから真っ直ぐ見つめられる、しかしジャンの青灰色の瞳にはどこか信じきっていないような、戸惑いの色があった。
それでも、ジャンは礼儀をわきまえて、自分から端緒を開く。
「君が、セレネ・サンレイか?」
握手の手を差し出すことも、頭を下げることもなく、二人は一瞬だけ視線を合わせる。
思うことは多々あれど、セレネはグッと我慢して、言いたい言葉を飲み込んで、名乗った。
「そうよ。ジャン=ジャック・マードック、初めまして。私たちの頭の上で婚約話が持ち上がっただけで、お見合いさえまだだったから」
少しわざとらしいかしら。嫌味に聞こえたかもしれない。セレネとしては穏やかに出迎えたつもりだったが、貴族流の挨拶には慣れていないらしく、堂々としつつもジャンはほんの少し口ごもった。
「ああ、そうだな……君は、大兵営に知り合いでもいるのか?」
「ええ、たくさん」
「たくさん? 僕は貴族に詳しくないが、君の父でもここにいるのか?」
「違うわ。そんなことはどうだっていいの、はい、お土産」
セレネはバスケットをまっすぐに差し出す。胸にぶつかる直前でジャンは受け取り、何か文句を言われる前にセレネは畳み掛ける。
「話は聞いたわ。私との婚約の件、断るんでしょう? だったら、もう顔も合わせたくないだろうから、約束していた夕食の代わりにこれを持って帰ってちょうだい」
バスケットからセレネの手が離れ、一歩下がる。
これでおしまいかな、とセレネが踵を返そうとしたそのときだ。
「君は嫌じゃなかったのか? 自分の意思にかかわらず、勝手に持ってこられた婚約を受け入れるつもりだったと?」
ジャンの冷静な声が、腹立たしいほどにセレネの神経を逆撫でする。
跳ね返すように、セレネは即座に反論した。
「そんなわけないじゃない! でも、会いもせずに相手のこと嫌うなんて、私はできないから」
「ちょっと待て。まるで僕が君を嫌っているかのようだが」
「違うの!?」
「子どもじゃないんだ、君のことが嫌いだから断るわけじゃない」
きっとこのとき、セレネは自分の目が点になっていただろうと思った。
——何ですと? あれ、何か……話が違わない? 違うよね? あれ?
セレネの目が泳ぐ。ジャンが(誤解があったな)とばかりの分かったような顔をして、肩をすくめていた。
「少し、話をしても? 断るにしても、きちんと話をしておきたい」
「え、ええ。どうぞ、こちらへ」
「ありがとう」
頭の中は疑問符でいっぱいだったが、セレネは何とかジャンを先導して、大兵営内へ戻る。どこか適当な場所で、落ち着いて話をする必要がありそうだった。
▽▽▽▽▽▽
一方で、その様子を横一列に並んで石壁の真上から覗いていたのは、携帯式望遠鏡を石壁の下へ向けるカーネリス本人と、山高帽とコートを脱いで平時の軍服姿に戻ったカーネリスの部下三人組だった。
何せセレネは近くにいると自分に向けられる視線と気配を察知するため、古の城壁がそのまま残る高壁の上くらいでないと監視できない。
セレネとジャンが正門の衛兵に通行の許可をもらって入っていくのを見送って、三人のうちの一人がぼやいた。
「カーネリス閣下ぁ、我々はこのまま待機ですか?」
「もう少し待て、いいから」
「セレネ様を監視しているんじゃ?」
「それ以外にもな」
「となると不審者でも……」
「おい、周囲を警戒しろ」
仲良く、上司と部下三人は視野を広げ、正門付近だけでなくあちこちに目を走らせる。
それだけで異常を察知するには十分で、部下の一人が無言のまま、真下にある正門の衛兵に話しかける男を指差した。
大兵営内の工事や荷物運びに雇われた人足だろうか。身なりはよくないが、肉体労働者であれば丈の合っていない一張羅のジャケットを着て、あちこち穴を塞いだ厚手のズボンを履いているもので、へたれたハンチング帽も年季が入っている。
下から会話が聞こえてくる。
「止まれ。大兵営への立ち入り許可証は?」
「申し訳ない、今は持っていなくて。今日の納入で倉庫に忘れ物をしてしまいまして」
「それなら次の納入で確かめろ。夜間は通常立ち入りを許可できない」
「どうしてもですかい?」
「ああ、そうだ」
大兵営であれば、よくある場面だ。夜間は警備の関係上、基本的に当番の兵士や帰還する兵士以外出入りはできない、セレネは例外なだけだ。
だからこそ、カーネリスたちは勘が働いた。ここで雇われた以上、そんなことも知らないわけがない。
カーネリスが身をひるがえし、急ぎ階段へ向かう。部下たち三人は命令されるまでもなく、石壁の上から飛び降りて——うち二人は衛兵を突き飛ばして正門を守る位置に着地し、残る一人は腰に下げていた警棒を不審な男へ向けて振りおろす。
頭蓋を割るつもりで振りおろされた鋼鉄製の警棒は、激しくぶつかった金属音とともに暗闇へ火花を散らした。
雇われ人足を装った男は、警棒を持っていたナイフで防ぎ、後ろに跳んで勢いを殺していた。そんな動きができる人足もいる、などと呑気なことを言う人間はここにはいない。その場にいる兵士の肩書きを持つ全員が、すぐさま緊急事態を認識して、正門を守るとともに大兵営内へ知らせを走らせる。武器を手に取り、周囲の警戒が始まったころには、カーネリスの部下の一人が不審な男を叩きのめし、石畳に押し付けて制圧していた。
残る二人は衛兵たちに指示を飛ばし、カーネリスの到着を待つ。その間にも、不審な男の仲間が逃げ出し、非番の兵士たちが追う。無論、それだけではない。隙を見てさらに別方向からフード姿の不審者たちが現れ、地面に倒れた男を組み伏せるカーネリスの部下へ襲いかかるが、もう一人の部下が素早く阻止する。
篝火の群れが、石壁へ目まぐるしく動く影を映し出す。やがて、カーネリスが鉄底の長靴の音を響かせてやってくる。
男が落としたナイフを拾い上げ——少なくとも刃こぼれ一つないことを確認して、カーネリスは地面に倒れた男を冷徹に睨み据える。
「ふん、懐の得物は伊達ではないようだな」
カーネリスにとっては、もはや慣れきった出来事だ。長く将をやっていれば、誰かを狙った暗殺、その現場に居合わせることは多い。特に、今回は一応荒事の専門家を雇ってのことだが、カーネリスからすれば比較的杜撰で突発的だ。
つまりは金を積めば何とかなると安易に考えた依頼主が、本格的に証拠隠滅や暗殺を行える専門家を雇うことができず、押し通した程度のものだろうとカーネリスは見た。もしこれが、昔のように国王がセレネを暗殺しようとしてのことだったなら、この程度では済まない。
セレネが暗殺対象ではないことを密かに安堵しつつ、大兵営総司令官カーネリスはその仕事を全うするために、部下たちへ命令を下す。
「方法は任せる、情報を吐かせろ。時間がない、急げ」
「承知しました!」
後のことは衛兵たちに任せ、カーネリスの部下たちは地面に倒れた男を引き摺っていった。
△△△△△△
大兵営本陣建物内へやってきたセレネは、ジャンを引き連れて早足で食堂へ向かっていた。
とにかく、周囲の目が気になる。普段ならそこまで気にならないのだが、セレネが男性を連れているとなれば、兵士たちの目の色が違う。厳重警戒の雰囲気がどこへ行っても付きまとい、セレネの身の安全を極度に心配する誰かしらに見張られているのだ。
それはジャンも気付いていたようで、早足のセレネについて行きながら問いかける。
「何だか、あちこちから見られているようだが、君は大兵営では有名人なのか?」
「気にしないで。それより、お肉は好き? バスケットの中はローストビーフのサンドイッチなんだけど」
「ああ、好き嫌いはない」
「よかった」
セレネもこれで誤魔化せるとは思っていない。他に何か話題は、と頭の引き出しを探していると、ふとあることを思い出した。
セレネよりもずっと背が高く、ブラウンの長髪は優雅で、美人で有名なエールヴェ伯爵令嬢ユーギット。彼女とジャンは、恋人ではないか? よく考えれば、恋仲だと思っていたが、はてそんな噂を聞いたことはあっただろうか。
こうしてはいられない。セレネはもどかしい気持ちを何とかするために、ジャン本人へ聞かねばならなかった。
「あの、ほら、あなたが……貴族学校で、エールヴェ伯爵令嬢とよく話していたけど、恋人なの?」
「違う」
ピシャリ、とジャンは否定した。その強い断定口調に、セレネは(な、何だってー!?)と心の中で叫ぶしかない。
今までセレネがジャンとユーギットに嫉妬してきたことは何だったのか。見当違いの誤解だった、という現実がセレネはまだ受け入れられないが、そうとは知らずジャンは追い討ちをかけた。
「彼女と僕では釣り合わない。もちろん、君ともだ。僕は所詮、平民だからな」
その言葉を聞いて、しばし、セレネは考えた。
考えながら早足で歩き、閉店中の看板が掲げられた食堂の扉の前で、セレネはやっとジャンの言葉を呑み込めた。
(平民だから……婚約できない? え? それが断られた理由? あれ? ジャンは……えっと、そう、ド・ヴィシャ侯爵家の)
そこまで考えてから、セレネは機微な関係性——婚外子、という単語を避け——を直接口にしないよう、ジャンの身分を確かめようとする。
「じ、じゃあ、ド・ヴィシャ侯爵家は……?」
「僕が継ぐことは絶対にない。単に、僕の血縁上の父親がかの侯爵だというだけ、今はただのパトロンだ。僕の箔付けにと、君との婚約を進めようとしていただけだろう。僕は、そんなことに誰かを利用するなんてまっぴらだ」
だんだんとジャンの語勢が荒くなる。この話題はよほどジャンにとって腹立たしいものらしく、ジャンと父親であるド・ヴィシャ侯爵との関係がよろしくないことは明白だった。
おそらく、ジャンは父親の出身階級である貴族がさほど好きではなく、婚約も望まないものだった。貴族の父を持ちながらジャンは自身を平民と強調し、セレネが嫌いだからではなく貴族だから婚約しない、ということだとセレネはやっと理解した。
大人げないと言えば大人げなく、子どもの癇癪にも近い理由だが、セレネはストンと腑に落ちたのだ。
セレネだって、元王女だからという理由で婚約を利用されたことが明らかなら、多分怒る。恋なんか絶対に成立せず、逃亡を図ることさえありえる。それと同じなのだと分かれば、ジャンの気持ちは痛いほど理解できるのだ。
セレネは、食堂の扉を押し開けた。厨房はもう片付けに入っていて、食堂のテーブルは一部を残して椅子をテーブルの上にひっくり返して載せてしまっている。出入り口の扉から一番近いところにある、まだ椅子が床についたままのテーブルを見つけて、セレネはジャンへ座るよう促した。
「そっか。そういう理由で婚約を断るってことなんだ」
「ああ。貴族は貴族と結婚したほうがいい、それが順当で、幸せを得られるというものだろう。僕も僕の母も、貴族に関わってしまったばかりに色々と苦労をさせられた」
着席して、正面を向いて、バスケットを挟んでジャンを捉えて事情を聞かされれば……セレネはもうすっかり婚約が成立しなかったことが当然の成り行きだとさえ思えるようになっていた。というよりも、元から強引すぎて話し合いの余地がない。ここまで来れば、セレネもジャンへ婚約を迫る無意味さを悟った。
ちょっとだけセレネは大人になった気がしたので、素直にジャンへ感謝した。
「ありがとう、正直に話してくれて。少しだけど、疑問や不安が解けたわ」
「どういたしまして……と言うべきなのか、君には謝るべきなのか」
「いいの! そんなことを言ったら、私は多分」
それ以上は言ってはいけない、とセレネは思わず口を手で押さえた。
ジャンはおそらくセレネのことをよく知らない。貴族に詳しくなさそうだし、厄介なセレネの事情なんて知らないままのほうがいい。巻き込んではならないのだ。
「うん、そうよね。私も、私のせいであなたに迷惑をかけたくない。まあ、そんなことを言ったら、一生独身でいなきゃいけないけど! あはは!」
セレネは笑って誤魔化した、つもりだった。
だが、笑って誤魔化せるほど、セレネが背負ってしまったものは軽くない。元王女という肩書きがある以上、セレネは好きな人と結婚するなんて夢物語は諦めなければならない。心から好きな人に、そこまでの迷惑をかけたくないからだ。
そんな事情は、セレネが生きているかぎり付きまとう。セレネがこの国の国王に疎まれている、なんて知れば、年若い男性のほぼ全員がセレネとの結婚を躊躇うだろう。セレネが譲歩に譲歩を重ねて結婚相手を権力を握る老人に絞ったところで、そんな面倒は嫌だと言うに違いない。
かくも厳しい現実に、セレネはうなだれた。恋も結婚も、すでに絶たれた道なのだと思うと、思春期の少女の心には嫌気が差す。
「はー……もうどこかの国に移住しようかな。誰も私のことを知らないところに行くとか、そういう感じで」
それは叶うことのない夢だ。元王女が国外に出ること自体が根も葉もない疑惑を生じさせるし、国外ならこれ幸いと暗殺者が送り込まれてくる可能性が高い。それに、よくしてくれているサンレイ伯爵家を捨てていくなんて、とてもではないがセレネにはできない。土台、無理な話なのだ。
ところが、である。
ジャンは、その夢のような話を真面目に受け取って、諌めてきた。
「無礼に無礼を重ねるようだが、言わせてもらっても?」
「え? 何?」
「理想郷など、世界中探しても存在しないぞ。僕だって分かっている。だから、この嫌なことしかない国にしがみついているんだ」
ジャンの諫言は、至極真っ当だった。
生まれた国を離れればどこかに楽園があるなどと考えるほど、愚かなことはない。それは苦境を直視せず、逃げているだけなのだ。
今まであまり叱られることもなく、いい子として扱われてきたセレネにとってその諫言はグサリとストレートに胸へ刺さり、テーブルへ額をぶつけるほど落ち込ませるには十分な威力を発揮した。
「ごめんなさい、馬鹿みたいなこと言った……本当、今の忘れて、私の馬鹿」
「……気遣いはありがたいよ。でも、逃げてもどうにもならないんだ、きっと」
二人揃って沈痛な面持ちで、ため息を吐く。
世の中はどうしようもないことだらけで、どうにかしたいけど逃げることさえできない。
(私はともかく、天才って言われてるジャンでもそうなんだ。でもなあ……本当にそうかなぁ……?)
それはほんのわずかに生じた、無邪気な好奇心による純粋な疑問だった。
後先考えないと言われればそれまでで、失恋から始まり今日一日ですでにメンタルがズタズタなセレネは、ポンと口をついてその問いが飛び出し——ちょっと親しくなったジャンへ、聞いてみたくなっただけだったのだ。
テーブルに突っ伏したままのセレネのささやかな、何も考えていないその言葉が、歴史を動かす。
「じゃあさ、たとえばなんだけど、その」
「どうぞ。僕が聞いてもいいことなら」
「えっと……私、父上とずっと喧嘩をしてて、それで……暗殺者とかけしかけられるんだけど」
「あ、暗殺……?」
「まあ、今まで大丈夫だったからそれはよくって! でもさ、これからもそれがあると思うと嫌じゃない!? だからどうしようかなって!」
「待ってくれ。サンレイ伯爵が、君を」
「違う違う、私の本当の父上のほう! 今の国王なんだけど!」
セレネは、自分が何を口走ったのか、この時点でやっと気付いた。
いつの間にか、言わないようにしていたはずの事情を自らぶちまけていた。目の前のジャンも、開いた口が塞がっていない。
ジャンは、ぎこちなく頬を引きつらせていた。
「嘘、じゃないよな?」
普通に考えれば、この場は誤魔化すべきである。しかし、国王の子であるとのたまった挙句に、どう誤魔化しても角が立つことしか言っていないセレネは、額に溢れる冷や汗と真っ青になった顔を隠すようにまたしてもテーブルに突っ伏した。
「私の馬鹿……何で身内の恥を言いふらすの……本当、馬鹿……」
セレネの今の気分は、「もうどうにでもなーれ」である。
人生の初めから今までまったくもってどうにもならなかった、とセレネが後悔しはじめた矢先。
ジャンが、きわめて固い声色でセレネの名を呼んだ。
「セレネ」
「はい?」
「君は、王女なのか?」
「まあ、元がつくけど、一応。放棄前提だけど、王位継承権もあるし」
繰り返すが、今のセレネの気分は、「もうどうにでもなーれ」である。
ほとんど暴露したのだから、もう何を言っても変わらない。そう思ったのも束の間、ジャンが豹変したように頭を抱えて叫んだ。
「わけが分からない! 説明してくれ!」
「ひゃい!?」
飛び起きたセレネは、かくかくしかじか、洗いざらい己の身の上を語る。
それを聞いて、ジャンは天を仰いでいた。なぜそうなるのか、とセレネが尋ねる前に食堂へカーネリスの部下たちが駆け込んできて、セレネとジャンをカーネリスのもとへと慌てて引っ立てていったのだった。
☆☆☆☆☆☆☆
大兵営本陣、一階、大会議場。
大円卓と十の椅子、壁にはイースティス王国全土の地図と地形図がぶら下がった部屋にやってきたセレネとジャンは、すでに集まっていたカーネリスと老将たち、カーネリスの部下たち——カーネリスの擁する万を超える人材のうち、手足のように自由に動かせる事務官兼護衛の腕利きたち三人——が深刻な表情をしていることに驚いた。
「何かあったの、よね?」
セレネに応えたのは、カーネリスの部下の一人だった。
「襲撃があったんですよ」
「え? 襲撃?」
「そうです。つい先ほど正門と通用門二ヶ所で発生しまして、鎮圧しました。どうも、いつもとは違う雇い主と思惑でして」
「いつも……いつもなのか?」
「それはさておき、情報吐かせたんでその件でお二人に知らせたいことがありまして、パセア伯爵って知ってます?」
「改革派貴族の領袖だ」
「ああ、やっぱり。ジャン=ジャック・マードックの暗殺という目的も吐きましたよ」
「え!? 何でジャンが?」
セレネにとって、自分が暗殺対象になるのはいつものことだが、まさかジャンがそうなるとはあまりにも唐突な話だ。
だが、バスケットを抱えたジャンはその理由をすぐに突き止めていた。
「大兵営に来たからか」
「多分、そうでしょう」
「そうなの!?」
「僕はまだ改革派に協力するとは言っていない。だから、カーネリス将軍をはじめとする平民出身の高級軍人たちに呼ばれた、という事実だけで見れば、改革派貴族は僕がそちらに付こうとしていると思うんだろう」
今日あったはずの改革派貴族たちの集会に出席の返事をせず、ジャンは大兵営にやってきた——この事実だけを見れば、ジャンをわざわざ呼ぼうとした改革派貴族たちは、こう思うのだ。
——平民のくせに生意気な、いや他に何か思惑があるのか、理由もなく大兵営に行くとは思えない。
つまりは、ジャンが何らかの目的を持って大兵営へ行き、おそらく自分たちのように自勢力へジャンを組み込もうとしている大兵営の平民出身の軍人たちが招待したのなら……そんなふうに思考を巡らせ、改革派貴族たちはいくらかジャンに自分たちのことを話しているものだから、それらを暴露されると思っても不思議ではない。
だからと言って、まさか襲撃して暗殺さえ厭わない、などと過激な反応をするとはジャンも思い至らなかったのだ。
ジャンは頭を横に振り、吐き捨てる。
「馬鹿馬鹿しい。そんなにも僕を疑った挙句に殺そうとするなら、こちらから願い下げだ」
その言葉を受けて、カーネリスはこう言った。
「つまり、貴様は改革派と手を切る、と?」
カーネリスたちは、すでに襲撃者たちの口を割らせ、おおよその状況を把握している。舐められたもので、あるいはよほど物事を単純に考えていたのか、襲撃者たちはペラペラと雇い主のことまで知っていることをすべて喋った。平民にとっては目も眩むような大金で雇われ、すぐに集まる荒くれたちをできるだけ集めて大兵営に押し入り、ジャンを手にかける。もし大兵営側から文句を言われたとしても所詮平民たちの集まり、簡単に黙らせられる、と改革派貴族たちは甘く見ていたのだろう。
当然、カーネリスたちは怒り狂っていた。セレネが今まで戦場でしか見たことがないほど、老将たちも怒り心頭で緊迫した面持ちをしている。これから重大な決定を下し、実行するのだという威勢の空気が大会議場に充満しているのだ。
すでに壁の時計は夜の九時を指そうとしていた。ジャンは時計を一瞥したのち、ついさっき知ってしまったセレネの事情について、カーネリスへ確認する。
「刺客まで差し向けられて、笑顔で手を取れるわけがないでしょう。それよりも、セレネは……今後を考えるならば、攻勢に出るべきだ。国王の失脚、それしかない。ですが、あなたたちに本当に国王を失脚させる意思があるのですか?」
ジャンの不敬な物言いを誰も咎めない。
老将の一人が、答える。
「というよりもだ、そうしなければセレネが生きていけまいよ。いつまでも後ろ盾が万全であるわけでなし、我々もセレネより長く生きることはできん。ならば、この状況を打開する手を打たねばなるまい」
それを聞いて、セレネは顔を曇らせる。いつかは考えなければならないことだった、それでももっと平和的に解決できるわずかな可能性へまだ希望を持っていた。しかし、それはもう叶いそうにない。
そうした状況を把握して、ジャンはもう一度、念押しのようにカーネリスへ確認を取った。
「このまま国王陛下の首を取るだけでなく、セレネがこの先も生きやすいようにしなくてはならないのなら……ただ蜂起するだけではいけない。あくまで、セレネに瑕疵はなく、大義名分があるということにしなくてはいけないでしょう?」
「そうだな。だが、貴様には関係が」
「関係はあります。セレネ」
「何?」
ジャンはくるっとセレネへ向き直る。
そのまま、椅子を後ろへ下げ、床に片膝を突いた。座ったままのセレネは何が何だか分からず、左手を取られてジャンの両手に握られる。
セレネを見上げてくるジャンは、淡白に一言。
「結婚してくれ」
一瞬、大会議場の人々は、呼吸さえも忘れてしまった。
再び時間が動き出したように、皆がざわつく。セレネはジャンに問い返し、カーネリスは椅子から立ち上がり、カーネリスの部下たちは上司の肩を掴んで必死で抑える。
「今、何て言ったの? 結婚?」
「貴様ぁ! どの面下げて今更ぁ!」
「抑えて、カーネリス閣下、抑えて!」
そんな騒ぎもどこ吹く風、ジャンはプロポーズの言葉を続けた。
「僕は君を守る。君を支える」
「え? え?」
「事情が変わった。君がこの国を変えてくれるなら、僕は一生を捧げたっていい」
セレネは若干の違和感を覚えたが、ジャンがすっくと立ち上がって老将たちに演説を始めたせいでそれを聞きそびれた。
「返事は後でいい。話を戻しましょう、まず行動に移すなら今夜です。改革派の連中が王宮近くのエールヴェ伯爵家の屋敷に集まっている。やつらはセレネの障害でしかありません、潰してください。その成果を持って王宮の扉を叩き、雪崩れ込んでください。大兵営の兵力ならば首都封鎖は容易いでしょう、確実に国王の首を取り、明朝の新聞にはセレネの戴冠式の日取りを載せます」
堂々と、それでいて簡潔かつ明確に、ジャンはこの場にいる人々がやるべきことを指し示す。
たった十六歳の青年が何を言っているのか、と普段ならば侮られるところだが、カーネリスも老将たちもジャンの計画を実現させる力があり、今はその意思がみなぎっていた。
それにだ、ジャンはたった今、セレネにプロポーズした。
セレネの頬は赤く染まり、花が咲いたような喜色が隠せていない。であれば、この場でジャンを否定するような雰囲気は生まれようがなかった。
「は、はい、質問! 今がチャンスってこと?」
「そうなる。これを逃せば、君が暗殺者に怯えつづけることになる」
セレネのその質問が、後押しになった。
蜂起するならば今しかない。今ならば、絶好の機会だ。それが、全員の共通認識となったのだ。
部下に椅子へ押し戻されたカーネリスは、難しい表情のまま腕組みをしていた。仮にもカーネリスは大兵営の総責任者、彼の命令があれば万単位の人々が動き出す。
逆に言えば、彼が頷かなければ意味がない。
ジャンは、最後の一押しとばかりに、カーネリスを説得する。
「カーネリス閣下、僕があなたに頼むのは出過ぎた真似だと分かってる。だが、セレネのために協力してくれないか? もしセレネが女王になって、僕は最終的には結婚できなくても、それでも彼女を助けたい」
セレネと老将たちの視線もまた、カーネリスへ注がれる。胡麻塩の白髪を掻き上げ、顎に手を当てて考え込んだカーネリスの言葉を待つ。
結局のところ、セレネを守るためとはいえ、国王の退位あるいはその権力の失陥を狙う行為は、間違いなく国家への叛逆だ。国王へ忠誠を誓う将として許されることではなく、壮絶な非難と反発を受けることは必至だ。未来に至ってもなおイースティス王国の歴史に大逆人として名が残るだろうし、老将の中には貴族としての矜持から内心避けたがっている者もいるだろう。
しかも、それを青二才の号令で、いかに切羽詰まっているとはいえ決めてしまうのはどうか? 当然、カーネリスの胸中は大きく葛藤していることだろう。
とはいえ……カーネリスは、さほど力むこともなく、さらりと老将たちを煽った。
「貴様の指図を受けるのは不本意だが、セレネのためだ。諸将よ、どうか? 貴様らも『奇跡の王女』の戴冠に尽力する気はあるか?」
その言葉を待っていた、とばかりに老将たちは勢いよく立ち上がる。
「無論だ。国王の旗よりも、『奇跡の王女』の御旗を掲げるほうがやり甲斐があるというもの」
「散々我らは貴族連中に冷遇されてきたものなぁ。その仕返しというわけではないが、派手にやらかすなら任せろ」
「おいおい、問題はその後のことだ。ジャンとやら、考えておけよ」
セレネの事情、王国での彼らの処遇、あまつさえ最年長者であり彼らが絶大の信頼を置くカーネリスの決定が、何もかもを動かした。
カーネリスは頷き、部下たちに一言二言言い残してから、老将たちとともに機敏に大会議場を後にした。大会議場の外の廊下では、大声が絶え間なく響き、夜半だというのにあちこちが騒々しくなりつつある。
すべてが動き出した。ジャンはその最後の一押しを担い、セレネは最初の原因を負っている。
しかし、二人は大会議場に取り残され、しばらく出番はない。立ったままのジャンは、セレネに尋ねる。
「……『奇跡の王女』って、君のあだ名か?」
「うん。お肉が美味しかったから」
「何だ、それは」
「また今度説明するってことで。ええと、プロポーズのことだけど」
あれは建前だろう、とセレネは思った。この場を動かすために、最後の一押しをするための演出としてジャンはセレネへのプロポーズという行動を取ったのだと。
(まあ、そうよね。私のために動いてくれるのは間違いないし、それはそれでよかったし、いい夢だったと思えば)
ところが、セレネの目の前で、ジャンはバスケットを開き、中に入っていたサンドイッチを一つ取り出した。
ジャンは大きな口を開けて、サンドイッチを頬張る。野菜を千切り、ローストビーフを噛み、黙々と飲み込む。
完食後、パンくずのついた手を叩いて、ジャンは笑みをこぼした。
「君の作ったサンドイッチが美味しいから、やっぱり僕は君と結婚したいと思った。それでいいだろう?」
とんでもない殺し文句だ。ジャンが初めて見せた笑顔は、セレネの髪のように輝いていた。
一連のプロポーズの余韻冷めやらず、浮かれたセレネは照れ隠しに破顔するしかない。
「しょうがないなー! 今はそれで納得してあげる!」
ところが、これで終わりかと思いきや、ジャンにはもう一つ隠し球があった。
あまりにも自然にジャンがセレネに顔を近づけたため、セレネは無警戒に「何?」と言う間もなく——頬にキスされたのだ。
一瞬のことだった。固まったままのセレネに、ジャンは一時の別れを告げる。
「セレネ、また後で。カーネリス閣下に思いついたことを話してくる」
ジャンはカーネリスを追って退室し、大会議場はすっかり空になった。
壁際で一部始終を見ていたカーネリスの部下たちは、固まったセレネの目の前で手を振ってみるが、何の反応もない。
「はいはい、セレネ様はベッドで寝ていましょうね。夜更かしはお肌に悪いですよ」
「うーん、このまま運ぶか?」
「担ぐのもアレだ、担架持ってこよう」
どのみちセレネの仕事はすぐにはない、このまま来客用の部屋のベッドへ運ぶことになった。
人間、嬉しすぎると脳がショートする。明朝、セレネが目覚めたころにはすべてが終わり、次の時代が始まっていた。
☆☆☆☆☆☆☆
あれよあれよと恋が実って、大変満足のうちに夢の世界へ誘われた少女とは対照的に、イースティス王国王都中心にある宮廷内では血で血を洗う殺し合いがあちこちで開幕していた。
ジャンの進言により、先にエールヴェ伯爵邸を急襲したカーネリス率いる歩兵部隊は、他の老将たちと別れた。王都各地に散らばり、王都の封鎖と治安維持、それに明朝の仕掛けを施さなくてはならない。
ゆえに、宮廷内へそれらの異常を知らせる報告が上がる前に、カーネリスは「反乱を企んだ連中の首魁を捕まえた。国王陛下の指示を直接仰ぎたい」ともっともらしく嘯き、半死半生のパセア伯爵を引き連れて参内に成功した。固く閉ざされた門が開けば、あとは雪崩れ込むだけだ。指揮下の歩兵が三百人も入れば、大方制圧できる。
カーネリスは兵の拙速など許さない。だが、巧遅を誇りもしない。確実に要所を押さえ、ひたすらに次へと歩を進める電撃作戦を得意とするものだから、国王の居場所を速やかに捉え、居室に戻る途中だった国王と侍る側近たちの列へと襲いかかった。
カーネリスの剣が、国王の隣にいた見慣れぬ女の占い師を貫く。もう一人、フード姿ながらジャラジャラとアクセサリの金属音を立てる予言者を名乗る老人が逃げ出す前に、バッサリと斬られた。抵抗を試みる者もいたが、すべてカーネリスの部下たちが片付けた。
たった一人だけ、王冠を脱いで金刺繍の衣服を纏った国王だけを残し、ベルベットの廊下は赤黒く染まった。無論、国王にしても赤黒いシミにならないとは限らない。
廊下の壁にへたり込んだ国王が、カーネリスと兵士たちに囲まれる。逃げ場はなく、恐怖に引きつった顔のまま、国王は叫んだ。
「なぜ裏切った、カーネリス! 平民のお前を重用してやった恩を忘れたか!」
国王の裏切ったという言葉は、まるでカーネリスが裏切る理由があるかのようだ。これはただの反逆ではなく、ちゃんと理由あってのことだと自覚があるのだろう。カーネリスはそこまでこの国王が無能ではないと知っている、むしろ名君に近いところにいたはずだ。でなければ、三十年余も仕えていない。
ため息を堪え、カーネリスは剣をそっと下ろした。
「陛下。お言葉ですが、私は子を殺めようとする親の気持ちは理解できませぬ。どうか、それだけでも考え直していただければ、あるいは」
そうすれば見逃すことができるのではないか、と最後の最後でカーネリスは譲歩したつもりだった。
しかし、その意図は通じなかった。恐怖のあまり半狂乱になった国王の剥いた目が、殺された女占い師や予言者と名乗る老人の死体へと注がれ、歯軋りがカーネリスの老いた耳にまで届く。
「見ろ、カーネリス。お前が殺した予言者の言葉は、真実だった」
「……それは」
「あの娘は、やはり殺しておくべきだった! そうすれば、お前は剣を持って参内することはなかっただろう! あの娘にほだされたか? 歴戦の将ともあろう者が、忠誠よりも感傷を優先するとはな! 王国一の知将が聞いて呆れる! 五年前の戦場で、無能のお前の指揮のせいで、お前の息子たちが次々死んだのも頷けるわ! ふん、子を殺めたのはお前のほうだ!」
それを聞いて怒りを露わにするのは、カーネリスではなく部下たちだ。カーネリスの制止がなければ今にも刃を向けんとする勢いだったが、どうにか命令違反は出なかった。
五年前の戦場で、カーネリスは窮地に立たされた。正確には、貴族たちの私兵と戦力となる軍の大半は他の戦線に根こそぎ動員され、カーネリスの手元には麾下の部隊以外には弱兵もいいところの徴集兵しか残らず、奮戦むなしくせいぜいが今の戦場を瓦解させないことしかできなかった。そのため、カーネリスと同じ道に進んだ息子たちは率先して最前線に出向き、結局は誰も帰ってこなかった。
それを子殺しと言われたならば、そうかもしれない。カーネリスの抱いてきた後悔と罪悪感は、一生拭えないことだろう。
「であればこそ、これ以上の子殺しを見過ごすわけにはまいりませぬ、陛下。私は将として無能であった、臣下として忠義を尽くさなかった、その批判は甘んじてお受けしましょう……その覚悟があってこそ、ここに立っているのですから」
それ以上の問答は必要なく、カーネリスは部下へ「王を監禁しろ」と命じてその場を去った。廊下の先まで尾を引く叫びは、カーネリスへの悪口雑言を多分に含んでいたが、カーネリスは聞こえないふりでやり過ごす。
各地からの伝令が集まる宮廷の大広間前のエントランスに戻り、カーネリスはやっと一息ついた。
「ふう……」
「お疲れですか?」
そう声をかけてきたのは、慣れ親しんだ部下ではなく、煤けた灰色の髪をした青年ジャンだ。
「ああ、長年の疲れが溜まっていてな。それよりも、ジャン、貴様も来ていたのか」
「あなたの部下に無理を言って連れてきてもらいました。色々と、見過ごさないようにしなくてはいけないので」
カーネリスの表情が強張る前に、ジャンは自ら一線を引いた。
「安心してください、カーネリス閣下。僕はセレネと結婚できるなんて思っていませんし、要求するつもりもありません。女王陛下と平民なんて身分が釣り合わない」
「であれば、なぜあの場であんなことを?」
「そうしなければいけないと思ったから、それに、僕はセレネのことが好きです。力になってあげたいと思った、だからせめてこの場にいられるようセレネの結婚予定の相手、という身分を作っただけです。無関係の人間をあなたの傍に置いておくわけにはいかないでしょう」
「まあ、そうでもあるが。しかし」
随分と周到に考えを巡らせるものだ、と感心していたところに、簡素なドレスとコートを羽織った一人の貴族令嬢が駆けつけ、ジャンに書類の束を手渡した。
「ジャン、持ってきたわ」
「ありがとう、ユーギット。夜中なのに起こしてすまない」
「いいのよ。これで私は、晴れて自由だもの」
寝起きで化粧をしていないものの、駆けつけてくれたユーギットは嬉しそうだ。ただでさえ美人の貴族令嬢に、幾人か兵士の目が釘付けになっている。
ジャンは書類の束を、そのままカーネリスへと見せた。
「エールヴェ伯爵邸に保管されていた改革派の貴族たちの使っていた帳簿の数々と、実行予定の計画表と、名簿です。これでどうか、ユーギットを罪に問わないでください。彼女は改革派をよく思っていなかったのです」
「うむ。承知した、必ず責が及ばぬようにしよう」
これで、たとえ父のエールヴェ伯爵が何の罪に問われたとしても、娘のユーギットまで巻き込むことはない。ユーギットはジャンの味方ではあるが、改革派貴族の味方ではなかった。もしエールヴェ伯爵家が存続できず貴族でなくなったとしても、ユーギットはその才能を活かして望んだ未来へ進んでいくことができる。
カーネリスが受領したのを見届けて、ユーギットが帰ったのとほぼ入れ替わりに、老将の一人が息を切らして走ってきた。
「おーい、カーネリス! 王都全域を制圧したぞ。新聞社も押さえた」
「よし、それでは」
「ジャンの坊主からもらった原稿を複製して渡して、明日の新聞に国王の退位とセレネの戴冠式の日取りの記事を載せるよう命じておいた。いやはや手際のいい、おかげで面倒がなかったわ!」
「そんなことまでしていたのか? この短時間に?」
「馬に乗せてもらいながら原稿を書きました。歩きながら論文を書くのは慣れているので。こちら、原稿です」
ジャンは胸を張るでもなく、誇るでもなく、淡々と新聞記事の原稿をカーネリスへ渡す。カーネリスが原稿へ目を通すと、国王の退位はもちろん、新女王セレネの戴冠式を一か月後の建国記念日に行うことまで記載されていた。少しばかり文字の歪みが気になる原稿だったが、文句のつけようがない出来だ。
「貴様というやつは、大臣の座でも狙っているのか?」
「ご冗談を、絶対に嫌です」
「ははは、そうか。惜しいな、うむ、惜しい。平民でも軍人ならば……いや、そのひょろっこい体では無理か」
「向いていませんよ。残念ながら」
「ならば、貴様は褒賞に何を望む?」
今回ジャンの果たした役割を考えれば、宮廷への任官、軍やどこかの官庁への抜擢は叶うだろう。セレネとの結婚だけは叶わないが、それでも平民の青年に与えられる将来の道としては破格だ。
だが、ジャンはそれらを受け取らなかった。
「ほんの少しでも、『鬼才』の希望を見せてもらいました。それで十分です、もう何もいらない」
カーネリスへそう告げて、ジャンは大兵営へと帰っていった。
プロポーズまでしたくなるほど可愛いセレネが待っている。
☆☆☆☆☆☆☆
翌朝、セレネはなぜか挽きたてのコーヒー豆の香りで目が覚めた。普段は寮の同室のパラスティーヌが淹れる紅茶の香りだが、今日はちょっと刺激的だ。
のそのそベッドから起き出して寝ぼけ眼でソファに座るセレネの前に、大手新聞社から発行された今日付の新聞紙がずらりと並べられた。そこに記載のあるセレネの記事一つひとつを、ジャンが説明していく。
昨晩のうちに国王の退位が決まり、新たな国王としてセレネが推挙され、女王としてその座に就くこととなった。戴冠式は一か月後の建国記念日と定められ、云々……他にも改革派貴族たちの逮捕や新しい宮廷官僚の任官など重要情報もあったが、それらは省略された。
セレネ女王誕生という大見出しが踊る新聞を突きつけられては、セレネも現実を受け止めなくてはならない。とはいえ、なかなかこの現実は受け入れるのが容易ではない。本当は現実ではないとか言われないだろうか、セレネはジャンへ尋ねてみた。
「ほ、本当に戴冠式、するの?」
ジャンは食堂からコーヒーのたっぷり入ったポットをもらってきていた。カップにコーヒーを注ぎ、ミルクと砂糖を放り込んで混ぜ、セレネへ手渡す。
「ああ。そうじゃないと、君が女王になれない。イースティス王国は変わるんだ、君はその旗頭となっていく。それでいい、僕の望みは叶ったようなものだ」
このクソッたれな国は変化するんだ、とジャンは付け足す。
そして、もう一つ、言い忘れてはいけない現実を、セレネへ伝えた。
「平民にすぎない僕は、女王の君と結婚したくてもできない。惜しいな、婚約していれば強引に進められたかもしれないが、もう遅い」
セレネは分かっていた。王というのは、何もかもが不自由だ。国で一番権力を持っていても、結婚相手さえ自分で決められない。誰か一人のためだけに働くことを許されない。もしジャンが宮廷に入ったとしても、私的な交流はかなり制限される。
ジャンは見返りを何も求めなかった。仕事も金も、ド・ヴィシャ侯爵家のことだって解決を求めたりはしない。その理由を、ジャンは空元気の笑顔を浮かべて話す。
「そんな顔をしないでくれ。僕は君を利用したんだ、このクソッたれな国を変えてやるために、『鬼才』を求めた。運よく、僕の望みは叶ったんだから、それ以上を求めるのは分不相応というものだ。違うかい?」
一人で納得しているジャンへ、セレネは精一杯の反論をする。
「鬼才って何のことか知らないけど、そんなことより! だって、ジャンは、私のこと嫌いなの? 好きだから、結婚してほしいなんて言えたんじゃないの? 違うの?」
——嫌いなわけじゃない、って言ってくれたのに。
——プロポーズしてくれたのに。
——それに、それに。
「キスしたのは、私を利用するためじゃないでしょ! ちょっとでも好きだと思ったからしたんでしょ!? じゃあ、じゃあ……!」
その先の言葉は、声にならなかった。セレネの目に、涙が溢れてくる。
部屋の窓のカーテンがはためく。朝の柔らかな日差しが差し込み、涙ぐむセレネにまで届く。眩しいほどに、セレネのまだ整えていない金の癖っ毛は光を受けて、明るく輝いていた。
『奇跡の王女』の奇跡は、まだ起きていない。
ジャンは粗末なハンカチでセレネの涙を拭いて、これから起きるかもしれない奇跡を匂わせる。
「僕はサンレイ伯爵領へ行く。そこから先は……言わなくても分かる?」
「分かんない」
「そうか……えーと」
どうやら『奇跡の王女』は迂遠な物言いを好かないようだ、とジャンはからかって、それから——。
「もし僕を追いかけてきたかったら、サンレイ伯爵領に熟成肉を食べに行くといい。そうすれば、気兼ねなく会えるだろう?」
そこまで言われて、やっとセレネは顔を上げ、その言外の意味に大きな大きな希望を、夢の続きを見出した。
しゃっくりして、鼻を啜り、ハンカチで涙をすべて拭いてから、セレネは『奇跡』を手に入れることを決心する。
「ジャン、お肉食べすぎて太ったりしないでね?」
「善処する。それじゃ、『奇跡の王女』が『素晴らしい女王』になれますように」
こうして、セレネとジャンは一旦、道を別つことになる。
しかし、セレネは諦めない。『奇跡』のようなことだったとしても、希望が残っているのなら諦めない。
サンレイ伯爵領で待つと言った一人の数学者に、若き女王は恋焦がれていた。
終わり。
久しぶりに投稿しましたいえーい。
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モチベーションになり、次の作品に繋がります。