環境が変わる時 脳の使い方
「これは小ネタなんですけど」
世良が言った。
「私、4月、5月頃の定番ネタがあるんですよ」
「セミナーの?」
「それもありますが、どちらかというと、パーソナルをやる時の雑談ネタです」
「ほう、どんな?」
「まず、対象ですが、それこそ新卒とか、転職したてとか、部署異動があった方です。なんとなく顔は疲れている。しかし、何かやらなければと来ているような悲壮感を感じる方ですね」
世良が背景を説明する。
「へぇー、興味深いですね」
後藤が乗ってきた。
「何かの会話の流れを拾って、『私、春って苦手なんですよ』と言ったりします」
「花粉症だからですか?」
「それもありますが、春って、世の中にやる気が溢れていて息苦しいんですよ」
「息苦しいですか?」
なんとなく接客のロールプレイのような流れになる。二人とも日常的に接客指導をしているので、こういう時は説明を聞くよりも、実際にやってもらった方が早いという認識があるのだ。
それを受けて世良が続けた。
「特に、駅とかで新卒を見ると息苦しくなるんです。新卒って、楽しいフリしなきゃいけないじゃないですか」
「はいはい!」
「でも、楽しいワケないんですよ。環境が変わって、やることも変わって、しかも、やることは未経験。トレーナー目線で見ても脳を使いすぎだから、常に眠いはずです」
「脳が?そうなんですか?」
「ええ。人間、日頃は多くのことは自動でやってるんですよ。あんまり考えてないんです。今、走ってても『右大腿四頭筋を利用して着地の衝撃に膝が負けないようにする』とか考えて走ってないですよね?」
「確かに」
「これがいわゆる『体で覚える』ってヤツですね」
「なるほど」
「だから、同じ仕事をするにしても、新人とベテランはそもそも脳の使い方が違うんです。例えば・・・」
世良は少し考える仕草をする。もちろん、今話しているのは定番ネタなので、話すことは決まっている。考える仕草は、相手に理解してもらう為の間を取っているだけだ。
(ロープレ上手いな・・・ウチのスタッフに見せたいもんだ)
後藤は内心そう思いながら、口は挟まず、お客様役を続けた。
「電話一つ出るにしても、新人は言葉で考えます。電話が鳴った。何コールで出なければ。最初の言葉はこうだ。要件を聞いてメモもをしなきゃいけない。そうだ、メモの準備だ。取次先のリストはどこにあったっけ?そうだ、ここだ。これを手元に置いて・・・とか」
「ええ」
「でもベテランは電話が鳴ったら、判断に言葉はいらないでしょ?『お電話ありがとうございます!黒須スポーツ新港北台店、世良が承ります』って条件反射のように出るはずです。その後の応対も特に『次は何を聞かなきゃ』とか、いちいち言葉で考えないですよね」
「確かに」
「だから、いちいち言葉を使って考えてる新人の方が圧倒的に脳が疲れるんですよ。更には、いちいち言葉を介する分、処理速度が遅いんです。遅いから余計に焦る」
「はぁーーー!なるほど!」
「言葉を介さずに出来るようになるには反復するしかないから、最初は出来なくて当たり前なんです。でも本人は焦るでしょ。新しい環境で失敗なんかしたら・・・って」
「言われてみれば、そうですね」
途中から後藤はロープレではなく、普通に聞き入った。
「ともかく、そんな感じで、楽しいわけはなく、毎日シンドイのが普通なんです。でも新人って、『楽しいです!』とか『やる気あります!』『やりがい有ります!』って演じてますよね」
「はい。。。」
「会社は会社で『今期は抜本的見直しを』とか『今期はより管理を強化し』とか、なんかやる気を表明するじゃないですか。だから春って、みんかが無理してるのが見ていて辛いんです。秋ぐらいになって、世の中のやる気が落ち着いて、みんなが手を抜き始めたぐらいが、気楽で好きですね」
「はっはっはっはっはっ!それはすごい分かりますね。そうか、春はシンドくていいのか。なんか、シンドイって口に出しにくかったんですよね」
「はい。シンドくて当たり前です・・・って、こんな感じですね」
世良はロールプレイのノリから現実に戻った。
「一旦、自分事として話して、愚痴を引き出す感じですね」
「そうなんです。こういうのって『自分だけじゃない』って分かって、『実は辛かった』って吐き出せれば案外スッキリしたりするんで。それこそ、新しい環境でシンドイ方にとって、一時的に逃避出来る『居場所』になれればいいかなと思ってやってます」
「その居場所が職場にあれば最高ですね。これも、ブラザーがそんな話しできればいいのか。いや、参考になりました」
後藤は満足そうに頷いた。
「しかし、安いな」
後藤がおもむろに言った。
「安い?」
世良が聞き返す。
「これだけの話、コンサルに聞いたら桁が違いますよ。なんか申し訳ないな」
「とんでもない。そう言っていただければ、良かったです。今日はたいしたトレーニングしてないので」
世良が恐縮する。
「何をおっしゃる。よっぽど高度なトレーニングですよ。世良さんは独立した方が儲かるんじゃないですか?」
世良は一瞬、言葉を飲んだ。
おそらく、後藤は何も意識していないのだろうが、今日は要所要所で際どいことを言う。
しかし、このタイミングで言わなきゃいけないなと、世良は意を決した。
「それで実はご報告があるんですが・・・」
「ん?ホントに独立するの?」
「いえ、私、異動になるんです」
「おや、私が追っかけられる場所ですか?」
元々後藤は本店の方を利用していた。ただ、世良を追いかけて今は新港北台店に通っている。
「いや、週一程度は今の店でトレーナー活動は続けるので、今まで通りで大丈夫です。でも、店長では無くなります」
「ということは栄転?本社に行くの?」
「はい。本社所属にはなります。ただ、栄転なのかな・・・何しろ新設の部署なので、まだ何をするかの詳細も決まってない感じなんです」
「新設か・・・優秀なのが本社に見つかっちゃったね。色々大変だ。で、なんて部署なの?」
「はい・・・」
世良は一旦言葉を切った。そして歯切れ悪く言った。
「・・・社長室の室長らしいです」




