やる気の技術 保護者のやる気
深沢家は、新港北台界隈では標準的な家庭だった。
深沢耕作と深雪は社内結婚で、現在も二人とも同社に勤めている。共働きで子供は二人。3LDKのマンション住まい。
耕作と深雪の勤める会社はIT系の企業で、耕作が入社時はベンチャー企業だったが、レッドオーシャンを乗り越え、昨年めでたく創業20年を迎えた。
年齢は耕作が2つ年上で、深雪はマニュアル作成部門、耕作は開発部門でマネージャーをしている。
ただし耕作は自分の職種を聞かれると「プログラマー」と答えていた。
日本のIT企業では、プログラマーより工程管理等をするマネージャーや、対外的な調整と全体設計をするシステムエンジニアの方を上に見る風習が残っているのだが、耕作はそれが嫌いだった。
耕作は他にも理想論と、評論家と、エセコンサルタントが大嫌い。コンピューターの中身・実務を知らない人間が、偉そうなことを言うことに若いころから噛みついてきて、40代になり管理職になった今でも、プログラムを書く技術は若者に負けないように努めている。
「世の中、大した実力もないくせに、もっともらしいことを言って誤魔化すヤツが多すぎる。そんなヤツらに騙されるなよ」
という耕作の口癖に、反抗期を迎えた長男の孝太郎は辟易としていた。
妻の深雪はさすがにその時期は通り越して、耕作の扱い方を熟知している。それゆえに孝太郎から渡された通知をなんて言って耕作に渡そうか考えた。
「陸上部合宿内覧のご案内」
と書かれたA4用紙は、耕作の機嫌が悪くなる地雷が多分にあったからだ。
――数日後――
「おはようございます。それでは本日から3日間合宿を行います」
絵里奈は世良が作成した台本を思い出していた。
そこには、セリフの横にびっしりと注釈がが書かれていた。
冒頭は『声は張る。ただし、余計な感情は入れない。端的に語る』だったっけ。
声のボリュームは生徒だけでなく、後ろで見学している保護者にも聞こえるようにと、何度も練習をした。
「わざわざ合宿をするので、ただ、みんなで一生懸命走るってだけでは意味がありません。まぁ全く意味が無いとは言わないけど、貴重な3日をそれで使うのはもったいないので・・・」
この1回「意味が無い」と言ってから言い直すのも全て台本通りだ。
「目的を定めます」
絵里奈は言いながら板書をした。
目的:トレーニング方法を学び、「成長する技術」を身に着ける
ここで『目的』と書くまでは視線は生徒に向けたまま書き、残りは、ホワイトボードに向かって一気に書く。
この書き方も何度も練習した。
書き終わったら、絵里奈は少し間を取って見渡した。
ここは、馬彦運動公園内にある施設の会議室だ。この施設は会議室の他にもシャワー室、トレーニングルーム、簡易宿泊設備があり、合宿は全てここで賄うことにした。
会議室の机と椅子はスクール形式で設置し、前1列に生徒5人、後ろのテーブルには、保護者4組が座っている。
絵里奈は自分の書いた板書と、生徒の表情を交互に見て、まだポカンをしている生徒達に向けて言った。
「ちょっとよく分からないでしょ?」
ここで絵里奈は初めて笑顔を見せた。絵里奈のいつもと違う様子に、最初は少し警戒気味だった生徒たちの空気が、ようやく緩んだ。
「これはまだ分からなくていいです。皆さんが今頭に入れておいて欲しいのはこっちです」
絵里奈は、板書を付けたした。
目的:トレーニング方法を学び、成長する為の技術を身に着ける
目標:最終日のタイムトライアルで全員5000m自己ベスト20秒以上更新
「ほう」
深沢耕作が頷いた。
「今時は、学校もこんなこと教えるのかな?」
「さぁ」
妻の深雪は適当に相槌を打った。耕作の食いつき方を見て少しほっとした。
「こんなの時間の無駄だ。見る価値無い」
と、途中で帰ってしまうことも十分想像できたからだ。
耕作とは逆に、生徒達の反応は沈んだ。
「この間ベスト更新したばかりなのに・・・」
深沢孝太郎は、先日の世良と佐々木がペーサーを勤めたタイムトライアルで、ちょうど自己ベストを20秒縮めたばかりだった。
あの時は、我ながら会心の走りができた。そこから3日で更に20秒縮めるなんて想像もできない。
「一つ資料を配ります」
絵里奈は生徒の反応を、全く無視して紙を配った。
「これは先日のタイムトライアルの時の、皆さんのピッチです。ペーサーをしていただいた世良さんと、佐々木さんが出してくれました」
そこには各人ごとにトータルの歩数、1分間の歩数、400mごとの歩数が記載されていた。
そして1分間のピッチが5歩上がるごとに、5kmのタイム予想がどうなるかまで書かれてあった。
「すげー」
「どうやってこれ出したの?」
「佐々木が数えました。動画をスローにして」
生徒たちのつぶやきに対して、そこだけ世良が割って入った。
「マジか!」
「さすがやることがエゲツない」
「でしょ。ここまでやると分かることがあるんだ!」
絵里奈の声に生徒が注目した。
「皆さんはピッチを上げる技術にまだまだ伸びしろがある!
ピッチは体力ではなく技術です。技術は徹底して磨けば3日でかなり変わります。ということで!」
絵里奈は板書に追加した。
目的:トレーニング方法を学び、成長する為の技術を身に着ける
目標:最終日のタイムトライアルで全員5000m自己ベスト20秒以上更新
手段:ピッチを上げる技術を向上する(1分間190歩)
生徒たちは黙った。まだ絵里奈の言葉には半信半疑だった。
しかし、皆渡された資料に記載された「ピッチが上がった場合の予測タイム」を凝視していた。
「うまいな」
耕作はつぶやいた。こういう時は、つぶやいているようで話したい時。それを知っている深雪は尋ねた。
「何が?」
「進行と設計だよ。生徒たちのざわめきを言葉で止めるのではなくて、資料と会話の流れで静かにさせただろ。あれは、最初からここで生徒がざわざわするのを想定して台本書いてるんだ」
「へぇ」
「それに、目標に対する手段をセットにして、その根拠まで示す。正直、本当にここまで全部数えたは怪しいもんだけどね。そこは重要じゃない。相手をその気にさせる為の演出を、よく考えた資料だよ」
「あなたがミーティングを褒めるなんて、珍しいわね」
「ああ。たいしたもんだよ。計画もいい。3日で成果を出すためにやることを絞っている。あれもこれもやるのは、短期戦では悪手になることが多いからな」
耕作は、納期が短いプロジェクトでの工程管理を思い出していた。
そういう耕作たちの話を知ってか知らずか、絵里奈は続けた。
「余談ですが、こういう目的・目標と手段をセットにしたものをスキームといいます。みなさんがこの先、仕事をしたら使うかもしれない言葉です。この考えは今から覚えておくといいですよ。目標だけあって手段が『しっかりやれ!』『しっかりやります』なんてミーティングは何時間やっても意味がありませんから」
耕作は噴き出して拍手をした。つられて他の保護者も拍手をした。