やる気の技術 指導者のやる気
「ところで」
世良はホワイトボードの前で、腕組みをして言った。
「なんでしょう?」
「根本的をひっくり返すようで申し訳ないんですが・・・保護者向けの建前を抜きにすると、これは何故必要なんでしょう?」
世良がマーカーでアンダーラインを引いたのは『合宿活動の今後の継続』部分だった。
「何故・・・ですか・・・」
絵里奈は言葉に詰まった。
「はい。ドライな意見で言うと、長距離走の練習はかなりの部分、一人でもできます。選手がやる気が無いのであれば『厳しいトレーニングをサボらせないこと』という意義が昔はありました。でも今はそんな時代ではないですし、選手のやる気に問題が無ければ『合宿をやる意義』を説明するのは難しいんですよね。。」
絵里奈は何も言葉が出ない。思考停止しているのではない。むしろ頭の中はフル稼働している。
集団生活を身に着ける、一生の思い出、仲間意識の醸成、何かしら浮かぶ言葉は世良に対して口にすることは出来なかった。
しかし、勇気を振り絞って一番口に出したくない答えを言ってみた。
「私の・・・自己満足なのでしょうか・・・?」
「なるほど」
世良は、肯定も否定もしないトーンで相槌を打った。
「ただ、自己満足は言葉が悪いですね。とにかく先生は『合宿をやりたい』んですよね?」
「はい。でも・・・」
「いや、それでいいんです」
何かを言おうとした絵里奈に食い気味に、笑顔で世良は答えた。
「『やりたい』は十分立派な理由です。むしろ『やりたい』という感情に、無理やり理屈をつけると真意が濁るので、説明を足すのなら、理屈より感情の言葉の方がいいですね。やりたいのは、やっぱり楽しいからでしょうか?」
字面だけとらえれば、馬鹿にされているような言葉だが、世良の口調も表情もいたって真面目だった。
しかし、楽しいと答えてしまうのは、いかがなものか?あまりにボキャブラリーがなく、子供っぽすぎやしないか?
仮にも自分は教育者だ。しかも英語と国語を教える文系の教師だ。単に楽しいとしか説明が出来ないのも情けない。
「楽しいのもありますが・・・合宿ってなんかワクワクしません。学生にはそういうのも大事だと思うんです」
考えた末に出てきた言葉がワクワクとは・・・もっと別の言葉は無いかと絵里奈が考えていると、以外にも世良はそこに反応した。
「なるほど。『ワクワク』ですか。『合宿はワクワクする』いや、『合宿でワクワクする』かな・・・」
「あのう・・・」
歩きながらブツブツ言いだした世良を絵里奈は覗き込んだ。
「ああ、すみません。ここに関してはもう少し時間をください」
「はい・・」
絵里奈はもう『はい』しか言えなかった。
自分の真意を伝えられないもどかしさ、自分の真意がなんなのか自分でも分からないもどかしさ、そして、世良の真意がわからないもどかしさ等が交錯し、上手い言葉が浮かばないのだ。
「すみません。終わり際にお時間取らせて、それでは確認ですが・・・」
絵里奈の葛藤を知ってか知らずが、世良はこの議論を打ち切った、そして各々のスケジュールと次回打合せのアポを決めて解散した。
――1週間後――
世良、絵里奈、佐々木は再び黒須スポーツの商談室に集まっていた。
「では打合せの2回目を始めましょうか、よろしくお願いします」
「お願いします」
「お願いします」
「では、さっそくですが、前回のお話でいうと・・・」
世良はホワイトボードに板書した。
目的:
・陸上部としての充実・情熱の再燃→記録の向上→弱点調査
・陸上を通じて学習や社会生活ににも必要な忍耐力、協調性、成功体験を
得られることを保護者の方々に伝え、合宿活動の今後の継続の了承を得る
「で、我々の宿題として、この『弱点調査』ですね。実際私と佐々木で練習にも参加させていただいたので、その場でも少し話していますが、改めて共有をします。佐々木よろしく」
「はい。まず先日は練習に参加させていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。生徒もなんかいい刺激になったようで良かったです」
弱点調査として遠くから見ても、部員のストレスになるだけだ。そういう世良の意向で、世良と佐々木は2日間、部員5人と同じメニューをこなしたのだ。
初日はロングジョグと補強トレーニング、二日目は5,000mのタイムトライアルで、世良と佐々木が前と後ろでペーサーを務めた。
佐々木が前で引っ張り、世良が後ろからあおる形だ。
その結果、なんと2人が自己ベストを出し、3人もセカンドベストという好結果となった。
「えー、まず印象としては、やっぱりみんなもっと速くなりたいという気持ちは有ると感じました」
「うん。そうだね」
と世良。
「私は少し自信を無くしました」
と絵里奈。
「そんなもんですよ。非日常という刺激そのものが人を成長させます。だからこそ合宿と言う非日常を上手く使えば、大きく成長する可能性があるんです。おっと、ごめん。佐々木続けて」
世良は、佐々木が無表情で沈黙していることに気が付いて進行を譲った。世良が話し出すとどこまでも喋ることを知っている佐々木は、世良のスイッチが入ると無になる習慣がついているのだ。
「はい。話を戻しますが、やる気はあり、そして良くも悪くも5人仲がいいなと感じました」
「良くも悪くもですか?」
「こちらをごらんください」
佐々木はA4用紙1枚に書かれた簡素な表を配った。
「数えたの?これ?」
世良が聞いた。
そこには各選手の1分間のピッチ(歩数)が書かれていた。
「はい。後でお借りした練習動画をスローにして数えました」
「すごい。ピッチが課題とは先日伺いましたが・・・」
絵里奈は感嘆とも呆れともつくような口調で、感想を述べた。
「この表にあるように5人ともほぼ一緒です。どんな練習でもいつも一緒に走っているんでしょう。
ジョギングのピッチもタイムトライアルのピッチも一緒なので、失礼ながら少し気持ち悪いぐらいです」
全員ジョギングの際のピッチは1分間175歩。タイムトライアルの際は180歩プラスマイナス2歩で収まっていた。
「現状がなんとなく出来上がった集団のピッチなので、個人練習でピッチを意識して自分に合ったフォームを磨けば伸びしろ十分です」
「確かに。それに全員同じ課題だから、合宿のテーマとして、こんなにやりやすいことはないな」
「根本的なこと聞いていいですか?」
と絵里奈。
「どうぞ」
「ピッチの強化って技術なんですか?わりとフィジカル(体力)面なイメージですけど」
「両方ありますね。おっしゃる通り、一般的には長距離の場合、ピッチはインターバルとかの、強度の高いスピード練習で鍛えることが多いです。だから、フィジカルトなイメージを持っている人も多いですが、技術的側面も多いですよ」
「そうなんですか?」
絵里奈はまだピンときてないような表情をした。
「そうですね。例えば、ひらがなの『あ』という文字を10個書くとしましょう。
大人と、文字を覚えたての子供なら、大人の方が書くの早いですよね?」
「はい」
「これは、文字を覚えたての子供は、大脳で書いているからなんです。『横棒引っ張って、縦棒引っ張って、斜めから線入れてくるっとまわして』って考えながら書いてるから遅い」
「ですね」
「でも大人は、そんなことやらないですよね。大人はそこは考えなくても出来るように、もう脳の別の部分に『あ という文字を書く』というプログラムが出来ているんです」
「へぇーーー」
「もっと言えば、大人同士でも書くのが早い人と、そうでない人の差はあると思いますが、別に文字を書くのが早い人が、前腕の筋肉が太いってわけでもないでしょ?これが筋力とは別の、プログラムの質の差なんです。逆に言えば、このプログラムの質を上げることが技術練習なんです」
「理解しました!」
「ということで」
そういうと世良はホワイトボードを書き足した。
目的:
①陸上部としての充実・情熱の再燃
②陸上を通じて学習や社会生活ににも必要な忍耐力、協調性、成功体験を
得られることを保護者の方々に伝え、合宿活動の今後の継続の了承を得る
目標:①ピッチの強化(タイムトライアル:190 ジョギング:185)
→合宿最終日に全員自己ベスト更新
②合宿の目的と目標、達成手段を保護者に説明する機会を設ける
「こんなものかな?目標数値は適当だけど、とにかく3日でベストさえ更新すりゃいいという観点で考えてみた」
「そうですね。これが出来ればタイムは自然に上がると思います」
「だね。1分間のピッチが5歩増えれば15分で75歩は増えるから距離にして100m程度は先行することになる」
「とすると・・・20秒以上はタイム縮められますね。かなりざっくりですが」
「5000mで20秒ベスト更新すれば相当だよ。17分を切る者も出る可能性も出てくるな」
「いいっすね。17分と16分じゃ聞こえが雲泥ですから」
世良と佐々木は、ホワイトボードの隅に、計算を書きなぐりながら話している。
「あの・・・すみません。あまりついていけてなくて・・・」
意を決して絵里奈が割って入った。
「ああ、すみません。どの辺がピンとこないですか?」
「ワリと最初から、目的と目標って違うんですか?後、お恥ずかしながら計算も苦手な方で・・・16分台が本当に出たらすごいなぁ・・・ぐらいしかついていけてません」
「おお、16分出たら凄いと思います?!」
「それは思います!」
「『ワクワク』しました?」
「しました!」
「素晴らしい!」
ポカンとする絵里奈に、世良は分厚い資料を手渡した。
「実はコーチングのご依頼に関して、大幅な手直しをご提案しようと思っておりまして」
その資料には『コーチングプランB』と書かれていた。
「それでは、ご提案内容を説明させていただきます」