やる気の技術 プロローグ
スポーツ、トレーナーを中心としたお仕事小説です。
現実では優秀な人がする仕事にはドラマは起こらないもの。
それはしっかりと準備を行うから。
その準備に焦点をあてて書いた話です。
トラブルが起こらない小説ですので、お気軽にお読みください。
ただし、仕事、スポーツの理論は少しマニアックです。。。
そこは軽く流しても大筋に支障はありません。
また、連作短編なので、興味のないテーマの回は飛ばしていただいてもさほど支障はありません。
くどいようですが、お気軽にお読みいただければ幸いです。
K県、新港北台駅周辺は、ここ30年で急速に発展した地域である。
首都圏へのアクセスの良さから、まずオフィスビルが増え、ビジネスホテルが増え、飲食店が増えた。
更に駅ビルが拡充し、コンサートホールが出来、大型ショッピングセンターが出来、10年に1本のペースで私鉄の乗り入れが増えた。
駅を初めて降りた人は、かなり都会的な印象を受けるだろう。
「新しい駅を作る為に、港の、北の、山を切り開いたから新港北台。味気ない名前ですよ」
老人が言った。もっとも老人らしいのは顔と話の内容だけだ。彼は、蛍光色のピンクのTシャツに、同じ色の短パン、更にはレモン色のキャップをかぶり、レモン色のシューズを履いている。その姿は、夕闇の中でもとても目立っていた。
話をしながらも時折ストレッチや腿上げを行っており、エネルギーに満ち溢れている。
「山と言っても丘みたいなもんですがね。地元民は馬彦山と呼んで親しんでいたんです。ただ、もう見る影もなくなってしまいました。だから、せめて名前だけは残そうということで、ここは馬彦運動公園っていうんです」
老人は、アンクルホップと呼ばれるその場跳び運動をはじめた。軽快そのもである。
「そうなんですね」
話相手にさせられていた女性は、20代半ばから後半といったところ。格好はやはりフィットネス系のウエアではあるが、色合いは黒の上下に白のシューズと、老人に比べて随分おとなしいものだった。
「お姉さん、そんなにちゃんと聞かなくていいよ。その人、新しい人には、みんな同じ話するんだから」
そう言ったのは40前後の女性だった。彼女は紫のTシャツに黒のロングタイツ、タイツの上に派手な柄の短パンを履いている。
言われるまでもなく、この老人はここの主のような存在、そして紫Tシャツの女性はそのフォロー役なのだろう。どこのコミュニティにもこういう人間関係のようなものが自然発生するものだ。
「いえ、勉強になります」
新人女性は優等生な回答をした。
気が付けば周りは一人二人と人が増え、20人ほどの集団になっていた。
そして、ちらちらと時計を見る人が増える。
公園の時計がちょうど19時、午後7時を指したところで、集団の中で談笑していた一人の男性が、片手を上げて声を張った。
「それでは時間になりましたので、ラン二ングセミナー始めます!参加の方はお集まりください」
招集をかけた男は身長170cmぐらいで、中肉中背と言ったところ。一般的な長距離走の選手と比較すると、やや太めの印象だ。格好はオレンジのTシャツに黒の短パン、オレンジのランニングシューズを履いていた。
「はい。それでは本日のセミナーを始めます。担当します、世良と申します」
世良と名乗った男は、一度周りを見渡した。
そして、周りの反応を見ながら続ける。
「今日初めて参加の方もいらっしゃいますので、初めに少し、自己紹介させていただきます。私、この近くの、黒須スポーツという店の、店長をしております」
話しながら、どこかを指すゼスチャーをする。おそらくそこに黒須スポーツがあるのだろう。
「ランニング趣味が高じてこんな仕事をしているので、宣伝と趣味をかねて毎週水曜にセミナー、練習会を行っています」
世良は『宣伝』と『趣味』を強調して言った。
「完全な陸上畑ではないので、おこがましいのですが、その分、市民ランナーの方の特有の課題や、悩みに特化したセミナーをやらせていただいております。よろしくお願いします」
おそらく毎度の自己紹介なのだろう。流れるように挨拶が終わると、ベテラン参加者と思われる者達から拍手が起こり、やがて参加者全員の拍手になった。
「はい。それでは今日のテーマ『やる気の無い日のトレーニング』です。おそらく市民ランナーにとって、一番重要なテクニックです」
何人かが頷いているのを見て、世良は続ける。
「私の自己ベストは10kmで34分30、5kmで16分15、フルで2時間58分なのですが」
ここで一部から「速っ」と声が上がる。実業団の陸上選手には遠く及ばないが、市民ランナーとしてはかなり上位のタイムであり、それを分かるレベルの参加者が多いのだろう。
「一番走っていた頃で、月間300kmぐらい。回数にして月20日ぐらい走っていました。で、その20日中やる気満々で走る回数はというと・・・どれぐらいだと思います?」
世良は少し間を取って反応を待った。
(10日ぐらい?、いや5日ぐらいじゃない?)
等、何人かが話している。
ある程度の反応が出きったころを見計らって、世良は口を開いた。
「よくて2日ですね」
世良は2本の指を立ててVサインを作った。
「20日のうちやる気があるのは2日ですから、残りの18日は『だりぃーなぁやりたくねーなぁー』と思いながら走っていました」
初心者はざわめき、ベテランは笑う。
「逆に言えば『やりたくねーなぁー』と思う日に練習を休んでしまうと月に2日しか練習できません」
再びVサインを作り、立てた2本の指をワキワキ動かしながら話している。
「だから、市民ランナーの走力の差ってここで一番出るというのが私の持論です」
ここで一旦周りを見た。
「いかに『やりたくねーなぁー』という日に練習するかというのが実は一番の技術なんです」
再び周りを見る。
「フォーム、基礎体力、もちろん大事です。でもそれ以前に『気持ちの作り方』にすごい『技術』の差があるんです」
世良は『技術』という言葉を特に強調して喋った。
「分かるわー」
「加藤さんもそうなんですか?」
「そんなもんだよ。走る前は」
参加者同士で軽い雑談が起こる。
「あっ今、加藤さんが、凄く良いことを、おっしゃっいました。そう『走る前は』なんです」
世良は参加者の雑談を拾った。
「加藤さんのおっしゃる通り、ランニングというのはゆっくり走れば、何もつらくありません。それを知っているランナーの皆さんは、一旦は走ってしまえば止めたくなることは、ほとんどないですよね?『走るのは辛い、気が重い』というのは、イメージなんです。でも人間の脳は、分かっていても、一度ついたイメージには逆らえません」
加藤と呼ばれたピンクウエアの老人は、満足げに頷いた。
「そうなると、誰かに尻を叩いてもらって、有無を言わさず走るというのも一つの答えです。昭和の部活方式ですね。 しかし、困ったことに現代の、しかも社会人は、尻を叩いてくれる人がなかなかいない。。。」
だんだん、頷く人が増えている。
「余談ですが、私の知り合いの整体師が言っていました。大人になると肩こりが増える一番の原因は、体育の授業が無くなるからだと。確かに、1時間程度の運動を週3回する大人って、少ないでしょ?だから肩がこるんだと」
参加者の反応を見て、少しづつ世良はフランクな言葉を混ぜるようになった。
「思い返せば私も、球技が苦手なので、体育で球技をやる時は苦痛でした。こんな苦手な運動させられるより、好きな運動したいって思っていました」
世良は両手を広げて、『ウンザリだ』というような表情と仕草をする。
「しかし、いざ、大人になって自由を手に入れると、好きなランニングでもやる気になるのは、月に2日なんです。。。 自由というものは、いざ手に入れてみると、存外使いこなすことが難しい」
軽い笑いが起きた。
「ウチの子に聞かせたいわ」
と紫Tシャツの女性が、合いの手を入れる。世良は軽く「ありがとうございます」と反応してから続けた。
「そこで私が使っているのは『ハードルを下げる』というテクニックです。尻を叩かれなくても出来るレベルに、走るハードルを下げてしまうんです」
既に内容を知っているであろう、ベテラン勢はニヤニヤし、初参加の者達は、要領を得ない顔をしていた。
「前置き長いですよね。だって今日のセミナーの内容、端的に話したら1分で終わってしまうので」
常連が笑う。
「結論を言います。明日、朝起きたらジャージに着替えて1回外に出てください。そして、そのままUターンして家に戻って二度寝してください。1回これをやるだけで、月間に走る回数が5回は増えます」
世良は声のボリュームとトーンを2レベルぐらいあげ、活舌よく言い切った。