遥陽と過ごす一日①
***
今日はいつにも増して、トイレが近い。ちゃんと頭では平静を保とうとしているんだけど、本能がそれを拒否しているみたいだ。
遥陽がうちに遊びに来ることなんて、昔は当たり前のことだった。いちいちそんなことぐらいで緊張していて、どうするんだ僕。
遥陽との約束の時間である十時まで、あと五分ぐらい。
今、家には僕しかいない。美帆は朝っぱらからそそくさと出かけてしまった。その理由は考えるまでもない。今度アイスでも買ってあげないと。
結局昨日は、あれから美帆と二人で話をすることはできなかった。夕食後は美帆は早々に部屋に篭ってしまったし、僕の方も万が一にも昼まで寝てしまわないように、普段より早めに眠ったからだ。
部屋は片付けた。元々質素な部屋だから、物もそれほど多くない。一応将棋とトランプを用意したけど、出番があるかは不明である。スゴロクも探したんだけど見つからなかった。とっくの昔に捨ててしまったのか。
――と、静寂な空間に来訪を知らせる呼び音が鳴り響いた。
オートロックのあるエントランスからの知らせ――ではなく、玄関のチャイムだ。
「えっ……?」
予想外の不意打ちに、一瞬思考が停止する。けど待たせるわけにはいかないと、僕は玄関のドアを開けて来訪者を迎えた。
「おはよう凛くん!」
「……おはよう遥陽。どうやってここまで入ってこれたの?」
「あー、私も下で呼ぼうと思ってたんだけど、たまたまここの人が入っていったから、その隙にちょいちょいっとね」
ただの不法侵入だったらしい。そのセキュリティの穴をついたような入り方は、僕もたまにやるけど。
僕は遥陽にあがるように促し、ドアの鍵を閉めた。うちはお客さんとかが来ることは皆無のため、スリッパ一つない。さっき入念に掃除機は掛けておいたから、まあいいかな。
「おじゃましまーす」
「飲み物持ってくるから先に僕の部屋で待ってて」
遥陽を部屋まで案内して、僕はリビングからお茶とグラスを二つおぼんに乗せて、戻ってくる。
部屋の隅に置いてあったクッションを持ってきて、遥陽にそこに座ってもらった。小さいローテーブルがあるから、そこにお茶は置こう。
「はいこれ、外は雨だけど暑かったでしょ」
「ありがとう。凛くんちのお茶飲むのも久しぶり
だ」
「お茶なんてどこの家と似たようなものじゃないの?」
「全然違うよ! 同じパックを使ってても、家庭によって味が変わるんだって!」
遥陽は、僕が注いだそばから半分ほど飲み干した。そんなものなのか……。僕はあまり味なんて意識したことなかったな。
「それにしても本当に懐かしいね、凛くんの部屋」
遥陽はおもむろに立ち上がると、ぐるりと辺りを見渡した。
「最後に来たのって小学生の時とかだよね? あんまり変わってないでしょ?」
実際、大胆な模様替え等は一切していない。六畳の部屋にベッドと勉強机。それから本棚で、大体のスペースは埋まっている。
「そうだね……本棚は昔はスカスカだったのに、今はギッシリになってるね。……それにしても、凛くんって心理学とか興味あるの?」
そう言って遥陽は一冊の本を取り出すと、その表紙をまじまじと眺めた。
タイトルは『最強のマインドコントロール』。
「興味があるっていうか……昔ちょっとテレビで見て……」
できればそれにはあまり触れてほしくなかった。他には『メンタリズムの本質』や『心と脳を支配する方法』などがある。
「ふーん……難しい本読むんだね。私はたまに恋愛小説とかを読むぐらいだけど、そういうのはないの?」
「小説はミステリー系が少しあるぐらいかな……美帆ならもしかしたら持ってるかもしれないけど」
よかった。遥陽の興味は別の方に移ってくれた。いくら遥陽と言えど、これ以上黒歴史を掘り下げられるようなことは耐えられない。
ここにある心理系の本は、中学の時に買って読んだ物なんだけど、処分しようと思いつつも結局できずにいた。こんな怪しさ満載の啓発本だけど、多少昔の僕の役に立ってくれたから、何だかんだ手元に置いてしまっているのだ。
「美帆ちゃんって言えば……」
「うん?」
他にも何かおもしろい本がないか物色していた遥陽は、その手を止め僕の方に向き直った。
「今って美帆ちゃんいるの? 来たときからかなり静かに感じるけど」
「……いや、いないよ。昨日遥陽が来るって伝えたら出ていくって言われて……」
「そう……なんだ」
少し気まずい雰囲気が流れる。遥陽もそれだけで、美帆の行動の意図を察したのだろう。二人ともお人好しだから、いろいろと気を使ってしまうんだ。
「そ、そうだ遥陽! 何か遊んだりする?」
ここはちょっと話題を変えて、重くなった空気をリセットしないと。僕は準備していたトランプと将棋盤をテーブルの上に乗せた。
「……これで遊ぶの? 二人でトランプ……?」
「じゃあ将棋する?」
「……私駒の動かし方とか分からないんだけど」
「…………」
やってしまった。僕は一体何を思ってこれらを準備したんだ。男友達と遊ぶわけじゃないんだ。それに二人でトランプって。マジックショーをするならともかく、一番つまらない遊びじゃないか。
……ていうか、僕って昔遥陽とどんな風にして遊んでいたんだろう。美帆と三人のことが多かったけど、遥陽と二人きりだってたくさんあったらず。なのになぜかそこら辺の記憶が曖昧で、あまり思い出せない。
「――よいしょっと」
「遥陽……?」
僕が眉間を指でこねくり回して過去の記憶をほじくり出そうとしている時、すぐ隣にドサッとクッションが置かれ遥陽が勢いよくそこに腰を下ろした。
「やっぱり凛くんは昔と変わらないね」
さっきまで向かい合うように座っていたのに、いきなり距離が近くなる。
「これ私と遊ぼうと思って準備しててくれてたの?」
完全に笑いを必死に堪えているのが見て取れる。僕だって、冷静に考えたらおかしいなって分かるよ。でも冷静になれるわけないじゃん。
「凛くん、私たちもう小学生じゃないんだよ。もう高校生だし、今日だってデートのつもりで来たんだから」
「う、うん……僕もそのつもりだよ」
遥陽が昨日電話で話していた。友達が彼氏とおうちデートをしていて、それに憧れているって。でも僕はホストとしても彼氏としても、今のところダメダメだ。
あの頃はただの友達だったけど、今はそうじゃないんだ。こんな子供の遊びじゃなくて、一緒に映画を観たり、次どこに遊びに行くかとかを話し合ったりするのが一般的なものに違いない。
そうとなれば話は早い。家族で登録しているサブスクから遥陽が好きそうな映画をピックアップして
――
「……そ、そっか。凛くんもちゃんと……その、心の準備はしてたんだね」
ポケットからスマホを取り出そうとして、僕の左手が遥陽に重ねられていることに気づいた。
「はる……」
至近距離で視線が交錯し合う。今日の遥陽は何だか大人っぽい感じがする。
……ああそうか。いつもは髪をくくってポニーテールにしてることが多いけど、今はおろしているから少し雰囲気が違ってたんだ。
「凛くん……」
重なった遥陽の五本の指が、舐めるようにして僕の指の隙間に入り込んでくる。肩が触れ合った。遥陽は離れようとせず、逆らうことなく僕に身を預けてきた。
いい匂い。毛先からふんわりとしたシャンプーの香りが流れ込んできた。
さすがの僕でも、察してしまう。さっきの僕の発言が遥陽の勘違いを生み、ある覚悟を固めさせてしまったと。
「凛くんってもうファーストキスはすませた……?」
遥陽の唇は、触ると弾かれるんじゃないかってぐらい、艶やかな光を帯びていた。実際はそうじゃないのかもしれないけど、今の僕の目にはそう映った。
「まだ……だけど。彼女だって遥陽が初めてだったし……」
「私もだよ。初めては絶対に好きな人――凛くんがいいって思ってたから」
「遥陽…………」
こうなるかもしれないってことを想像していなかったわけではない。むしろ昨日美帆にからかわれたけど、心のどこかでそういう期待も少しはしていた。
遥陽の言う通り、僕たちはもう高校生なんだ。心も身体も、あの時から成長している。
僕は繋がれた遥陽の手を強く握り返した。
「……んっ」
それを合図と受け取ったのか、遥陽は目を瞑って少し顎を上げた。
僕たちの物理的な距離は、もう十センチもない。遥陽は待ってくれている。僕があと少し顔を前に――
「――もう、おそいっ!」
――えっ。
と言うために開きかけた僕の口は、遥陽によって塞がれた。反射的に後ろに退けぞろうとしかけてしまったが、遥陽のもう一方の手が僕の頬に添えられる。
僕はそのままの体勢のまま、永遠にも思える時を過ごした。ただ唇同士が触れ合っているだけなのに、どうしてこんなにドキドキしてしまうんだろう。
「……しちゃったね」
「……うん」
言葉でその感想を言い表すことはできなかった。照れたように俯く遥陽がとても可愛い。
「誰かさんがウジウジしてるから、つい我慢できなくなっちゃった」
「……ごめん」
「でも凛くんのファーストキスを奪ったって響は悪くないかも」
やっぱり僕はヘタってしまった。遥陽は完全に受け入れ態勢だったのに躊躇するなんて、もう男失格なのかもしれない。
「次は絶対に……僕の方からするから……!」
「――うん、絶対だよ。何なら私は今からでもいいけど」
「えっ、いや……ちょっと休憩を……」
「ふふっ、本当にしょうがない子だなあ」
キスを済ませても、僕たちの間に劇的な変化――なんてものは起こらない。何だったら、僕自身それほど実感というものが湧いていない。
外国とかでは挨拶代わりにキスをしたりするっていうけど、それは本当なのだろうか。僕も慣れたらいつしか僕もそんな風に……って慣れるのにどれだけ回数を重ねれば……。
遥陽の柔らかな感触は、離れた今でもしっかりと残っている。お互い不慣れに口元をもぞもぞと動かそうとしたり、思わず息を止めてしまったのは、あとでいい思い出になるのかもしれない。
もしこの先、何度遥陽とキスをすることがあっても僕は今日を忘れることは決してないだろう。
それだけ、初めてというのは大切なものなんだと、改めて思うことができた。
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