義兄と義妹
美帆は部活から帰ってくると、まず最初にシャワーで汗を流す。出る頃には晩ご飯の用意ができて食べ始めるだろうし、時間が取れるのはその後になるかな。
それまで僕は、あと少しだけ残っていた夏休みの宿題を終わらせることにする。最初のうちは余裕だと思っていたのが、途中でペース配分をミスったのか結局最後まで残ってしまった。
と言っても、面倒くさいのは先に片付けたから、残りは頭をほとんど空っぽにした状態でもたぶん大丈夫だろう。
そんな風に考えながら問題集を開けたのと、部屋の扉の外から控えめなノックがされたのはほぼ同じタイミングだった。
「――兄さん、今大丈夫?」
「美帆? 大丈夫だけど……」
「じゃあ入るね」
靴を脱いでそのまま僕の部屋に直行してきたのだろうか。部活の練習着姿の美帆が、扉を半開きにした隙間から姿を見せた。
想定外の事態に、僕は反射的に問題集を勢いよく閉じる。何も悪いことはしていないのに、こっそりやっていたゲームを隠したみたいだ。
「遥陽さんから聞いたよ。兄さんと付き合うことになったって。昨日手繋いでたのもやっぱりそういうことだったんだね」
美帆の声にはあまり抑揚が感じ取れない。普段から感情を乗せる子ではないんだけど、僕の気にしすぎか……?
「……うん、美帆には早く言っといた方がよかったよね……ごめん」
「何で兄さんが謝るの? 兄さんが誰と付き合おうが兄さんの自由なんだから、別にわざわざ美帆に報告しなくてもいいよ」
「いやなんか機嫌悪そうに見えたから……遥陽は美帆にとっても特別な人だろうし」
やっぱり黙っていたことに怒っていたわけではなかった? 僕が勝手に敏感になっていただけ?
美帆は少し考える素振りを見せたあと、完全に部屋の中に入った。後ろ手でゆっくりと扉を閉め、そのまま背中を預ける形でもたれ掛かる。
まるで今からが話の本番だ、とでも言いたげな雰囲気を醸し出していた。
「遥陽さんのことって前から好きだったの?」
「そういうわけではなかったんだけど……好きって言ってもらってから意識するようになったっていうか……」
「九条さんって人のことはもうよくなったの?」
「うーん、今はもう……僕が一人で盛り上がってただけって分かったし」
これは一体何なのだろうか……。尋問を受けているみたいだ。
「じゃあ遥陽さんじゃなくても、別の女の子に告白されてたら、その子のことを好きになってたかもしれないってこと?」
「えっ……? それは……」
そんなことはない、とはすぐに言い切れなかった。そもそも直接的な好意を受けるような人生を送ってこなかった僕が、そのような妄想じみた仮定の夢を考えるだけ無意味だったから――
遥陽は幼なじみで、大切な友達だった。最初からそこらのクラスメイトより、遥かに僕が優先すべき人なのは確かである。
だからそういう意味ではやっぱり僕は遥陽だからこそ、進んだ関係になりたいと思えたんだろう。
「……絶対にとは断言できないけど、遥陽じゃなかったら、僕は誰かと付き合おうなんて思わなかったかもしれない」
「……そっか。兄さんは気づいていなかったかもしれないけど、遥陽さんずっと兄さんのことが好きだったんだよ」
「そ、そうなの?」
「そりゃ昔からずっと見てきたんだから分かるよ。今はもう、兄さんより美帆の方が一緒に過ごした時間は長いんだし」
「そんなこと全然考えもしなかったよ……遥陽は近くにいるけど、学校の中では遠い存在だったし」
遥陽は僕と違って、校内でも明るくて男女問わず誰からも好かれるような存在だった。僕はそんな人たちよりも少しだけ、遥陽と出会った日が早かっただけ――だと当時は考えていた。
「兄さんは鈍感すぎるんだよ。こんなにすぐ側で兄さんのことが大好きな人がいるっていうのに、次々に他の子を好きになっちゃうんだから」
「それ褒めているように見せかけて、全然褒めていないよね」
「当前。むしろ呆れてる」
あっ、今ほんの一瞬だけど口元が綻んだ気がする。ツンとした表情で口の先を尖らせている美帆だけど、本当に怒っているわけではないんだと、なんとなく分かる。
「そのことなんだけどさ、明日遥陽が家に遊びに来ることになって……」
「美帆は邪魔だから出ていけって? そうだね、美帆がいたらできないこともあるもんね?」
……あれ、これはマジでちょっと怒ってるやつ? やっぱり美帆は読めない。
「いやまだ何も……それに雨の予報なんでしょ? 外に出るのも……」
これは僕の言い方と切り出しが悪かった。美帆の言う通り、こんなのあからさまに邪魔だって言ってるようなものだ。
もうちょっと他に言いようとかあっただろうに……。これだと美帆にただただ気を使わせてしまうだけだ。
「まあいいけど。雨って言っても警報が出るレベルとかではないと思うし、適当に友達に連絡して明日会える人探すよ。だから兄さんは気にせずイチャイチャしてね」
い……イチャイチャって……。僕を見据える美帆の目線が不自然に外れて、枕元の方に移った――のは錯覚だろうか。
「ぼ、僕たちはまだ健全な関係だからね……! 手を繋いだりはしてるけどそれ以上は……!」
「美帆なにも言ってないんだけど。兄さんったら顔真っ赤にして一体どんなことを想像したの? 」
……完全に弄ばれてる。たった一つの視線誘導で動揺する僕とは対照的に、美帆の澄まし顔は崩れない。
もう精神年齢は追い抜かれたのかもしれない。
このまま美帆に主導権を握られ続けるわけにはいかない。何とか別の話題で――僕は頭をフルスロットルさせた。
「――あっ、そうだ。今日バイトで知ったんだけど、美帆って達海さんと友達だったの?」
突拍子もない僕の問いかけに、美帆は何度か瞬きをして首を傾げていたけど、すぐに思い当たることがあったようだった。
「……達海さん? って達海華奈ちゃんのこと?」
「うん、小学校からの付き合いで今も交流があるんだってね」
「それって華奈ちゃんから聞いたの?」
「えーっと……」
正確にはそうじゃないんだけど、さすがに福村くんのことを話すのは本人に悪いからどうやって説明したものか……。
「達海さんにたまたま友達と遊んだ時の写真を見せてもらったんだけど、そこに美帆が写ってたからびっくりして……でも達海さんって僕と美帆が兄妹だってこと知らないよね?」
「……うん、てか華奈ちゃんと兄さんが同じバイトってこと今初めて知ったよ……いたっ」
「だ、大丈夫?」
――喋りながら後ずさった美帆は、足を思いっ切り扉にぶつけた。
「……大丈夫、大したことないよ。でももしかして……それならあのことも……」
「……美帆?」
美帆はどこか上の空でぶつぶつと呟いていた。急にどうしたんだろう。 僕の呼びかけが耳に届いているのかも定かではない。
「ごめん兄さん、長居しすぎたからもう行くね」
「えっ、わ、分かった……」
……どうしたんだろう? 実は達海さんと喧嘩中とか?
***
ノックをする。念のために三度。
返事はない。今日もどっぷりと夢の世界に浸かっている。
「――兄さん大好きだよ」
息を殺してかがみ込む。落ちてきた前髪を手で払い除けつつ愛しの人の唇に近づけていく。
「――んっ……」
そのまま吸い付きたい欲望を何とか抑えつつ、名残惜しさを残しながら、最後にちょびっとだけ舌先で堪能する。
「遥陽さんとはまだなんだね。美帆はもう二回もしちゃった」
ベッドの脇に追いやられていた薄い毛布をかけ直してあげる。
「遥陽さんも華奈ちゃんも信用できない。美帆は美帆のやり方でする」
それは決意のような一人言。今日美帆の中で、一つ大きな勉強になったことがある。
――こと恋愛においては、女の友情なんて無いに等しいということだ。
「美帆が兄さんに告白したら、遥陽さんみたいに、兄さんはちゃんと真剣に悩んでくれる?」
このままずっと寝顔を眺めているのも悪くないが、ただでさえ生き殺しの状態なのにそんなのことをしたらいつ爆発するか本人にさえ分からない。
「――お休み兄さん。次は口を開けて待っていてほしいな……なんて」
そして、夜が開ける。
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