第一話 すぐ側にあるありふれた日常
朝日が射し込むその部屋で、僕はいつも通りに目覚めた。
はき始めて三年目に突入したジーンズにすり切れたバンドを通し、色あせた皮の財布をポケットの中につっこむ。
今日も快晴。
こんな日に仕事があることを少しだけ恨めしく思いながらも、こんな日に働くのも悪くないかなと思い直す。
寝癖がついたぼさぼさの頭をなでつけながら、ちょっと大きなあくびを一つ。
眠い目をこすりながらぼろぼろのスニーカーに足を引っかけると、きしむ音を立てて目の前の扉を開いた。
天井と床の隙間から、澄み切った青空が顔を覗かせている。
眩しくて目を細めながら、僕は新しい一日に一歩踏み出した。
今日も良い一日になりそうだ。
誇りにまみれて焦げ茶になった木製の引き戸を開けると、いつもかぎ慣れた匂いがする。
湯気の熱気と共に漂ってくるその匂いはひどく食欲をそそる。
ラーメンの匂い。
酔ったときには必ず食べたくなるような匂いが、僕の鼻を通り過ぎ、脳天に直撃する。
<中華 龍天>
この場所が僕の職場だ。
そんなに広くはない店内に、テーブル席が三つと、カウンターに六人。
これがこの場所の全てだった。
行列が出来るほどではないけれど、常連さんも来てくれるような、そんな、ほっとする場所。
カウンターの向こう側で、湯気が踊っている。
それとともに響いてくる、低い男の声。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
こちらをちらっと一瞥しただけで、すぐに手元に視線を戻す壮年の男に、僕は挨拶を返した。
男の名前は須藤明。通称、おやっさん。
彼は昔ながらの職人気質ってやつを物質化したかのような人物で、無口、無愛想を貫き通す、いまどき見かけないナイスガイである。
本人は<ないすがい>などといういう異国の言葉なんて知らないだろうけども。
彼の手元にある寸胴鍋から、もわもわと白い湯気が、濃厚なスープの香りと共に沸き立っている。
もう何千回と見てきた、新たな食物の誕生。
見慣れても見慣れても見飽きることのない瞬間が、心をわきだたせる。
つい見とれてしまった僕を追い立てるかのように、おやっさんの声が店内に響く。
「ぼうっとしてないで、早く仕事についてくれ」
「はい、おやっさん!」
午後三時。
太陽の光が西に傾きかけたこの時間に、龍天はとりあえずの安息を迎える。
あんなに賑わっていた店内からサラリーマンや学生達の姿が消え、部屋の中は空白の時を刻む。
汗をぬぐいながら休憩所へと消えていくおやっさんの後ろ姿を見送った僕は、表に出ていた暖簾をはずし、空を見上げた。
目映いほどに蒼い景色の中、白っぽい月がまん丸の姿で顔を出している。
朝よりも少し濃くなった空が、街を照らす。
今まで何度も何度も繰り返された景色。
そして、明日からはもう、繰り返されないであろう風景。
今までなにも感じなかった当たり前な、本当に当たり前なことが、なぜかとても切なくて。
大作映画のような押しつけがましい感動ではなく、もっと小さななにかが、僕の胸の中に迫ってきて。
僕は泣いた。
声を上げることなく、涙だけが勝手に出てくるようで。
静かに静かに僕は泣いた。
いつまでそうしていただろう?
僕はふと、こちらの方をじっと見つめている視線に気がついた。
照れくさくて恥ずかしくて、汚れの付いた服の袖で乱暴に涙をぬぐいながらその視線に顔を向けると、そこには小さな小さな犬がしゃがみ込んでいた。
元は白であっただろう、薄ねずみ色の体をしっかりと伸ばし。
敵意を振りまくのではなく、かといって媚びているでもなく、ただ彼はそこに座っていた。
なんとなく興味がわいた僕は、その犬に向かって手を伸ばす。
人に慣れているのだろうか、彼は少し頭を垂れ、撫でようとする僕の手を置きやすいように傾けてくれた。
撫でられることが気に入っているらしく、気持ちよさそうに目を閉じ、頭に感じる手の動きに身を任せている。
愛着がわいてしまった僕はなにか食べ物でもやろうと立ち上がり・・・・・仁王立ちでこちらを見ているおやっさんに出くわした。
「なにをしてるんだ?」
「この犬になにかくいもんでもやろうと思って」
「だめだ」
僕の言葉に、店内に入りながらおやっさんは言い切った。
「この店にあるものは全てお客さんのものだ。お客さんはこの店の味が好きで通ってきてくれてるんだ。だから、それはできない」
心が狭いなと思った。
頑固者だけど、実は涙もろくて義理人情に厚いおやっさんらしくないと思った。
だけど、おやっさんにはおやっさんなりのこだわりがあるのだろう。
だから僕は従った。
おやっさんの後に続き店内に足を踏み入れる。
最後の瞬間、ちらっと後ろを振り返ると、彼は再び背筋を伸ばしてこちらを見つめていた。
「ありがとうございました!」
午後九時十四分。
店の閉店から十四分遅れで最後の客が帰った。
そう、最後の客。
今日で龍天は二十五年続いた歴史に幕を閉じる。
二十五年。
口にするとたった数秒で言い切れてしまうその言葉の中に、どれだけの想いが込められているのだろう?
おやっさんの歩んできた人生の時間。
その最後の瞬間に、僕はこうして立ち会うことができた。
世界規模で考えれば、本当に小さなことなんだろう。
だけど僕は、いまこの瞬間にここでこうやって立ち会えていることを誇りに思う。
その想いの中に、たとえ数行でも僕の存在が書き込まれたことを誇りに思う。
僕は店の最後に幕を引くために、入り口へ向かって歩き出した。
何度も何度も歩いてきた床の感触をたしかめ、何度も何度もくぐった入り口の扉に手をかける。
開かれた引き戸の向こう側。
その先に、彼はいた。
薄汚れて見えた体毛は月の光を浴びて銀色に輝き、背筋を伸ばしているその姿は誇り高き狼に見える。
小さな体が、誇らしげに息づいている。
その姿がなんだか切なくて、僕は彼の姿を見ないようにして暖簾を手に取った。
と、そのとき。
おやっさんが調理場から僕の方へ向かって歩き出した。
背中越しに外を見つめると、僕の方へ向かって声をかける。
「入れてやりな」
「え、でも、犬はだめなんじゃないんですか?」
「ああ、だめだ。癖になると何度でもくるし、お客さんの中には犬が嫌いな人もいるからな。だけど、うちの店のラーメンが食いたくて待っていたんだろ?だったらこいつはうちのお客さんだ。それに、どうせこれが最後の客になるんだしな。今回は特別サービスだ」
そう言いながら再び調理場へと向かうおやっさんの言葉がわかったのだろうか、それまで黙ってこちらを見つめていた犬が店の中へと入ってくる。
暖簾を手にした僕は、彼らの後に続く。
部屋の中は沈黙と湯気、そしておやっさんが鍋を振る音に満たされていた。
聞き慣れた音、嗅ぎなれた匂い、見慣れた姿。
僕にとって当たり前となった景色が、その場所にはあった。
なにひとつ、そう、なにひとつ変わらない景色がその場所にはあったんだ。
このときが永遠に続くんじゃないかって想いが、心の中に生まれる。
たとえそれがたんなる錯覚だったとしても、僕は信じたかった。
ぼんやりと眺めていた僕の前に、いつも手にしていたどんぶりが置かれた。
もっとも基本的な、そしてもっとも愛されていた、龍天の醤油ラーメン。
僕の座ったカウンターの隣の席におっちゃんが座り、三つのどんぶりのうちの最後の一つが床に置かれる。
僕たちは無言のままで最後の晩餐に箸をつけた。
狭い店内に、ラーメンをすする音だけが聞こえる。
ときおり、熱すぎてとびすさっている犬が笑いを誘う。
静かな静かな時間の中で、おやっさんが朗読するかのように言葉を紡ぎ出した。
「犬は苦手なんだ。・・・・・・・・今は独身なんだが、俺にも家族がいてな。娘がかわいがっていた犬が俺のことを嫌いだった」
「今は飼っていないんですか?」
「死んだよ。十五年前、かみさんと娘と一緒に、交通事故で」
あまりのことになにも言えないでいる僕を見ないまま、おやっさんは語り続ける。
懐かしそうに目を細め、何かを見つめながら。
「俺にだけ懐こうとしないバカ犬だったが、俺たち家族の事が好きだったんだろうな。車の中にまで乗り込んで、どこに行くにもついて行きたがった。あのときも当然のような顔して車に乗りこんで、娘達と買い物に出かけたよ。・・・・・最後の瞬間、娘を守ろうとしたんだろうな。車と娘の体の間に挟まるようにして死んでた。それでも、無理だったんだけどな。だけど、俺は、無駄だったなんて思ってない。どうしようもない理由で事故にあって、どうしようもない理由でみんなしんじまったけれど、娘が犬をかわいがっていて、その犬が家族を守ろうとした気持ち、無駄だったなんて、俺は思わない」
だけど、犬を見るたびに家族のことを思い出しちまってな。見るのが辛いんだよ。
そういって笑ったおやっさんの顔、僕は一生忘れない。
夜は更けていく。
残酷なまでに優しい月の光の中で、世界は終わりを迎えようとしている。
だけど、この瞬間、僕たちがここでこうやって生きているということ。
そのことだけは、誰にも否定することなんてできやしない。
だから生きよう。
たとえ世界が終わろうとも、その瞬間まで僕は生きよう。
この小さな町の小さなラーメン屋で、二人と一匹の夜は静かに更けてゆく。
生きてゆく。