狂気の水魔
「水……?」
ふと、誠は切先に水滴が付着しているのに気がついた。
空は晴天だ。雲一つない。可能性があるとすれば、つい先程敵の攻撃を刃で防いだ時、その時に付いたとしか考えられない。
思えば他にも疑問はあった。
敵が何らかの物体を飛ばしてきたのは確かだ。それは、攻撃を弾いた際の手応えからして間違いはない。
だが、だとすれば、それはいったいどこに消えたのだろうか?
目視できる範囲には何も転がっていないし、弾丸を弾き落とした際に生じる落下音すら聞こえていない。
確かに何かがそこにあった。しかしそれは完全に消失している。
これらの事を踏まえて、誠は敵の攻撃の正体を推測した。
水だ。敵は圧縮した水の塊を高速で発射したのだ。
これならば弾丸が見つからないのも、切先に付着していた不自然な水滴にも納得できる。
そして水といえば、嫌でも思い浮かべるのが、先程のナールの話だ。
内側からズタズタにされたような、あの惨たらしい死体。あの死体が横たわっていた場所にも、魔力を帯びている、奇妙な水が残されていたらしい……
「……あれをやったのは、お前だな?」
溢れ出る感情を押し殺し、誠は目の前の女を睨みつけた。
「いったい何の話かしら?」
そう言って女は首を傾げた。とぼけているのではなく、本当に心当たりがないといった様子だ。
「内側から弾けたかのような男の死体……あの人を殺したのは、お前かって聞いてるんだ」
「あぁ、あれのこと! もしかして、あなたも見たの?」
わざとらしい仕草で掌をポンと叩きながら、女は悪びれる様子もなく、ケタケタと楽しそうに笑いだした。
「……ッ!」
何がおかしい。そう吐き出しそうになるのを、誠は歯を噛み締め飲み込んだ。
「何で、あんな事を?」
「何でって? 愚問ね、食事をするのに理由が必要なのかしら? 飢えを凌ぐ為、味を楽しむ為、色々あるけれど、大した理由なんてない筈よ」
何を言っているんだこいつは?それが誠の頭に率直に浮かんだ言葉だった。
物盗りでもなく、相手を憎んでいたとかでもなく、かと言って快楽的な殺人でもない。ただの食事と言い放ったのだ。
そのままの意味なのか、それとも彼女にとって殺人は、食事を摂るのと同じくらい日常的な行いだという意味なのか。どちらにせよ、狂気この上ない。
誠は理解した。目の前にいる女は、決して分かり合う事が不可能な、モンスターなのだということを。
「残念だけど、お話ししてる時間はないわ。これだけの騒ぎになっているのだもの、ソフォス王が兵隊を連れてやって来る筈」
だから……と、女は続ける。
「すぐに終わらせましょう。あなたの内臓は、いったいどうなってるんでしょうね?」
人間と同じなのかしら?そうクツクツと笑いながら、女は挑発気味に誠を見つめた。
全身に静かな殺気が突き刺さる。ただの高校生だった誠には、本気の殺意を向けられた経験などない。
普段なら萎縮していただろう。怖気つき、逃げ出そうとすらしていたかもしれない。
だが今は違う。今の誠の精神は、戦闘に燃えていた。心身共にこう叫んでいるのだ。「逃げるな、戦え」と。
誠が構えた。その瞬間だった。
ボーリングの球程ある水の塊が、誠に向けて叩きつけられた。轟音と共に飛沫が飛び散る。誠はそれを、最低限の動きで回避した。
誠がチラリと後ろを見やる。背後では民家の壁が容易く吹き飛ばされていた。それ程までの破壊力なのだ。
先の攻撃が水の銃弾だとするならば、今度のこれは水の砲弾と評するべきだろう。
そしてこれだけで終わりではない。同質量の水の塊が、女の周囲に大量に形成される。
女はそれらを次々と放った。しかも撃ち放たれた水球は瞬時に補充されるため、砲弾は尽きることがない。
砲撃は絶え間なく続き、周囲のものは全て吹き飛ばされた。
しかし誠は避け続けている。それも瀕死のナールに当たらぬよう、敵の攻撃を引きつけながらだ。
避けながらも、誠は不思議に思っていた。
彼はケンカすら碌にしたことがない。だというのに、ほんの少しの判断ミスすら許されないこの状況下で、誠は敵の攻撃に恐れることなく、冷静に対処できている。
いかに誠が神造人間で、身体能力が上がっていたとしても、ここまでの事は普通はできないだろう。
体は戦いについていけても、精神がそれに追いつかないからだ。
全てはこの、内側から溢れ出る全能感が可能にしていた。
恐怖も痛みも、あらゆる雑念が振り払われた極限の集中状態。全知全能が戦いに向けられている。
知らなかっただけで、自分にはこんな才能があったのか。それとも、これも神造人間の能力の一部なのか……その考察すらも今は雑念だ。
今まただ、目の前の敵を打ち倒すのみ。それ以外の思考は必要ない。
砲撃の嵐の中、誠は駆け出した。
避けきれないものは刃で斬り伏せながら、重力すらも無視した動きで、敵の攻撃を全て潜り抜ける。
そしてその刃で、寸分の狂いなく女の心臓を突き刺した。
「え?」
誠は動揺した。
何の躊躇もなく、相手の急所を狙った自分自身の行動に驚いたのだ。
彼の持ち合わせている論理感は、ごく一般的なものと変わりない。無論殺人などした事はない。例え悪人だろうと、殺すとなれば忌避感を抱くだろう。
そんな自分が、迷うことなく相手の命を獲りにいっていた。少なくとも、突き刺す瞬間までそんな考えに疑問すら抱かなかったのだ。その事実が信じられなかった。
しかしそんな戸惑いも、瞬時に別のもので塗り替えられることになる。
妙だった。心臓を刃で貫いたにも関わらず、女の体からは一滴の血も流れていない。
人間の肉を突き刺したにしてはおかしな感覚だ。人を刺した経験など誠にはないが、それでも違和感を覚える程に異様である。
そして何より、女は笑っていた。
致命的な攻撃を受けてもなお、平然としていたのだ。
「残念ね、私の体は水でできてるの。その手の攻撃は効かないわ」
よく見ると、刃の刺さっている箇所が液状化しているのが分かった。水のように流動する肉体が、攻撃を受け流していたのだ。
刃に突き刺されながらも、女は左手を振り上げた。胸の傷口と同様、その手が液状に変化する。
それを見た誠は、直ぐに女の体から刃を引き抜き、左へ飛び退いた。
加圧された水流が、女の正面を縦断する。
それはまるで刃物のように、目の前にあるものを両断していた。
「……随分と変わった身体をしてるな。クラゲみたい」
「自分が変わってるのは認めるけど、腕から剣を生やしてるあなたには、言われたくないわね」
そう軽口を叩いてはいるが、誠には余裕はなかった。
いくら攻撃を仕掛けても、その水の体は、物理的なダメージをほとんど無効化してしまう。
ほぼ無敵の肉体と言えるだろう。彼女が終始余裕なのも頷ける。厄介すぎる特性だ。
誠は攻めあぐねていた。
「目の前の敵に集中するのは結構だけど、私ばかりに気をやっていていいのかしら?」
女の言葉に、誠は小さく首を傾げる。
「あれだけの怪我じゃあ、一人で逃げられるわけないものね。いいの? 彼、このままじゃいい的よ?」
女が言っているのが、ナールの事だというのはすぐに理解できた。その指で、倒れ伏しているナールに狙いを定めているからだ。
ナールは逃げようともしなかった。その様子からして、自分が狙われていることにすら気づいていない。
おそらく血を流し過ぎて気絶しているのだろう。ピクリとも動いていなかった。
「あなた素早いし、このまま続けても当てられそうにないわね。――でもこうすれば、自由に動き回れなくなるんじゃないかしら?」
女は意地の悪い笑みを浮かべながら、これ見よがしにナールに向けて水の銃弾を放った。
再び凶弾がナールを襲う。どう動くにせよ、誠は平静ではいられないだろう。確実に迷いが生じる筈だ。
そしてそれこそが、女の狙いである。
見捨てるならそれでいい、困る事は何もない。
庇えばラッキーだ。必然的に動きが制限される。
見捨てるか、救うか。どちらを取るかは誠の意思次第。しかしどちらを選ぼうとも、女の側に損はない。
そして誠は後者を選ぶ筈、女はそう確信していた。ここで見捨てる人間なら、もっと前からそうしていた筈だ。
謂わばナールは人質だった。助けようとする、その思いを利用する為の道具なのである。
非道かつ卑劣なやり方だ。しかし彼女は気にしない。そういった行為を、恥とも何とも思っていないからだ。
誇りなど一切ない。ただ相手を痛ぶり、弄ぶ事だけが戦いの指針。誠が戦っている相手は、正にそういう手合いなのだ。
「うぐっ……!」
――突発的に、誠は跳ねていた。凶弾からナールを守るため、彼と銃弾との間に身を乗り出していたのだ。
誠は空中で弾き飛ばされ、地面を転がっていた。
「いっつつ……」
苦痛で顔を歪ませながら、誠はヨロヨロと立ち上がった。
銃弾を受けた箇所に痛みが走る。だがそれだけだ。常人なら風穴が空いている程の攻撃、それを受けても外傷はない。神造人間の肉体は頑丈だ。
そんな誠の様子を、女は呆気に取られた顔で眺めていた。
水の銃弾を受けても尚、平然と立ち上がったから……ではない。今更そんなことでは驚かない。
何らかの方法で銃弾を防ぐとは思っていた。そのための手段はいくらでもあるのだろう。
それがまさか、自分の体で受け止めるなどとは、夢にも思わなかったのだ。
彼女にとっても予想外の行動。それ故に、僅かながら動きが硬直した。
しかし結果オーライである。彼女にとってはむしろ、この展開は好都合だ。
女はその表情を、元の薄ら笑いに戻した。
「本当に不思議な子ね。さっきまでのあなたの立ち回りは、歴戦の戦士にも匹敵するものだったけど、今のあなたの動きは、戦いを知らない素人そのものだったわ」
「そりゃ素人だもん。当たり前だろ」
誠は内心焦っていた。女の言葉は的を射ている。
先程までの誠は、ゾーンの様な特殊な集中状態に入っていた為、安定した精神を保つことができた。
だからこそ、達人の様な研ぎ澄まされた動きを可能にしていたのだ。
しかし今現在、それは解かれている。
おそらく相手の命を奪うのを躊躇したからだろう。あの瞬間、一瞬だけとはいえ戦う事を拒絶した。
今の誠には、先のような判断力は備わっていない。
だからこそ、敵の攻撃を己の身で受けるなどという、愚行を犯してしまったのだ。
「何を考えてるのかは知らないけど、今のこの状況は、間違いなく私が有利。遠慮なく利用させてもらうわね」
そう言って、女は自分の手を液体化させた。そして何かを投擲するかのように腕を振りかぶる。
――仕掛けてくる。そう身構えた直後、誠に横殴りの雨が襲いかかった。
広範囲に、散弾銃の如き勢いで無数の雫が飛んでくる。その威力と数は凄まじく、地面や家屋がみるみる内に削られていく。
しかも逃げられない。逃げれば後ろにいるナールが蜂の巣にされるからだ。
自らが盾になるしか、彼を救う方法はない。誠は再び、自分の体で攻撃を受け止めた。
鈍い衝撃が全身を覆う。思わず倒れそうになるのを踏ん張って耐えるが、畳み掛けるように追撃が放たれる。
何度も、何度も、何度も、情け容赦なく、執拗に。誠が力尽きるその瞬間まで攻撃の手を緩めない。
誠は手も足も出せずにいた。少しでもダメージを抑える為、身を丸める事しかできない。
いかに神造人間の体が常人よりも頑丈だとはいえ、無抵抗のまま攻撃を受け続けていれば、いずれ限界が来るのは明白だ。
考える。しかし何も思い浮かばない。打つ手はない。
何もできないまま、誠はただ相手を睨みつけていた。