初めての戦い
「これは……」
ソフォスの目は冷たく、険悪感に満ちていた。
その眼下にあるのは、見るも無残な姿で横たわる人間の死体だ。
目がくり抜かれ、全身から血が溢れ出ている。胸から下腹の辺りにかけてを大きく引き裂かれ、赤色の臓物がずるりと露出している。
体格からしておそらく男なのだろうが、もはや区別がつかない程に、肉体は激しく損傷してしまっていた。
「うっ……」
「無理をするな。お前は下がっていろ」
あまりの惨状に嘔吐感を抑えきれず、誠は口に手を添えて吐き気を催した。
中身は普通の少年だ。人間の死体……それもここまで損傷が激しいものには慣れていない。
それを知るソフォスは誠の肩を掴み、彼を後ろに押しのけつつ、その視界から死体を覆い隠すように前へと進み出た。
「……臓器が一部損失しているな。それに内側から破壊されたかのような有様だ。何をどうすればこうなる?」
倒れ伏す死体を繁々と観察しながら、ソフォスがそう言った。
「目撃者の話では、被害者は突然苦しみ始め、突然体が裂けたと」
「……こういった症状が起きる病など、少なくとも余の記憶には存在しない。呪いの類か?」
「今のところ、まだ……調べるにはもう少し時間がかかります」
ソフォスは暫し考え込むと、誠に対してこう言った。
「悪いが観光はここまでだ。この件をこのままにしておく事はできん。余はここに残るが、お前は先に王宮に戻っていろ」
まだ確定した訳ではない、むしろ状況からしてその線は低いかもしれない。しかし、もしこの死が他殺によるものだとすれば、現在このアルバスには殺人鬼がうろついている事になる。それも普通の人間ではない、極めて危険な力を持つ殺人鬼だ。
そんな存在を野放しにしておくなど、この地を治めるソフォスが許さない。今すぐにでも捕らえるべく動くつもりだ。
ソフォスの言葉に、誠は無言で頷いた。
こんな状況で観光する気分にはなれないし、そうするべきではない事くらい判断できるからだ。
もしこれが殺人によるものだとすれば、力を使いこなせていない誠では、おそらく足手纏いになるだろう。
そして何より恐ろしかった。正体が分かっていない以上、対岸の火事で済ませるわけにはいかない。自分の身にも起き得る事柄なのだ。
「宮殿の場所は……目立つ故分かるだろうが、念のために案内を一人つけておく。ナール、お前に任せる」
「はっ!」
ナールと呼ばれた衛兵が、一歩前に進み出て、威勢よく返事をした。この非常事態の中、彼が誠を護る護衛という事になる。
確かに殺人鬼は危険性は無視できない。しかしそれはあくまでも可能性の話であり、街は広く、人も多い。考え過ぎと言われればそれまでだろう。だがそれでも、そうするだけの価値が誠にはあるのだ。
正確には誠の身体には、だが……
誠と衛兵ナールは、最短の道で王宮へと向かっていた。
噂はまだ広がっていないのだろう。街の人々の様子に変化はない。
しかし、そこかしこで兵士達が慌ただしく動いている姿が見える。どうやらソフォスは、数ある可能性の中でも、殺人の線を最も強く疑っているらしい。
何故ソフォスはそう思うのか、誠はナールに尋ねた。
「遺体の血とは別に、現場には大量の水が付着していました」
「水?」
雨など降っていない。少なくとも誠がこの世界に来てからは一度もだ。
確かに少々疑問ではあるが、あそこは公共の通路であり、様々な人が行き来している場所だ。誰かが何かしらの理由で、大量の水を溢した可能性もある。それだけで殺人を疑うのは無理があるだろう。そもそもの話、水と殺人の関係性もまったくの不明だ。
ナールは話を続ける。
「ソフォス王は優れたる魔術の使い手でもあります。現場に残されたその水に、魔力が残留しているのを感知したのでしょう。自然に混じったものではない、異質な魔力を」
それを聞き、誠の表情に更に曇りがかかった。
誠には魔術に対する知識はない。故にその情報から得られるものは何もない。しかし詳しい人間が見て、その上で警戒すべき何かがあると、そう根拠を立てたのだ。
現状の危険度が上がる。殺人鬼がいるかもしれないではなく、いるという前提で考えた方が良さそうだ。誠はそう覚悟した。
「――あら、あなた変わった形をしてるのね」
ざわりと、誠の背に、冷たい手で撫で回されたかのような悪寒が走った。
先頭に立っていたナールもまた、同じ感覚に襲われたらしい。目を大きく見開いたまま、体を硬直させている。
二人はすぐさま後ろを振り向いた。
そこには黒いドレスに身を包んだ女が、口元に薄い笑みを浮かべて立っていた。
恐ろしく白い肌、整った顔立ちに含め、その女の纏う雰囲気と衣服が異質な為か、周りから酷く浮いている様に見える。
まるで街の中に、西洋人形がポツンと佇んでいるかの様な、奇妙かつ不気味な光景だ。
「ウフフ、まるで小動物みたいな反応ね。可愛らしいわ」
小柄で、少しあどけなさの残る顔立ちの女だ。
一見少女にも見える外見だが、顔に施された薄い化粧や、右目にある小さな泣きぼくろが大人の艶っぽさを醸し出している。
外見だけなら魅力的と言えるだろう。
しかしこの状況、そしてこの女の言動からは怪しさしか感じられない。浮ついた気分にはなれそうにもなかった。
「我々は先を急いでいる。悪いが、世間話をしている暇はない」
真っ直ぐ女を睨みつけながら、護衛であるナールがそう言った。
口調こそは平静を保っているが、その手は腰に付けた剣の柄をしっかりと握りしめている。
女もそれに気づいていた。
しかし依然として笑みを浮かべたまま、構う事なく二人に近づいていく。
ナールが僅かに剣を抜いた。
鞘から露出した刃がギラリと白い光を覗かせ、相手を威嚇する。
しかし、やはり女は動じない。
「こんな街中であるにも関わらず、それもアルバスの衛兵を護衛に付けてるなんて、ますます普通の人間じゃなさそうね」
女は人差し指をまっすぐ伸ばし、それをナールへと向けた。
対するナールの反応は早かった。
その行動の意図は分からないが、確実に何かを仕掛けてくる。そう判断したナールは剣を完全に抜き、目の前の女を切り捨てんと素早い動きで飛びかかった。
「まっ……!」
誠は咄嗟に叫んだ。女の手の形、それはガンスナップと呼ばれる、銃を模したハンドサインだった。
誠の感が危険を告げている。しかし叫んだ時には既に遅かった。
次の瞬間、女の指先から高速で発射された何かによって、ナールの体は撃ち抜かれたのだ。
「がはっ!」
正体不明の銃弾を受け、ナールは膝から崩れ落ちた。
周囲から悲鳴が上がる。人々が蜘蛛の子を散らす様にして逃げ惑う。
何が起こったのかは理解できない。しかし兵士が攻撃され、血を流して膝を着いている。ただ日常を送っているだけの人々にとっては、パニックに陥るのには十分過ぎる理由だった。
女はその様子を、まるでショーか何かを堪能するかの様に、楽しそうに観覧していた。
悲鳴に心地良さそうに耳を傾け、逃げる人間を目で追っていく。その顔は愉悦で恍惚に満ちていた。
心底小根が腐っている。初対面ながら、誠がこの女に抱いた感情はそれだった。
「お逃げ……ください、マコト様。あの女は……私がここで、食い止めます……!」
剣で体を支えながら必死に立ち上がり、息も絶え絶えにナールがそう言った。
同時に誠は安堵した。彼が生きていたからだ。しかし脇腹は抉られ、大量の血が滴り落ちている。辛うじて立っているその体は、押せば倒れてしまいそうな程に弱々しい。危険ではある事に変わりはなかった。
「へぇ……急所を狙った筈なのだけど、寸前で逸らしたようね。流石はアルバス兵、流石は、ソフォス王のお抱えと言ったところかしら」
睨みつけるナールを嘲笑うかのように、女は表情を変える事なく、再び指先でナールへと標準を定めた。今度は外さない。確実にその心臓を撃ち抜く為に。
(動け……!)
立っているのもやっとの状態だ。ナールに次の攻撃を防ぐ術はない。
誠が動かなければ、間違いなくナールは死ぬ。しかし焦りと恐怖で、その一歩を踏み出せないでいる。
(動け、動け!)
誠が再度、心の中で叫んだ。
ナールとは友達でも何でもない、ついさっき出会ったばかりの存在だ。言ってしまえば、ただ言葉を交わしただけ、それだけの関係である。
しかし、だからと言って、目の前で死にかけている命を見捨てる理由にはならない。
誠が無力ならば話は別だ。相手は異様な存在、ただ闇雲に突っ込んでも、どうにかなるものではない。逆に自分の命すらも危ぶめてしまう。
この場合は、残酷だが見捨てる他ない。そうしなければ生き残れないからだ。仕方がなかったというやつだろう。
だが現状は違う。誠にはこの状況を打開できる力がある。この体には、数多の神々の力が宿っている。
後は踏み出すだけだ。動くだけだ。立ち向かうだけだ。
誠は覚悟を決めた。
――と、その瞬間だった。誠は突如として不思議な感覚に襲われた。
音が消え、全てのものがゆっくりに見える。まるで世界が自分を中心にして回っているかのような全能感だ。極限の集中力に達した際に現れる、所謂ゾーンと呼ばれる状態。あれに近い現象なのかもしれない。
静寂な世界。圧縮された時間の中、誠は自分でも知らず知らずの内に行動していた。
思考さえも必要ない。ただ導かれるように動いている。何をどうすればいいのか、それが瞬時に理解できるのだ。
誠は無駄のない動きで、一瞬にしてナールの前に移動し、片手で銃弾を弾いた。
かん高い金属音が鳴り響く。およそ人体からは発生し得ない音だ。
それもその筈だろう。今現在、誠の手は人間のものではないのだから。前腕から手の甲にかけて大きく変形し、鋭い刃が伸びている。
痛みはない。腕に明らかな異常が起きているというのに、不思議と何の嫌悪感も違和感もなかった。まるで元からこうであったかのように、ごく自然体に振る舞える。
これも神造人間としての力の一部なのだろう。腕から生えた刃を見つめながら、誠は一人そう納得した。
「いける……!これなら戦える!」
恐怖はもう振り切れていた。頭は異様なほどに冴えている。
誠は改めて、目の前の敵と相対した。誠にとっては生涯初めて、命懸けの戦いが始まろうとしている。