出会い
彼は困惑していた。目が醒めると、見たことのない場所で倒れていたからだ。
大きな窓があるだけの、殺風景な石造りの部屋の中、彼はその部屋の中心にある寝台の上で寝かされていた。
薄目を開けて辺りを見渡すと、その部屋にもう一人、自分以外に人がいることに気がついた。
若い女性だ。白衣は着てないが、きっと医者か看護師なのだろうと、彼はそう思った。寝台の上に寝かされている自分を、なにやら真剣な顔で診察しているからだ。
「ここは……?」
声をかけると、彼女は驚きながらも嬉しそうな顔でこう言った。
「良かった、目を覚ましたのですね」
綺麗な女性だ。と、彼は思った。
薄茶色の長髪を肩の辺りで束ねた、淡い灰色の目を持つ女性だ。
おまけにスタイルもいい。服の上からでも分かる程に胸が大きい。
「しばらくお時間を、時期にここの主人がお見えになります」
「主人……」
主人という事は、誰か高貴な人間がやって来るのだろう。戸惑いつつも、彼は僅かに緊張感を抱いた。
「余なら既に来ているぞ。ご苦労だったな、ロゼ」
そう言葉と共に部屋に入って来たのは、銀髪の若い男だった。
前が大きく開けた服を着ており、引き締まった肉体を露出させている。容姿端麗な顔つきに、紅の瞳が特徴的な人物だ。
「まずはようこそ、と言っておくべきだな。調子はどうだ?」
彼はぼーっとした顔で、差し出された手をぼんやりと見つめていた。
目覚めたばかりな上に、状況が状況である。頭の中が真っ白になっているのだ。
「……言葉は通じているか? 分かるのなら返事をしろ」
「……え、あっ!はい、言葉は、通じてます。調子も、特に悪いところは」
男の声でハッと我に帰った彼は、途切れ途切れながらも質問に答えた。
「そうか、ならば良しだ。もう一度頭の中に言語を埋め直すのは、流石に面倒だからな」
言語を埋め直す?それはいったいどういう事だ?と、彼は聞こうとした。
それだけではない。ここは何処なのか?あなたは誰なのか?聞きたい事が山ほどあった。
沢山あり過ぎて、結局なにも聞けずにいるのだ。
「お前には聞きたい事が山ほどある。だがまずは名前だな、何という名だ?」
言い出せずにいると、逆に相手側から質問を投げかけられた。
こちらとて疑問はあるが、とりあえずそれは置いておき、彼は男の問いに答えた。
「宮野誠……です……たぶん」
「たぶん?」
曖昧な返答に、男が眉根を寄せる。
理由は彼自身も分かっていない。まるで頭の中に靄がかかっているかのように、記憶が混濁しているのだ。
(俺は日本人で、高校生で……父親と、母親と、妹との4人家族で暮らしていて……ダメだ、やっぱり記憶がはっきりしない。大雑把な事は思い出せるのに、細かなところが思い出せない)
思い出せる限りの記憶を頭の中で羅列したが、それでも変わらない。むしろ記憶の摩耗が明確化されただけだ。
誠は胸の奥から押し寄せる、なんとも言えない不安感に駆られた。
「……記憶に支障が出ているようだな」
「無理もありませんよ、別の世界から魂を引っ張ってくるなんて、前例がありませんから」
「その上にこいつの身に起きた事柄が重なれば、どんな不都合があってもおかしくはない、か」
誠を置いてけぼりに、二人はどんどんと話を進めていく。
二人が何の話をしているのか、誠にはその内容が理解できなかった。訳もわからず、二人のやり取りをただ黙って見ている事しかできない。
それでもしばらくは黙って聞き入れていたのだが、不安と焦燥が入れ混じった心地の悪さに、ついぞ堪らず誠は言葉を発した。
「ここはいったい何処なんですか!? どうして俺はここに……」
「まぁ待て、慌てるな。順を追って説明してやる」
僅かながらに興奮気味になっている誠を、男は片手で制す。
「一つ聞くが、ここにくる寸前の事は覚えているか?」
誠は自分の記憶を辿った。
しかし思い出せない。自分の部屋に居たような気もするが、そこから先の記憶が途切れてしまっているのだ。
気がつけばこの場所にいた。そうとしか説明できなかった。
男の問いに、誠は首を横に振った。
「……では、その辺りも含めて説明せねばな」
男は小さく溜息をついた。その顔に僅かながら、同情的な憂いが含まれていたのを、誠は見逃さなかった。
「これから話すことは、おまえにとってはショックな出来事かもしれん。驚きもするし疑いもしよう、だが全て事実だ。受け入れよ」
男は自らがロゼと呼んだ女性に、右手で指示を送った。
その意図に気づいたロゼは、部屋の隅に置かれた椅子を一脚持ち出し、男の足元にそっと運んだ。
男はそれに座り込んだ。そして語り始めた。
「率直に言おう、お前は既に死んでいる」
「死ん……え!?」
思わず声が飛び出た。そして困惑した。
当然だろう。いきなり自分が死んでいるなどと言われ、何も思わない人間などいない。
「何を言って……」
「驚くのも無理はない。だがさっきも言った通り事実だ」
そうは言われても……誠は小さく呟いた。こんな突拍子もない話、理解できると言う方が異常だ。
「……ならここは、死後の世界ってことですか?」
誠が皮肉っぽい言い方でそう言った。
「もちろん違う。ここは間違いなく現世、生者が生きる世界だ。だが死後の世界に行きたいなら案内してやろう。ちょうどあそこを治める神にも用事があるからな」
さらりととんでもない発言をしていたが、今の誠には、その言葉を頭の中に聞き入れる余裕はなかった。
「……なら、いったい、どういうことなんだ」
意識もはっきりとしている。今こうして、物を見て物を聞き、言葉を交わす事だってできている。身体は自由に動かせるし、物を触ればその感触も伝わってくる。
これは生きているからこそではないのか?
何かをすれば何かを感じる事ができる。これこそが生きている証ではないのだろうか?
誠は思った。現にこうして、肩まで伸びた髪をうっとおしく思うことも――
「えっ!?」
自分の髪を手で触れた瞬間、彼は驚愕の声を発した。
朧げながらも彼は確かに憶えている。自分の髪はここまで長くはなかった筈だ。
「なっ!? はぁ!?」
誠は狂ったように慌て始め、自分の顔や全身を確かめるように撫で回した。
「ハハハッ!!鈍いやつよ。その様子だと、たった今気づいたようだな」
男は高笑いすると、「鏡を持ってこい」とロゼに命令した。
誠は銀製の高価な手鏡をロゼから受け取り、それを恐る恐る覗き見た。
「これが……俺……!?」
そこに写っていたのは、銀髪碧眼の、見惚れてしまう程に美しい女性の姿だった。
いや正確には、女性に見間違える程の妖艶な顔立ちを持つ、中性的な美少年である。
「そうだ、気に入ったか?」
「明らかに別人だと思うんですけど!?」
以前の記憶は曖昧だが、自分が日本人だった事は覚えている。
明らかに日本人離れした容姿に、誠は戸惑いを隠せないでいた。
「お前は死んで、魂だけとなってこの世をさ迷っていた。何故死んでいたのかは分からん。だが、確かにお前の魂は肉体から抜け出ていた、尋常ならざる何かが起きた証拠だ。そこを我々が見つけ出し、この世界に回収したのだ」
顔から笑みが消え、男は再び真剣な顔で話を続けた。
「回収したはいいが、魂だけではこの地に存在し続けることはできん。肉体から抜け出た魂は冥界へと流れていく、それがこの世界の理だ。だから余は、お前の魂をこの地に繫ぎ止める為の容れ物となる肉体を用意した」
その肉体がそれだと、男は誠の胸を指した。
その触れた指先から、ドクン、ドクンと鼓動を感じる。これが作り物だとは、誠にはとても信じられなかった。
「まぁ、理解が追いつかぬのも無理はない。おそらくお前達の世界と我々のいるこの世界とでは、文化や人種などというレベルではなく、その成り立ちや常識や仕組み、あらゆる面において根本から違うのだろうよ」
まただ。そう誠は思った。
この世界……お前の世界……別の世界……まるで自分が今までいた世界の他にも、世界がいくつも存在するかのような台詞だ。
いや、ここまでくればもうほとんど確定だろう。誠は、たった喉元にまで登ってきた言葉を吐き出した。
「この世界に連れてきたって事は……ここは俺にとって、異世界ってことになるんですか?」
「そうだ」
その肯定の言葉に、誠は全身の毛が逆立ったような悪寒を感じた。
だが同時に合点がいった。この地で目覚めたその時から、誠はある違和感を抱いていたのだ。
あまりにも自然に会話できている為気づかなかったが、彼はこの世界に来てから一度たりとも、自身の生まれた国の言語である、日本語を話していなかった。
そう、話していたのはこの世界の言葉。誠にとっては未知の言語だ。
つまり、誠はまったく知らない筈の言葉を、完璧に理解して話していたということだ。
これが男の言っていた、頭の中に言語を埋め込むというものなのだろう。
「世界の名はイシュヴァルド。国の名はオーラ。それが、今お前がいるこの地の名前だ」
イシュヴァルド……オーラ……誠はその名を深く刻み込んだ。
考えたくもない事だが、もしかしたらこの地で永住する事になるかもしれない。
誠はその選択を頭に入れつつ、続けて問うた。
「……なら、あなたは誰ですか?」
「よくぞ聴いてくれた」
男はニヤリと笑みを浮かべ、その場から立ち上がった。
そして大げさな手振りを加えながら、彼は自分の正体を語り始めた。
「我こそがこの国を統べる長。オーラ王ソフォスである!」
偉大なる王。誠はその、眩しいほど輝く姿に目を眩ませた。
立派な人間は輝いて見えると言うが、比喩ではなく、実際に光をはなっているのだ。
「……」
誠は絶句した。
その振る舞いや着ている衣服、そして従者がいることから高貴な人物だという事は察していたが、想像よりも遥かに上回る大物だったからだ。
「王って、もちろんあれですよね? 国で一番偉いっていう……」
「さよう、せいぜい畏れ敬えよ」
呆然としている誠の反応を楽しみつつ、ソフォスはおもむろに人差し指を立て、目の前に一の文字を描いた。
白銀の長髪が優しく揺れた。
吹き込んだ風に反応し背後を振り向くと、誠はこの部屋に一つだけある、両開きの大きな窓が開放されている事に気がついた。
完全に閉じ切っていた筈の窓が、誰の手に触れられた訳でもなく開いている。
不思議には思いつつも、誠はいつのまにか立ち上がっており、衝動的に窓に近づいていた。
「……すごい」
感嘆の声が漏れ出る。そこにあったのは街だった。
高層ビルが立ち並んでいるような、現代的な街並みではない。まるで古い時代に描かれた絵画のような風景が、誠の目の前に広がっていた。
「素晴らしい眺めだろう? これが余の治る国だ」
いつのまにか誠の隣に立っていたソフォスが、自慢気な顔で、誠に微笑みかけていた。
風が二人の顔を優しく撫でる。
「残念だが、お前はもう元の世界に帰ることはできん。お前の肉体は死をもって完全に停止している。帰ったところで、再び死体に戻るだけだ」
誠は俯いた。
心の底では理解していた事だ。自分が死んだという事は、元の暮らしには戻る事はできない。死んだ人間は帰らないのだから。
嘘だと言って、現実から逃げることもできるが、既に自分の身にありえないことが多く起きている。
今更これが虚構だとは思えない。認める他ないのだろう、誠は心の中で覚悟した。
「……あの、王様。一つだけ聞いてもいいですか?」
「なんだ? 言ってみろ」
「何で俺を、わざわざ蘇らせてくれたんですか?」
大した取り柄もない、ごく普通の男子高校だ。死んだ人間など、他にもごまんといるだろう。この国にだっているはずだ、もっと価値のある人間が……
なのに何故自分なのか、誠には理解できなかった。
「大した理由はない。好奇心の末に、たった一つの命を拾い上げたに過ぎん。だが拾ったからにはそのまま捨てる訳にもいかんからな、だからこうした。それだけだ」
ソフォスは誠から目を逸らして、一人そう言った。
その言葉の真偽は分からない。たが誠は、それを信じる事に決めた。
他にあてもない誠には、目の前にいるこの王しか、信じるものがなかったからだ。
「そう暗い顔をするな。今日からお前はこの国の一員だ。余は民を無下にはせん」
窓から陽の光が差し込む。それはとても柔らかい笑みだった。
帰れなくなり、落ち込んでいる誠には、その優しげな笑みはとても暖かく感じられた。引き返せない絶望の中、僅かに希望を見出せたのだ。
ソフォスはその手を誠に差し出していた。
これがカリスマというものなのか……誠はソフォス王から溢れ出すそれを僅かに感じ取った。
「歓迎しよう。オーラは必ず、お前を抱擁してくれるだろう」
再度差し伸べられた王の手。今度こそ誠は、その手を力強く握り返した。
――しかしその瞬間だった。
ソフォスは突如として態度を一変させた。
握手していた手を離すと、彼は凄まじい剣幕で窓の外に身を乗り出し、ある一点を睨みつけた。
あまりの豹変ぶりに動揺しつつも、誠はソフォスと同じように窓から空を見上げる。
そこには小さな点が一つあった。点は物凄いスピードで移動し、この場所へと接近している。
接近し、大きくなっていく空の点。ある程度の距離まで来た時、それが人の形をしている事に誠は気がついた。
「また来たか……あのバカ女め」
心底うんざりした顔で、ソフォスがため息混じりにそう言った。
「女神アリシュですか?」
ソフォスほど露骨ではないが、彼の部下であるロゼもまた、彼と似たような反応である。
「迎撃するぞ!兵に指示を送れ!」
「ですが……相手も一応神ですので、怒りを買うのはまずいかと」
「今更過ぎるぞロゼよ!だいたい、そんなものは幾らでも買ってやればいい!一文たりとも出さんがな!」
などと訳の分からない事をいいながら、ソフォスは再び、接近する女神の方へと向き直した。
そんなソフォスに対し、ロゼは説得しようと言葉を発しようとするが、すぐに無駄だと悟り、渋々ながらも王の指示に従った。
「女神って、あの飛んできてるやつのことですか!?」
「お前は伏せていろ。奴め、あのまま突っ込んでくるつもりだぞ」
女神という単語に反応する誠だったが、取りつく島もないといった様子で、その問いは跳ね除けられる。
事実、ソフォスの言う通り、女神と呼ばれるそれは、勢いを一切衰えさせることなく、まっすぐ突き進んでいた。
混乱する誠だが、今はなによりも安全確保が優先だ。
誠とロゼは飛来する女神から身を守る為、手で頭を覆って身を屈めた。
「みな備えろ!来るぞ、女神アリシュが……!」
王の言葉で場の緊張感が高まったその時――
女神が、落ちた。
まるで雷が落ちたかのような衝撃だ。辺りに閃光が駆け巡り、轟音が鳴り響く。
窓は壁ごと吹き飛ばされ、破壊されていた。その破片や瓦礫が床の上に散乱している。
「ゴホッ……くそっ、なんだいったい……」
空中に漂う埃に咳き込みながら、体の上に降りかかったいる瓦礫を払いつつ、誠は状況確認のために辺りを見回した。
「なっ……!?」
破壊され、大穴が空いている壁の外、そこに人間が立っているのが見えた。
立っている……という表現はおかしいかもしれない。何故なら彼女の足元には何も無いからだ。
女神の様に美しい女性……いや、正真正銘、本物の女神が誠の目の前で浮かんでいた。