一歩、また一歩
真っ白な帆が風を孕み、船は進む。
空は雲一つない快晴で、まだ陽が昇りきっていないにも関わらず日差しは強い。
依頼を受けてでの遠征だったとしても、普段ならばきっと五感で感じる全てを心地好いものだと思えていただろう。
だけど、出航してからずっと……いや、昨夜からずっと、私の胸中には暗雲が立ちこめていた……
「……ふぅ……」
一人、甲板で海を眺めながらため息を漏らす。
もう随分とこうしている気もするが、太陽の位置から推測すると出航からまだ一時間程しか経っていないのだろう。
ドワルフ島への到着予定時刻は正午前後。
この陰鬱な気持ちを抱えたまま、まだ数時間黙々と海を眺めていなければならないのかと考えるとさらに気が滅入ってくるが、同時にこの時間の遅さがありがたいとも思えていた。
「……矛盾してますね……」
ポツリと呟くと、つい自嘲の乾いた笑いがこぼれる。
昔の私ならこんな状況で笑う事も、そもそもこんな風に思い悩む事もなかっただろう。これが良かったのか悪かったのか、今はその答えが見つけられそうもなかったが……
「……あと半年、か……」
持て余す時間の中で空を見上げ、私を変えてしまった『あの人』の話をぼんやりと思い返した。
◎
「まぁ結局、これらの話は『その時』になってみないと嘘か本当か分からない話だ。だけど、真実であると仮定して考えてた方がいいと思う」
シンと静まり返った部屋の中、彼は抑えた声でそう言うと自身の胸に手を当てた。
「俺は空っぽになったこの体に引っ張り込まれた。それが真実だとすると、俺が役目を終えても……この体は空っぽのまま、パウロは戻ってこないかもしれない……」
「……」
想定は出来ていた。だが、明確に意識したくはなかった。
そんな話をはっきりと言われ、思わず膝の上に置いた拳に力が入る。
きっと彼も言いづらかったのだろう。腕を組んで背もたれに体を預け、私から逸らした視線を虚空に彷徨わせていた。
「……まぁ、シャールにばかり負担掛けさせるつもりはないよ。ガドウィンももう少しで戻ってくるはずだから、帰ってきたらアイツにも事情を全部説明する。年長者なんだから、パーティーのためにしっかり働いてもらうさ」
僅かばかりの沈黙を挟んでからそう言って、彼は大きな音を立てないように立ち上がる。
どこかぼんやりとしたまま顔を上げると、そこには困ったような笑顔があった。
「まだ時間はある。細かい事は追々詰めていくとして、今日はもう休もう。オッサンも流石に頭が疲れちゃったわ」
「……」
いつもの調子で茶化すように言ってはいるが、それが『そう装った』言動である事くらい私にも分かる。彼は私を気遣ってくれているのだと。
「そうですね」と答えて素直に従う。
それが正解だと、その程度の事は私にも分かっていた。きっと少し前までの私になら、それが出来ていたはずだ。
だけど……私の口は、心は、勝手に言葉を紡いでいた……
「……このまま、貴方がこの世界に留まる事は出来ないのでしょうか……?」
「……あー……」
言ってしまった瞬間、彼の反応を見るよりも早く、私はハッとなっていた。
こんな事を言ったところで無駄に彼を困らせるだけだというのに……
だけど放ってしまった言葉は飲み込めず、繕う言葉も出てこない。そんな自身の未熟さを呪う。
だがそんな私に、彼は苦笑顔で応えてくれた。
無理をしていない、いつもの苦笑いで。
「……実はな、ニヒトに「お前に選択肢はない」みたいに言われて、ちょっとホッとしたんだよ、俺」
「……そう、ですよね……貴方には貴方の世界がありますから……」
彼の言葉に胸の奥が痛み、再び目を伏せる。
だが、視界の端に見える彼は笑顔を崩さないままに首を横に振っていた。
「いや、やっと帰れるんだってホッとしたわけじゃないんだ。むしろ、俺はいつからか「このままでも悪くないかな」って思うようになってきてたんだよ」
「えっ?」
驚き、顔を上げると、彼は眉尻を下げながら笑っていた。
自分自身に呆れている。そんな様子で。
「ジョウ達がどんな大人になるのか見てみたいし、面白おかしい友人も出来た。気の合う呑み仲間もいる。まぁ……頭抱えたくなる問題も多々あるけど……諸々ひっくるめて、俺はこの世界が好きだ」
そう言って、彼は腰に手を当てて視線を上向ける。
微笑を浮かべてはいるが、それはどこか寂しげなものでもあった。
「でもな、だからって俺が今まで生きてきた時間は簡単に捨てられない。俺は一人で生きてきたわけじゃないんだから」
「……」
「だから、俺が一番怖かったのは選択を迫られる事だったんだ。戻るのか、残るのか、って。それはきっと、どちらを選んでも必ず多少の悔いが残る選択になったと思う……」
目を閉じ、軽く息を吐く。そうしてから私の方を向いた彼の顔には、もう翳りはなかった。
「ってわけで、俺はホッとした。腹が括れた。無理矢理巻き込まれて、無理矢理追い返される。実に俺らしいじゃないの」
「……そんな理不尽を笑い飛ばせるのは、確かに貴方らしいですね」
なんともこの人らしいと、心からそう思える彼の言葉についつい笑ってしまう。
そんな私に、彼は拳を突き出してみせた。無邪気で意地悪な笑みを浮かべながら。
「俺がこの世界を去る時が来て、もしも俺をこの世界に呼び込んだヤツと会えたなら……俺は「ありがとう」と礼を言いながらソイツを殴ってやろうと思うよ。それが最後の望みだ」
◎
「いたいた、シャール。こんな所にいたのか」
「え?」
どれ程の時間ぼんやりとしてしまっていたのだろう。
声を掛けられてふと我に返ると、すぐそばにパウロが、彼が立っていた。接近に気がつかないくらいボーッとしてしまっていたらしい。
妙な気まずさを覚えながら、潮風に乱れていた髪を直して彼の方に向き直る。
「珍しいな。こんな近づいて声掛けるまで気づかないとか」
「すみません。少し考え事をしてまして。それより、どうかしましたか?」
心配を掛けないよう早々に私の話題を打ち切り、問い返す。
と、彼は渋い表情で頭を掻いた。
「いや、それがさー、ジョウ達が船酔いでダウンしちゃって」
「え?」
「ディーネも気分が悪くなったなら飛べばいいのに、いつまでも俺にくっついてるもんだからモロに揺れの影響受けて。無事なのはサラだけだよ。あの子はいつも飛んだり跳ねたり回ったりしてるから、三半規管強いんだろうな」
「やれやれ」とばかりに肩をすくめ、それから彼は自分の背後を親指で指す。
「ってわけで、良かったらシャールも看病手伝ってくれないか?誰か一人が限界迎えたら、連鎖反応で地獄絵図になりかねないし」
「それは……流石に避けたいところですね」
わざと身震いする彼の姿に小さく笑い、頷いて応える。
どうせ一人でいても、答えの出ない問題をグルグルと頭の中で回すだけだ。ジョウくん達には申し訳ない気もするが、何かしていれば気も紛れるだろう。
そう考えて、足を引き摺るように一歩踏み出したその瞬間……
「あっ!?」
波を受けたのか船が跳ねるように大きく揺れる。
その揺れに足を取られ、無意識に右手を伸ばすと、私の手は温かくて力強い支えを得ていた。
私を支えてくれたのは、咄嗟に差し伸べられた彼の左手だ。
「おいおい?らしくねーな、シャール。お前も船に酔ってんじゃないのか?」
「い、いえ、そういうわけではないんですが……あ、ありがとうございます……」
『パウロ』は、こんなにゴツゴツとした硬い手をしていただろうか?
男性らしい無骨さに触れ、何故だか恥ずかしくなって慌てて手を引く。
そんな私に困ったような笑顔を見せながら、彼は短く息を吐いた。
「……なぁ?シャール」
「はい?」
「俺は、いつかこの旅を思い出す時には皆の笑ってる顔を思い出したいし、皆には俺の笑ってる顔を思い出して欲しいよ」
「えっ……?」
一瞬、彼の言っている言葉が理解出来ず呆けてしまう。が、直後すぐに気がついた。
きっと彼は私が一人で悩んでいた事にも、何について悩んでいたのかも分かっていたのだろう。
だから、彼はその言葉を私にくれたのだ。
「見えない未来を怖がって、鬱々と考え込んでたって時間は過ぎるんだ。だったらやる事をキッチリとやって、あとは笑って進もうぜ。これが、俺がいい歳になってようやく気づけた人生論だ!」
わざとであろうキメ顔でそう言った後、恥ずかしくなったのか彼はふいっとこちらに背を向けた。
彼の強さは、優しさは、彼が生きてきた時間の中で積み上げてきたものなのだろう。どれだけ願っても、それは私なんかが一朝一夕で身に付けられるものではない。
だけど……諦めずに追えば、その距離は確実に縮まるはずだ。
「サラ一人だと大変だろうし、俺達もそろそろ行こうぜ」
「……はい!」
振り返らないまま歩き出した彼の背中を見つめながら、力を込めて最初の一歩を踏み出す。
そう、まずは一歩だ。
そして小さな一歩を重ねて、いつかは彼の隣に……
…………隣に……?
「……あれ……?」
パキンッ……と、何かがひび割れるような音が聞こえた気がした。
だけど、今はそんな事どうでもいいっ!
今、私は一体何を考えたのっ!?
瞬間、火が出る程に顔が熱くなるのを感じる。
そんな私の異変に気づいてか、歩みを緩めながら前を行く彼が振り返ろうとした。
「どうかした……って!うわっ!?何っ!?何っ!?」
「な、なんでもありませんっ!さぁ!い、行きますよっ!!!」
今の私の顔を見たら、彼は大いに心配してしまうだろう。
というかっ!お願いですから見ないでくださいっ!
そんな想いを力に変えて、全力で彼の背中を押す。
今はこれだけに専念しよう。ジョウくん達の所へ辿り着くまでには、何とかいつもの私に戻らなければならない。
……この感情については、落ち着いてから一人でじっくりと考えよう……
きっとこればかりは、この人に相談出来ないものだから……
「ちょっ!?危ねーってっ!つか力強いなっ!おいっ!」
慌てふためく彼の声を遠くに聞きながら、ふと空を見上げる。
とても遠くから聞こえたような気がする。だが、とても近くから聞こえたような気もする。
そんな不思議なあの音は、今はもう聞こえてこなかった。




