片恋
『 片恋 』
万葉集に、一つの秀歌がある。
「 夏の野に 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ 」
恋多き女として知られる、大伴坂上郎女の歌である。
恋の全ては片恋、片思いからまず始まる。
「和樹、小野美世子が結婚する話、聞いてる?」
久し振りに会った、比佐真が私に訊いた。
「いや、知らなかった。誰と?」
「ほら、あの小林研二だよ」
「信じられないな。だって、研二は美世子の姉さんの真紀子さんと付き合っていたんだぜ。何で、急に美世子と?」
私は瓜実顔で京人形のような優雅な趣のある真紀子さんの顔を思い浮かべた。
「うん、確かに、そうだったけど。その後、また、言い方は悪いけれど、元の鞘に戻ったんだって」
私は比佐真と、街の喫茶店で話していた。
彼は中学時代の同級生であり、高校も同じ高校に行った。
高校では、私は理系、彼は文系と別れ、クラスは違ったが、いつも一緒に列車通学した仲良しであり、大学に入ってからも時々郷里に帰った時は連絡を取り合い、今日のように喫茶店でお喋りをしたりしていた。
喫茶店の有線放送からは海援隊の母に捧げるバラードが流れていた。
彼は、東京の私立大学を卒業して、今は司法浪人中で司法試験を何回かチャレンジしていた。
家業は電気店で、彼も司法試験の勉強傍ら、郷里に居て家業を手伝っているのであった。
私は地方の国立大学を出て、全国的な規模を持つ製造メーカーに就職していた。
「研二は今も、あの角の店の店長をやっているの?」
「そうだよ。昔はともかく、今は経営が難しいみたいだけど」
「あのようなお菓子屋はこの街にも一杯あるし、人口が減っているこのような街では、なかなか儲からないと思うよ。経営的には厳しい状況だろうな」
私がこの街の中学校に入学したのは、昭和三十七年であった。
西暦で言うと、一九六二年ということになる。
小学校は街の中心にあったが、中学校は少し離れた丘の方にあった。
昭和三十七年という年は常磐線の三河島という駅で起こった列車事故で百六十人あまりが亡くなった三河島事故、堀江謙一さんによる小型ヨットでの太平洋単独横断という快挙、あの米国のセックスシンボルと言われたマリリン・モンローの怪死、米ソのキューバ危機が勃発し、核戦争の可能性も大いに懸念された年度であった。
米国の大統領、ケネディが訪問先のダラスで暗殺されたのが、翌年の昭和三十八年で衛星放送が始まった初日の衝撃的なニュースとなった。
私は何気なくスイッチを入れたテレビでこのケネディ暗殺の報道を見て驚いた一人だった。
また、日本のニュースとしては、プロレスで絶大な人気を博した力道山がナイトクラブでチンピラに刺され、その後死亡したのも昭和三十八年の出来事であった。
中学のクラスの同級生に、小林研二と小野美世子も居た。
小林研二はクラスで一番背が高く、甘いマスクで女の子の人気を独占していた。
私も告白しなければならないが、あの当時、女の子に持てるという男は軽薄だと云う一種妬みにも似た偏見を持っていた。
男の嫉妬は恐いもので、なんやかんやと理由を付け、相手を非難し、正当化するが本質は、嫉妬に過ぎない場合が多い。
私も比佐も、小林はどちらかと言えば嫌いな男のタイプに属していた。
小野美世子は入学当初は確か、お下げ髪をしていた。
ひと目見て、私は綺麗な女の子だと思った。
お下げ髪をしていたが、その後ポニーテールとなった。
真っ直ぐで漆黒の髪をした少女はクラス一綺麗な女の子だった。
クラス一綺麗という表現は勿論私の個人的判断によるものであり、ちょっと皮肉屋の比佐に言わせると、クラスで二番目か三番目だろうとのことだった。
比佐がクラス一と言った少女は鈴木優子という女の子であった。
比佐真とは小学校からの友達で、中学校でも同じクラスということで私は嬉しかった。
比佐は少し無愛想でぶっきら棒な性格であったが、私とはうまがあい、登下校も一緒に歩き、いろいろなことを打ち明けあう仲だった。
「どう、会社の方は?」
「どうって?。どういうこともないさ。新入社員だから、あまり責任ある仕事はさせてもらっていないよ。真、時に、司法試験の勉強の方は?」
「もう、三回目だしねぇ。そろそろとは思うが、なかなか、自信が持てないよ」
「それでも、真の家は、両親が未だ若いから、司法試験浪人を許してくれるから、いいよなぁ。大きな目的を持って頑張るのは素晴らしいことだよ」
「でも、何かと神経は使うし、受験浪人暮らしは気苦労が多いよ。弟は来年大学受験で、俺を悪い見本のように見ているし」
「康夫君が。まさか、そんな風には見ていないよ。弁護士か検事を目指して、頑張っている良い兄貴と見ているはずだよ。司法試験の難しさも分かっていると思うし」
「そうそう、忘れていた。優子、鈴木優子のことなんだけど。彼女、離婚したよ」
「へぇー。知らなかったな。だって、彼女は二年前に結婚したばっかしだろ」
「子供だって、一人生まれているんだけど。離婚したってさ」
鈴木優子は比佐真が好きだった女の子だった。
小野美世子はほっそりとした感じの少女だったが、鈴木優子は肉感的な感じのする女の子だった。
「真は彼女のこと、好きだったよな」
「好きだったけど、優子は君のことを好きだったんだぜ」
真が少し唇を歪めて、私に言った。
そう、そんなこともあった。
優子はなぜか私に好意を持っていた。
しかし、私には彼女に対する興味はさほど無く、彼女をまるで蜂みたいな体をした女の子だと思っていた時期があった。
乳房は大きく丸く胸から張り出していたし、腰は細くくびれ、お尻も大きく丸かった。蜂のような見事なプロポーションの持ち主だった。
私はなぜ彼女が私に好意を持っていたか知らなかったが、彼女は皆の前でも私に対する
好意を隠しはしなかった。
そんな彼女は私には迷惑の種だった。
わざと、邪険に扱うことも多かったように思われる。
今は、すまないことをしていた、と思うが、中学校の頃、或いは高校の頃の私は妙に意固地で優子の好意に素直に応接することが出来なかった。
はっきり言って、迷惑に思っていたのだ。
真が優子を好きだったことは分かっていた。
私なんかより、真を好きになれば良いのに、と何度思ったことか。
ある時、思い切って何かの拍子に彼女にそのことを言ったことがある。
彼女は大きな眼に涙を一杯溜めて私を見詰めるばかりだった。
私はうんざりして、ますます彼女を遠ざけるようになった。
私が大学に行き、彼女は高校を出て、東京で就職し、私たちの関係は絶えた。
二年前に彼女が知らない男と結婚したことも真から聞いた。
真は優子のことを未だ忘れかねていた。
彼女に関する情報はどこから入手するのかは知らなかったが、実によく彼女の近況を知っていた。
私は真の心情を察し、何となく気の毒に感じていた。
「鈴木優子はとにかくグラマーな女の子だったよな。一方、小野美世子の方はほっそりとしたスレンダー・ガールだったな」
「中学一年の遠足の時だったかな。和樹、覚えているかな? 鈴木優子が和樹にモーションをかけたのに、知らん振りされてがっかりしていたことを」
「だって、真、あんなに人が居るところで、手を振られても応えようがないじゃないか」
「俺だったら、堂々と応えてあげたのに。優子のお目当てはお前だったんだよ」
「しかし、今でもよく分からないのは、何で、優子は僕に好意を持っていたんだろうな?」
「それは、多分、小学校の頃、何かで和樹に優しくされたからだろう。和樹はとにかく女の子には親切で優しかったからな。もしかすると、優子の初恋はお前だったかも?」
「ない、ない。それは無いよ。僕はそれほど持てる男じゃないから」
遠足は近くの岬公園と呼ばれる太平洋に突き出た岬の突端にある公園だった。
中学校から歩いて一時間程度のところにあった。
岬の突端は断崖絶壁となっており、昔から自殺の名所とされていた。
身投げした人の死体はなかなか発見されないという噂もあった。
私たちは公園の中にある芝生の広場で昼食の弁当を広げた。
私は真と何人かの友達と一緒に芝生に座り、弁当を食べた。
そこに、小野美世子と鈴木優子がやはり何人かの女の子と一緒に通りかかった。
案の定、鈴木優子が私を見て、手を振った。
傍らの美世子が少し私を揶揄するような眼差しで見た。
私は嫌だった。
そして、気付かぬ振りをした。
優子が少し悲しそうな顔をした。
私も、何だか自分自身がつまらない男のように感じて、その後暫く自己嫌悪に陥った。
「そう言えば、運動会でもこんなことがあったよ。和樹がさあ、美世子に手を掴まれ、借り物競争で一生懸命走り、一等賞を取った時のことさ。和樹、覚えているよな。お前の顔は赤組の鉢巻と同じくらい赤かったじゃないか」
「ちぇっ、からかうなよ、真。でも、あの時の美世子の足は速かったよ。僕も足は速い方だったけど、少し引きずられるような感じだったもの」
「美世子は速かったよ。小学校の頃は運動会の駆けっこではいつも一等賞だったもの。町内のリレーでも花形だったし」
「そう言えば、そうか。何も不思議なことじゃ無かったか」
当時の運動会には、借り物競争というのがあり、借り物ならぬ借り人も封筒の中の紙片には書いてあった。
美世子が引いた封筒の紙片には、眼鏡をかけた同級生の男の子、と書いてあった。
美世子の眼に、近くに居た私がたまたま入ったのであろうか、私に近寄り、いきなり手を握って私を引っ張った。
美世子と私は全力でゴールに向かって走り、一等賞になった。
美世子と手を繋いだことは、後にも先にもその時一回限りだった。
今でも、あの時の美世子の手の温もりは忘れられない。
「傑作だったのは、中三の時の修学旅行さ。中禅寺湖の旅館の枕投げ、今でも覚えているよ。でも、あの時、和樹の印象は無いな。お前はどうしていた?」
「居たよ。でも、あの時は眠くて堪らなかったんだ。皆が枕投げをしている時、僕は既に白河夜船の状態さ」
私たちの中学のクラスは五十人の学年6クラスの編成だった。
修学旅行のバスもクラス毎一台のバスに乗り、日光に向かった。
もう、見物した順番に関しては忘れてしまったが、日光の東照宮、いろは坂、華厳の滝、中禅寺湖などの名所は一通り廻った。
特に、華厳の滝では旧制一高生の藤村操の「巌頭之感」が印象的だった。
悠々たる哉天界、に始まり、始めて知る大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを、で終わる文章である。
中学生三年の私の情感に訴える何かがあった。
宿は、中禅寺湖の旅館だった。
旅館には夕方着いたが、周囲は霧に覆われており、視界も定かではないくらい、猛烈な霧だった。
夜は、修学旅行にお決まりの枕投げで男子の部屋は大いに盛り上がったことは言うまでも無い。
さすがに、女子の部屋では枕投げは無かったようだが、蒲団の上に何人かずつグループで座り、お喋りは凄かったという話を翌日引率の先生から聞いた。
女の子が大あぐらをかいて大声でお喋りに興じる様はそれはそれで凄い光景だと云う話だった。
私は夕食の後、一人で旅館を抜け出し、中禅寺湖の湖畔を歩いた。
その夜は霧が濃く、一寸先も見えないといった形容があてはまるような情景であった。ふと、前方を歩く二人連れに気が付いた。
長身の男と小野美世子だった。
男は小林研二であった。
私は悪い光景を見てしまったような感じがした。
そっと、踵を返して彼らと反対方向を歩き出した。
薄々は感じていたものの、小野美世子が小林と付き合っている具体的な光景を見て、私
は衝撃を受けた。
その晩、枕投げにも加わらず、私は薄い蒲団を被って寝た。
「小林のことだけどさあ。俺ははっきり言って、あいつは気に入らねえんだ。
「真もそうかい。僕も何だか虫が好かなかったな。しかし、ああいうタイプが女にはもてるんだろうなあ」
「あいつは、中学の頃から、何て言ったらいいのか、そう、世慣れた感じだったよ。如才がないと言うか、面の皮が厚いと言うか。俺なんか、女の子と話すのが苦手だったけど、小林はよくクラスの女の子と平気で話していたものな。高校までは小野美世子と付き合い、その内、いつの間にか、姉さんの方とも付き合っていたものな。そして、又、今後はよりを戻し、美世子と結婚、か。美世子も美世子だよな。あんな薄っぺらな男と一緒になるなんて、さ」
「でも、しっかりした小野美世子が選んだ男だもの、僕たちには分からない、いいところがあると思うよ」
「和樹、・・・。和樹は美世子が好きだったんだろう?」
私は、そうさ、今でも好きなんだ、と危うく言いそうになった。
真と別れ、私は岬の方へぶらぶらと歩いて行った。
岬の下は、磯となり、小さな浜辺もあった。
私はこの浜辺が好きで、帰省した折は必ずと言っていいほど、この浜辺に来て、ぼんやりと海を見たり、波を見たりして、時を過ごした。
私にとっては、何にもかえがたい至福の時間であった。
歩きながら、私は思った。
全ての恋は、一方的に恋することから始まる。
まず片恋から始まる。
打ち明けなければ、それまでのこと。
打ち明けて、相手もその気ならば、恋は成就する。
逆もあり得る。
相手から打ち明けられ、自分の思いもそうであるならば、これはハッピエンドだ。
勇気を奮って、相手に打ち明けて、相手から拒絶されればカッコ悪い。
自分に自信が無く、自尊心も高い男ならば、片恋を相手に打ち明けることはまず無く、十中八九、恋は実らないだろう。
私の場合はまさにこれに当てはまった。
結果、美世子に対する片恋は片恋のまま、終わってしまった。
優子は私に片恋を持っていたと真は言った。
しかし、私は気付かぬ振りをして、優子の想いを無視してしまった。
真は優子に片恋をしていたが、真の恋は優子に伝わることは無かった。
一方、美世子は研二に片恋をしていたのかも知れない。
恋は第一印象でほとんど決まるから。美世子にとって、研二は素晴らしい男に見えたんだろう。
ただ、研二にはその気は無く、むしろ美世子の姉の真紀子に恋していたのかも知れない。しかし、美世子の思いは強く、研二も最終的に美世子を選んだのかも知れない。
或いは、真紀子に振られた結果、思いを寄せてくれていた美世子に戻って行ったのかも
知れない。
私は、恋した男として、愛した女性、美世子の幸せを祈らなければならない。
どうも、現実の恋物語はうまくは行かないものだなと思い、歩きながら私は苦笑した。
知らえぬ恋は、苦しきものか、と私は呟きながら浜辺を歩いた。
遠くで、白い鷗が鳴きながら数羽飛び交っていた。
見上げると、夏の青い空が一面に広がっていた。
雲が少し流れていた。
私は紺碧の海を眺めながら、彼女、小野美世子のことを想った。
私の思いは美世子にはとうとう伝わらず、私の恋は秘めた片恋に終わってしまった。
ただ、恋をしたという事実だけが残った。
後悔はしていないが、淋しいものだ。
完