ほのぐらい森路
錆びた馬車の車輪はぬかるんだ道をより不明確にし、その振動をシエラに伝えた。
大きな窪みに朽ちかけた円が嵌るたびに、十二歳を迎えたばかりの金髪が大仰に散る。
彼女は、窓の外へと視線を向ける。退屈しのぎに。
窓の内側もくらいが、外側も鬱蒼としていた。
まるで、二重の箱に閉じ込めらているようだ。一つ目は小さな窓だけの馬車。もう一つは、うっそうとしたこの森林地帯。
手綱を操る従者も、怯えているのが分かる。この森の異様さを、シエラのたった一人の同伴者は心底気味悪がっているようだ。最初は、『貢物』を『館』に送るという不運な役目を背負ってしまったことに悪態をついていたが、今ではその余裕すらない。
この日中でも日蔭ばかりの土地にいれば、まともな感性はすぐに異常をきたしてしまうだろう。
自分が別世界に置き去りにされたような疎外感。
植物と蔭の向こうから観察されているような不快感。
早く此処を出ていきたいという焦燥感。
恒久的に森に存在するほの暗さは、それらを侵入者に付与する。
また、薄暗いだけではない。
静かすぎるのだ。
それを便宜的にごまかすように、青葉が顫動する音だけが稀に聞こえる。
だが、それにも誰かの意図があるようで、落ち着かない。
この森林地帯は、人に好かれる要素を持っていない。
森林浴などという、自然の恵みを人に分け与えるつもりは、この土地にはまるでない。
排他的で、隔絶的な森なのだ。
「――――ねぇ。さっき通った茂みに、人影がみえたの。見えた?」
外の世界を観察してたシエラは、おもむろに口を開いた。
その言葉に、恐怖に支配された従者はヒステリックに応対する。
「此処に人がいるわけないだろうが! 全く、子供だましはよせよ、クソガキ」
血走った従者の視線を、淀みのない碧眼が見つめ返す。
極めて純粋に。
「いいえ、いたの」
従者は舌打ちし、手綱を乱暴に振るった。
そして、己の不幸を呪う。
「ちっ。ポーカーで負けたつけがこんなところで回ってくるとはな。あの騎士団長、覚えていやがれ! 領主さまのお気に入りだからって、調子に乗りやがって……!」
従者の癇癪には興味を示さず、シエラは窓の外を見続ける。
鬱蒼とした森の奥になる何かを。
そんな様子を振り返り、従者は心底気味悪がった。
「おい! もう中に入っていろ。木陰を見て何が面白いんだ。全く気持わりいぜ……」
シエラの湖面のような碧眼が、暗闇から従者へ移る。
「見えるわけじゃないの。でも、いるの」
疑うことを知らない純粋な瞳。
その曇りのなさは、従者に畏怖を与える。
「あー。わかったわかった。そうか。よかったな。そいつらと仲良くやれよ。俺は日が暮れる前に帰るから」
適当に金髪碧眼の少女の相手をしてから、悪態をつく。
少女に聞こえないように、とても小さく。
(――――薄気味わりぃガキだぜ。あれが、今回の『貢物』か。噂じゃ、『館』で悪魔に喰い殺されるとか聞いたが……。流石に噂だろう。だからといって、あのガキが運ばれた後、どういう目に遭うのか、まるで想像はつかないがな。八年で、八人。一年に一人ずつだ。『貢物』にされたガキは、誰も帰ってこねぇ。殺されたって噂もある。だが、確かなことはいえねぇ。誰も、あの『赤薔薇の館』には、近付かないんだからな。近付いたが最期、俺達も『貢物』と同じ運命を辿っちまう……。それだけはご免だ。なんでも、あの『館』に住んでいるのは、勘当された領主さまの子女らしいが、きっと筋金入りの狂人にちげえねぇ。ああ、嫌だ。身震いがする。これ以上、館に近寄りたくねぇ。ここは、人が住むには不吉すぎる……! 早く、このガキを引き取ってくれ……!)
手綱を震える手で握る従者。
彼は、自分にだけ向けた独りごととして、先程の言葉を口にした。
だが、そんな意図はこの森では通用しない。
突如、車を先導する馬がいななき、駆けだした。
その行動は、何かの意図に支配されたかのように、迅速で狂乱的なものだ。
従者は興奮した馬を沈めようと声を荒げる。
「――――おい! どうした!? 止まれ、止まれ!!」
しかし、その抵抗は虚しい結果に終わった。
藪を無計画につきぬけ、泥しぶきをあげた先に存在したのは――――谷だった。
その裂け目は、何かの入り口のように、森に突如として出現した。
谷の底には、光の欠片もない。
それを前にしても、馬は止まらなかった。
「ぁぁ! 落ち――――!!」
従者の叫び声がこだました直後、馬がようやく進行方向を変えた。
とっさの判断で木製の車から馬に飛び移った従者は、その視界にあるものを捉える。
森の裂け目に落ちていく、馬車と、その中にいるであろう少女。
そして、それは一瞬で暗闇に呑みこまれ、墜落の乾いた音が、男を我に帰らせる。
従者は、言葉にならない悲鳴をあげて、馬にまたがり遁走した。
何故、固定されていた馬車が外れたのか。
何故、自分は運よく奈落の底に落ちなかったのか。
そんな疑念を抱いている余裕は、男にはなかった。
彼の頭の中にあるのは、此処から逃げ出したいという思いだけだった――――。
そして、馬車と共に奈落に吸い込まれた少女は、忘れられる。
この深い森のざわめきと共に――――。