夜明けの夢
夢を見ていた。
目の前に広がる夜明け前の草原。
視界をさえぎるものは何もなくて、
ただその真ん中で遠くに見える地平線をじっと見つめていた。
地平線はうっすらと朝焼けのオレンジをにじませている。
その周りは群青色とまざりあってふしぎなグラデーションをつくっている。
見上げると、まだ天球の高いところでは星が輝いている。
はじめてみるようなきれいな景色だった。
それなのに心のどこかでは、前に一度この景色を
みたことがあるように思えて、心が落ち着かない。
「きれいだね」
僕のとなりで誰かがそういった。
澄んだ響きの、ここちよい落ち着いた声。
女の人と思しき影が僕のとなりに立っている。
夜明け前の暗がりのせいなのか顔ははっきりと見えない。
けれど、僕の知っている人のような気がした。
「私、ずっとここで待っているんです」
彼女はしずかな声で言った。
「なにを?」
「夜が明けるのを」
彼女が少し、微笑んだ気がした。
僕はふと地平線に目をやる。
地平線は少しずつ少しずつ輝きを増していく。
だんだんと太陽の光がはっきり見えてくる。
それとともに、空にうすく流れるようにはりつめた雲の波が姿をあらわす。
「いままで一人で、ずっと待っていたんです。さびしかった」
彼女の少しふるえたような声が夜明け前の張り詰めた空気のなかにとけてゆく。
「でも、もう大丈夫です」
彼女は顔を上げて僕に顔を向けた。
「あなたが思い出してくれるから」
はっきりとした、穏やかな声だった。
その声にこたえるように、ひんやりとしたここちよい風が吹いた。
まわりの草をさやさやと波打たせて、僕たちを包み込む。
そして周りが一気にあたたかな光に包まれたはじめる。
空や、雲や、草がその姿をはっきりとあらわしはじめる。
夜が、明ける。
今度はすこし弾んだ声で、彼女は言った。
「きっと、もうすぐ会えるから」
僕の隣に立つ彼女はやさしく笑っていた。
綺麗だった。僕はその顔をずっと見ていたいと思った。
けれど、やがて彼女の姿は、あたりを包み込む
まばゆい光のなかにゆっくりととけこんでいった。
ふと、目が覚めた。せまいアパートの一室。そのベッドの上。
なんだかふしぎな夢をみていた気がする。
夜明けの草原で誰かと話をしていたように思う。
けれど、誰とどんな話をしていたかまでは思い出せない。
思い出そうとしても映像にぼんやりと薄い膜がかかってしまう。
もやもやしながら首を回して枕元の時計に目をやる。
まだ夜中の3時すぎだ。夜明けにはまだ遠い。
それにベッドから少し離れた窓からは
昨日の夕方から降り続いている激しい雨の音が聞こえる。
なんだかふしぎな夢をだったな、とぼんやり考えながら
布団の中でもぞもぞと体の向きを変える。
それにしてもわざわざこんな時間に目覚めることもないよな、明日もはやいのに、
と心の中でちいさく悪態をつく。
けれども、そのまま布団にふかくもぐりなおして
寝なおそうという気分にもふしぎとなれなかった。
今みた夢を意識の外に追い出してふたたび寝てしまうのが
なんとなくもったいないことのように思えた。
けれど一方で、明日は早いから少しでも寝ておきたいという気持ちもあって、
ベッドの中でひとり葛藤を繰り広げていた。
しかしそうしているうちにふとあることを思い出した。
そして思い切って体を起こすと、僕はベッドからのそのそとはい出した。
それが届いたのは、昨日の夕方ごろだった。
正確には昼前から夕方の間。
夕方、バイトから帰るとアパートのポストに大きめの茶封筒が届いていた。
差出人の名前はなく、中には分厚い書類の束が入っているようだった。
開けて中を確かめようとしたところで、
友人から飲みに来ないかと電話があり友人の家でひとしきり酒を楽しんだ後、
すっかり忘れてすぐに寝てしまったので、結局そのままほったらかしになっていたのだった。
ベッドから出てそのまま玄関に向かう。
雨だからなのか玄関はひんやりとした空気が張りつめている。
裸足にわずかに湿っぽい廊下の感触が伝わってくる。
玄関にたどりついて手探りで明かりをつけると、靴箱の上においてある例の茶封筒を手にとる。
ずっしりとその重さが伝わってくる。
何が入っているのだろう、はやくリビングに戻って中身を確かめようと
玄関に背を向けたその瞬間。ピンポーンとインターホンがなった。
思わず動けなくなってしまう。この時間帯のインターホンは不気味だ。
どうすればいいのかわからないまま固まっていると、またピンポーンと鳴った。
こんな時間に人の家のインターホンを鳴らすなんてろくな奴であるはずがない。
酔っ払いか誰かのいたずらに違いない。
まさか律儀にインターホンを鳴らして家に入ってくる泥棒なんていないだろう。
意を決してゆっくりとドアのほうを向くと、
音を立てないようにドアスコープに右目を近づける。
右の頬に鉄のつめたい感覚が伝わってくる。
そこにいたのは白のセーラー服を着た、高校生らしき女の子だった。
どうやら雨に打たれたらしく、弱々しい表情をした顔には
黒い髪が不自然に張りついている。
まるでじっと助けを求めているかのようにじっとこちらを見つめていた。
これは大変だ、と反射的にドアノブに手がかかる。
けれど、もしかしたら女の子はおとりで、ドアを開けたとたん
なにかトラブルに巻き込まれるかもしれない、と頭をよぎる。
実際そこまではなくともこの時間帯だ、きっとなにか裏があるに違いない。
けれどもスコープに映る彼女の様子は演技とは思えないくらい困っているようだった。
もしかしたら・・・・・・、いやでも・・・・・・。
頭の中をいろんなことがグルグルと駆け回る。
考えた末、ゆっくりとドアを開けて彼女を部屋の中に招き入れることにした。
何かしらの事情があるにしろ、さすがにこの大雨の中
女の子をほうっておくのはあまりに忍びなかった。
「すいません。タオルを貸していただけませんか?」
玄関に入ってくるなり女の子ははっきりとした声で言った。
さっきまでの今にも倒れてしまいそうな様子だったのに、
それが嘘のようにまっすぐに立っている。
それにしても入ってくるなりタオルを要求してくるのはどうだろうと思う。
普通は夜分遅くにすいませんとか入れてくれたお礼の一言くらいあるだろう。
この女の子を入れたことをなんとなく後悔し始めていた。
「・・・・・・構わないけれど、そのかわりそこから動かないで。
部屋をぬらされたら困るから」
感情を表に出さないように彼女にそう告げる。
勘違いに違いない、彼女は困っているんだと
心のなかで自分に無理やり言い聞かせる。
玄関のすぐ隣の洗面所から大きなタオルを2枚ほど持ってきて、
玄関でこともなげにつっ立っている彼女に渡した。
「ありがとうございます。事情は話しますから
そうですね、あったかいコーヒーをお願いします」
彼女は外で見せていたあの表情がまるで嘘のような、
しれっとした顔で、肩まである黒髪を拭きながら言った。
人助けだと思ってこわごわ部屋にいれてやったのに、
こんな態度をとられるのはあんまりだった。
今すぐ彼女からタオルを取り上げ、玄関の外に放り出せれば
どんなにいいかと思ったが、あいにく僕にそんな甲斐性はなかった。
深夜4時前にそんなことをして騒ぎにでもなったら
それこそ面倒だ。
ここはさっさと終わらせて傘を押し付けて帰らせるのが一番かもしれない。
「・・・・・・わかったから、そこで待ってて」
今度はなるべくぶっきらぼうにそう言い放つと、
彼女に背を向けリビングへと向かう。
小さなダイニングテーブルにさっきまでずっと抱えていた茶封筒を
無造作に投げ出すと、そのままキッチンに入り、しぶしぶながらも
彼女のためにコーヒーの準備をはじめた。
マグカップでインスタントコーヒーとお湯を混ぜ合わせる。
スプーンでかき混ぜながら、彼女のことを考えていた。
なぜ、よりにもよって僕の家に。
そしてなぜこんな時間にセーラー服で雨にぬれていたのか。
考えれば考えるほど不自然だった。
彼女は事情を説明するといっていたけれどおそらくまともな返答は
あまり期待できないだろう。
この異常な状況はそう簡単に説明できるものではないように思える。
彼女がこの状況をいったいどう説明するのか見当もつかなかった。
やがて彼女の話を聞くだけ聞いて、それから考えようという
思考停止にも似た結論に至り、スプーンを流しに投げ入れキッチンを出た。
「やっときた」
聞いた覚えのある声。
体を拭き終えたらしい彼女は、ダイニングテーブルの椅子に
ゆったり足を組んで座っていた。おもわずその場につっ立ったまま固まってしまう。
「・・・・・・玄関で待っててっていったよね」
「ちゃんと体は拭いてきましたよ」
「そういう問題じゃない」
あろうことか勝手に家の中に上がりこんでくるなんて。
僕の我慢はそろそろ限界に達しようとしていた。
「もう、出て行ってくれないかな」
「なんでです?」
「それは自分が一番よくわかっているはずだろ。
こんな夜中に押しかけてきて、あげく勝手に上がりこんでくるなんて非常識にもほどがある」
「でもそれじゃあ、困ります」
「なんで」
「私、あなたに会いに来たんだもの」
「僕に?」
突然のことに少し動揺してしまう。
けれどおそらくこの場をしのぐための嘘だろう、とすぐに考え直す。
「そんな嘘ついても無駄だと思うけど」
「嘘じゃないですよ。それに、私たち今までに一度会ったことがあるじゃないですか」
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「君みたいな失礼なやつと知り合った覚えはないよ」
怒りながらも、おそらく嘘だろうとわかっていながらも、いちおう頭の中を探す。
けれど今までにこんな高校生と出会ったことなんてなかった。
制服も見たことない。
僕は今、実家から遠く離れて、東京の片隅に住んでいる。
こちらに来てから女子高生と交流なんてもった覚えもない。
「そうか、覚えてないのか・・・・・・」
彼女はぽつりと言った。
「勘弁してくれないかな。明日も早いんだ」
必死に訴えてみるも、彼女は何食わぬ顔でうーん、おかしいなぁと
つぶやきテーブルに目をやる。
そしてふと、さっき僕が投げ出した封筒に気づくとばっと手に取った。
「これまだ開けてませんよね」
彼女は目をまるくして僕にたずねる。
「それに触らないでくれ」
思わず少し強めの声がでる。
なんとなく、その封筒が他人に触られることに嫌悪感がわいた。
けれども彼女はそんなことお構いなしに封筒を手に取り、じろじろと眺めている。
マグカップを机に置いて彼女の手から封筒を奪い返そうと手を伸ばすが、さっとかわされてしまう。
「あ、コーヒーだ」
何食わぬ顔でそのマグを手に取り、彼女は続ける。
僕はもう呆然としていた。
彼女の厚顔さにそろそろ心はほとんど折れていた。
彼女の斜め向かいの椅子の椅子を乱暴にひくと、ぐったりと腰を下ろした。
「・・・・・・見てのとおりまだ開けてない」
おおきくため息をつくと半ばあきらめた声で答える。
彼女を穏便に部屋から追い出すのは至難の業のように思えてきた。
何を言ってもそ知らぬ顔をしている。
きっと出て行けといっても居座られるに決まっている。
「じゃあ、私のことを思い出せないのも無理ないか・・・・・・。
なんせ十年近く前の話ですからね。でもなあ・・・・・・」
何食わぬ顔で彼女はコーヒーを一口すすると僕のほうに椅子ごと体を向けた。
十年も前の話。そんなものことさらに思い出せるはずもない。
僕はさらにぐったりしてしまう。
「本当に覚えてないですか?」
彼女は僕の顔をのぞきこんでくる。
「覚えてないよ」
「ほら、この顔とか。この髪の毛とか、
あなたがいいねってほめてくれたんですよ」
彼女は肩ほどまである自分の黒髪を手のひらにのせ、僕の前に差し出してくる。
つやつやしていて、彼女の白い肌とよくなじんでいる。
「覚えていない。とういうか、そもそも十年前っていったら
君は小学生だろ。思い出せるわけがない」
僕は淡々と言い放った。
「まあ、それはそうなんですけど・・・・・・」
彼女は少し残念そうな顔をした。
「それにさ、思い出してほしいって言うんなら名前ぐらい名乗ったらどうなんだい」
机に突っ伏せて疲れた声で言う。
いい加減、僕と彼女が何の関係もないことをわからせて、
彼女にはさっさとお帰り願いたかった。
「そうですね・・・・・・。あっ、私どんな名前っぽく見えます?」
「いい加減にしてくれ」
「冗談ですって。私、イチホっていうんですけど覚えてないですか」
「・・・・・・イチホ、か」
思わず口に出してしまう。
思い出してみても、そんな知り合いはいなかったはず。
それなのに胸のあたり少しざわざわする。
「おっ、なにか思い出してくれました?」
イチホが僕の顔を覗き込んでくる。
どこか見透かしたような不思議な目だった。
「残念ながらやっぱり覚えがない」
胸の中を悟られたくなくて、体を起こし話題を変える。
「その封筒は君が送ってきたの?」
「いいえ。でもその封筒に深く関係しているのは確かです。
ちなみに差出人はあなたのお母さんです」
「母さん?」
母は東京から遠く離れた実家で一人暮らしをしている小説家だ。
その影響で、僕も小説は小さい頃からよく読んでいた。
けれどその一方で、学校の読書感想文や授業の作文に
ことこまかにダメだしをされて落ち込んだのをよく覚えている。
僕がこうして東京で、幼少から慣れ親しんできた小説とは
なんのかかわりもない仕事をしているのは母が原因のひとつかもしれない。
「母さんになにかあったのか?」
「いいえ、そういうのではないですよ」
イチホは首を振って即答する。
確かに、もし緊急の用事があったのなら
わざわざこんな封筒を送ってきたりはしないだろう。
「じゃあ君は、母さんの知り合い?」
「そういうのでもない気がします」
「やっぱり、わからないな」
話を聞けば聞くほどわからなくなってしまう。
このままではにっちもさっちもいかない。
そろそろ彼女と話しているのも限界が来たように思えてきた。
「もう帰ったほうがいいんじゃない?
残念だけど、僕は君のことを知らない」
そうはっきりと彼女に切り出した。何気ない提案のつもりだった。
けれどその瞬間、彼女の表情がみるみるうちに冷めていくのがわかった。
「知らない・・・・・・ですか・・・・・・」
イチホは震えた声で言った。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「本当に、ですか?」
「残念だけど」
言ってから、さすがに良くない言い方だったかもしれないと
少し後悔した。思わずイチホの様子をうかがう。
「そんなこと・・・・・・」
彼女はうつむいて、何かを押し殺しているようだった。
ほんのすこしの間、あたりが静かになった。
「そんなこと、言わないでください・・・・・・!」
イチホは勢いよく立ち上がると、悲しげな表情でこちらに迫ってきた。
突然のことにおどろき、たじろいでしまう。
「すいません・・・・・・」
はっと我に返るとイチホは気まずい表情で椅子に腰を落とした。
沈黙があたりにただよう。
すこし苦しげな顔で口を結んでいるイチホに
なんと声をかけていいのかわからない。
お互いに何も言葉を発さない、しずかな時間。外の雨の音だけが聞こえる。
「・・・・・・私があなたと初めて出会った日もこんな天気でした」
イチホは窓の外に降る雨に目をやると、ポツリと言った。
「あなたと夜明けを見に行く約束をしていたんです。
でもあいにくの雨で。それでもあなたは見に行こうって言ってくれたんですよ。
きっと雨はやむからって」
僕は彼女の言葉をただ黙って聞いていた。
なぜか頭の中にぼんやりと浮かんでくるものがある。
でも、はっきりとは思い出せない。
「でも結局雨はやまず、おかげで二人ともびしょぬれになったんですよ」
そう話すイチホの表情はさっきと違ってどこか楽しそうだった。
やっぱり何か引っかかるものがある。
僕の頭の中には映像の断片みたいなものが浮かんでくる。
でも、それ以上はふわふわとしていて頭の中に像を結んでくれない。
頭の中にさらにもやもやが広がる。
確かに、それは僕の中にあるはずなのに。
「・・・・・・」
「・・・・・・まだ、思い出せませんか?」
イチホは机の上の封筒を開けて、中身をゆっくりと取り出す。
中から出てきたのは原稿用紙の束だった。
イチホは二つ折りになったそれをゆっくりと開く。
ぱさりと紙のこすれあう音がする。イ
チホは原稿用紙の一枚一枚をいとおしげにめくっていく。
ぱさり、ぱさりと音がするごとに僕の中で全てがつながっていく。
十年前・・・・・・雨・・・・・・夜明け・・・・・・そしてイチホ。
「そうか・・・・・・そういう・・・・・・」
「やっと、思い出してくれましたか?」
イチホはうれしそうに微笑んだ。
「ああ」
僕はちいさくうなずいた。
「さっきはひどいことを言ってしまった。知らない、なんて」
「もう気にしないでください。
思い出してくれたなら、それでいいんですよ」
イチホは椅子から立ち上がると、僕の手をとった。
「じゃあ、雨もやんだことですし、いきましょうか」
「いくってどこに」
「決まってるじゃないですか」
イチホは僕のほうをみて、やさしく笑う。
「夜明けを見に行くんですよ」
僕を玄関までに引っ張っていくと、イチホはドアを開けた。
開けたドアから強い風がこちらに向かって吹いてくる。
おもわず目を閉じる。風が少し弱まってから
おそるおそる目を開けると、目の前には広い広い草原があった。
遠くには海とぼんやりと輝く水平線が見える。
間違いない。あの景色だ。十年前に僕が書いた景色だ
彼女に手を引かれるがままに玄関を出る。
ドアは風でばたんと閉まった。
振り返るとドアはもうそこにはなかった。
風が吹いている。薄明るい中で、周りの緑はそれをうけて
さやさやと音を鳴らし、波を立てている。
星の輝きが残る群青の空と、かすかな朝焼けのグラデーションが目の前に広がっている。
二人並んで、その場に立ち尽くす。十年前の僕はなんて書いたんだっけ。
「私が、『きれいですね』ってあなたに言うんですよ」
「そうだったっけ。よく覚えてるんだね」
「当然ですよ。なんてったって登場人物ですから」
少し間があって、イチホは少し照れたように言った。
「きれいですね」
「うん」
十年前に僕が思い描いた世界。
それが目の前に広がっている。そして隣には僕が思いをはせたイチホがいる。
冷たい風の中につないだイチホの手のぬくもりが伝わってくる。
不思議な感覚だった。
「この続き、覚えていますか?」
彼女が前を向いたまま僕に問いかける。
「たしか・・・・・・」
十年前の記憶をほりかえす。
そしてそのこと思い出すと、すこし口が重くなった。
「……書いていなかったような気がする」
しずかに僕は答える。たしかここまで書いたあと、
なんとなく今まで書いたものがくだらないものに思えてしまって
結局、書くのをやめてしまった。
そのくせ原稿用紙は捨てるに捨てられず押入れの奥にしまいこんだ。
確かそこで、この物語はとまっている。
「正解です」
「やっぱり」
「おかげで私がどれだけ待たされたことか。
ずっとひとりぼっちだったんですよ」
イチホは明るい声でそう言った。
けれどその顔はさびしげだった。
きっと十年の間、ずっとこの場所で僕を、夜明けを、待ち続けていたんだろう。
「・・・・・・ごめん」
僕はそうイチホに言うことしかできなかった。
「もういいんですよ」
イチホが顔を上げる。
目の前の水平線がだんだん輝きを増していく。
「いまはこうしてあなたと再会できたんですから」
「そう、かな」
「そうですよ。さあ、もうすぐ夜が明けますよ」
イチホが水平線を指差す。
それはどんどん明るく輝いて、星空がゆっくりと光の中にとけていく。
あらゆるものから、夜の闇を消し去ってゆく。
僕らもやわらかな光に少しずつ包まれていく。
「ひとつ聞いてもいいかな」
僕はしずかな声で言った。
「なんですか」
「これは、夢なのかな」
イチホのほうをみる。
彼女がいたずらっぽく笑う。
イチホの黒い髪が風に揺れてきらめく。
「そう、これは夢です。朝日が昇ってしまえば、醒める夢です」
「やっぱり・・・・・・そうだよね」
「ええ、だから」
イチホがこちらに顔を向ける。
瞳が朝焼けの光をうけて輝いている。
まるでビー玉を炎にすかしたみたいにきれいだった。
「だから、目が覚めたら、この物語を終わらせてくれませんか。
ほんの原稿用紙一枚でいいんです。夜明けを、あなたの言葉で描いてください。
それで私はずっと生きていける」
イチホはやさしく笑っていた。
「思い出してくれて、ありがとう」
僕たちはお互いの手をぎゅっと握って、目の前の光に目を向ける。
太陽が水平線から離れていく。
まぶしい光が僕たちをいっぱいに照らして
やがてイチホの姿はその光の中へととけていった。
目を覚ますと、そこはいつものリビングだった。
ダイニングテーブルに突っ伏して眠っていたようだった。
壁の時計を確認する。4時15分。まだ夜は明けきってはいない。
さっきまで夢のことを思い出す。
今度は、はっきりと思い出せる。
あの夜中のことも、夜明けのことも、イチホのことも。
手元にあった封筒の封を手で切り、中身を取り出す。
確かに、僕が十年前に書いた原稿だった。
読み返すのがどこか懐かしいような、恥ずかしいような感じがする。
ぱらぱらとめくっていると一枚の紙切れが床に落ちた。
母が書いたらしいメモだった。
どうやらこの原稿は母親が実家を整理していたときに出てきたものらしい。
よく書けている、と紙の隅に書き添えられていた。
母に自分の文章をほめられたのはこれが初めてかもしれない。
なんだか嬉しかった。
窓の外に目をやる。
雨はあがって、東の雲の切れ間からオレンジ色の光がほんのり輝いている。
ペン立てからボールペンを取り、原稿用紙と向かい合う。
どこか軽やかな気持ちだった。
またこんな風に物語を書くのも悪くない。そう思えた。
原稿用紙のむこう、あの広い草原、
夜明け前のふしぎな群青色をしたの空の下にイチホと僕はいた。
まぶしい光でみちはじめた水平線をじっと見つめている。
「きれいですね」
「うん」
ふとやさしい風がすっと僕達のすぐそばを通りぬけた。
もうすぐ、夜が明ける。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
ご意見、ご感想などあれば、ぜひお送りください。