揺れ動く記憶
ビルを出ると、外はすっかり薄暗くなっていた。
僕は三階の窓を見上げた。
その窓には明かりが灯っている。
出かけると言ってたけど、まだ長瀬さんはいるんだな。
あれは僕らを追い出すための、嘘だったのかもしれない……。
あの部屋で僕が見たヘルメットと腕時計型の装置……。
シグマと長瀬さんは関係があるのは間違いない。
九条院さんと五両君は通りを渡るため、少し離れた歩道の縁石の辺りで車が途切れるのを待っている。
緊張がとけたせいか、五両君はさかんに九条院さんに話しかけているようだ。
僕はビルから離れ、彼らに駆け寄ろうとした。
その瞬間、空が崩れ落ちるような轟音がした。
重低音に襲われ、耳が奥底から震える。
たまらず耳を手で押さえ前を見ると、九条院さんたちも顔をしかめ耳を両手で押さえていた。
通りを走る車も、次々と減速し、路肩に停まり始めた。
異常を感じているのは僕らだけではないようだ。
重い音は一向にやまず、僕はその場にうずくまり、空を見上げた。
晴れていたはずの空には暗い雲が渦巻いている。
その空が光った──。
何筋もの稲妻が、歩道の並木に直撃した。
僕は慌てて両手で頭を隠し、丸く小さくなった。
しばらくして、ようやく音が鳴りやんだので、顔を上げた。
そこに僕が見たのはありえない光景だった。
通りの真ん中に楕円形の物体が浮いていた。
漆黒で自動車ほどの大きさの謎の物体。
それが、灰色の靄をまとい、うなりを上げている。
「これって……? UFO?」
よく見ると、その物体のボディには『2』と白く数字が書かれていた。
その文字がすっと横に動き、サングラスの黒服の男が見えた。
その男はなにか手にしていた。
なんだろう? と思い、立ち上がり目を凝らす。
その時、体に強い衝撃が走り、僕は横殴りに飛ばされた。
直後、パンと乾いた音が鳴り響いた。
歩道にうつ伏せに倒された僕は、状況がわからず、顔だけ上げた。
その顔を誰かに押さえつけられる。
「お嬢様、伏せて!」の声と同時にまた乾いた音が鳴り響いた。
僕の上にいる誰かが動き、鼓膜が破れそうな大きな音が何発かした。
わけがわからない展開に、僕は必死に頭をかばう。
歯が土を噛んだが、今はそれどころではない。
強く目を閉じていたら、またさっきの重低音が耳を襲った。
「いったい、なにが起きてるの!」
僕は耳を両手でふさぎながら、思わず叫んだ。
倒れたまま、しばらくそのままじっとしていたら、音がやんだ。
両手を耳から離し、様子を見ようと少し顔を上げたら、なにか生暖かい物が僕の手に落ちてきた。
なんだろうと思い、手を見ると、その手は真っ赤に染まっていた。
怪我をしたのかと慌てたが、まったく痛くない。
「くっ!」と男のうめき声がした。
見上げると、そのサングラスの男が僕を見た。
「……よかった。ご無事のようですね」と苦しげにつぶやくと、肩を押さえながら、ぎこちなく向こうへ走っていった。
通りを見ると、あの物体の姿はもうなかった。
スマホを掲げた通行人が何人か、通りの脇に並んでいる。
おそらく写真を撮っていたのだろう。
僕が見たのは幻じゃなさそうだ……。
寝そべったままでいたら、九条院さんが駆け寄ってきた。
「日比野さん、大丈夫……? あっ、血が出てるじゃないか! 痛むかい?」
僕は手をつき立ち上がろうとしたが、右肩に激痛が走り、また倒れこんだ。
「じっとしてて、救急車を呼ぶから」
九条院さんが携帯を取り出す。
五両君も来たみたいで、大騒ぎを始めた。
「俺たち、撃たれたよな! 木の陰に隠れなきゃヤバかったぜ! しかし、何なんだ、あれは?」
僕は九条院さんの足首をつかみ、
「怪我はしてません。救急車は呼ばなくて大丈夫です」と訴える。
「だって、血が出てるよ、君」
「いえ、これは僕のじゃありません」
「じゃあ、誰の……?」
「僕をかばってくれた人がいたんです。その人が撃たれたようで……、その人の血です」
「誰だろう?」
九条院さんは、体を回して周囲を見回した。
「走っていきましたから、もういないと思います」
「どっちに?」
「あっちです」と指さす。
九条院さんはしばらくその方角を見ていたが、
「もういないか……」とつぶやくと、しゃがみ込み、僕を抱え起こした。
「じゃあ、怪我はないんだね?」
「はい。でも、また肩を痛めたみたいです……」
「そうか、僕が支えるから無理をしないで」
九条院さんに寄りかかるようにしていると、五両君が僕を見て、
「お前、血が出てるぜ! 撃たれたのかよ」とわめいた。
僕はそれを否定し、笑った。
五両君は興奮が抜けきらないのか、「ほんと、ヤベー、ヤベーよ。何なんだ、いったい」と同じことを何度も叫び続けた。
それから、三人は喫茶店に戻った。
騒動に飛び出ていた凪沙さんが、血まみれの僕の手を見て血相を変えた。
僕が事情を説明すると、「とにかく今日はすぐ家に戻りなさい」とだけ言い、平太を呼んだ。
「さっきの騒ぎはなんだったんだ?」
出てきた平太が、僕の手についた血をタオルで拭きながら訊く。
「僕にもよくわからないけど、UFOを見たよ」
仁科家のみんなが心配するといけないので、銃撃のことは黙っていた。
「なんだって!? UFO! マジで?」
平太が空を見上げたが、そこには夜空があるだけだった。
九条院さんは動揺している五両君を送ってから帰ると言い残し、店を出ていった。
僕は謎の物体が現れた通りを、もう一度見た。
一台のパトカーがサイレンを鳴らし、駆けつけてきた。
UFOのことは信じてもらえないだろうが、銃撃のこともあるし、これから現場検証だろう。
僕も目撃者の一人だが、野次馬も大勢見ていたので、関わらないで家に帰ることにした。
◇◆◇
そんなわけで今、僕は仁科家のマンションにいる。
凪沙さんから言われ、僕のボディガードとして平太も一緒に帰ってきた。
平太は思いがけず早く帰れたので、少しご機嫌だ。
僕はといえば、さっきの出来事で頭が混乱している。
それでもわかるのは、僕の命を狙っている人間がいる、ということだ。
歩道橋の事故はイタズラでも偶然でもなかったのだ。
あのUFOみたいな物体が、シグマの言ってたマシンなのだろう。
宙に浮くくらいだ。すごいスピードで走れるのだろう。
シグマは僕の味方のようなことを話してたが、今となっては怪しいものだ。
僕ら三人が集まった時に、全員を抹殺する。
そのタイミングを見計らったのが、弁護士の長瀬さんだ。
僕らが事務所を出た後に、腕時計型の装置で仲間に連絡したのだ。
これなら、全て説明がつく。
ひとり部屋に引き込もり、ひっそりと落ちこんだ。
風呂場からは、平太の調子っぱずれの鼻歌が聞こえてくる。
その陽気な声も、今の僕には慰めにはならない。
あんなマシンがあるんじゃ、家にいても安心してられない。
いつどこから銃で撃たれるかわからない。
悶々としていたら、電話が鳴った。
平太はまだ風呂のようなので、僕はキッチンに行き、受話器を取った。
「仁科さんのお宅でしょうか?」
聞き覚えのある声だった。
「もしもし、九条院さん?」
「ああ、あなた、無事に帰ったのね。肩はまだ痛む?」
「いえ、無理をしなければ大丈夫です。まあ、数日くらい前の具合に戻っただけです」
「そう、気をつけてね……」
九条院さんのしゃべり方は、この間の電話と同じだった。
つまり、いつもの九条院さんとはちょっと違う。
「あなた、カオルよね?」
「もちろん、そうですけど」
「ねえ、今日の出来事でなにか思い出した?」
「いえ、相変わらずです」
「そうなの……。困ったものね」
「ところで五両君はどうしました?」
「ああ、あいつはギャーギャー騒いでたけど、施設に着いたらやっとおとなしくなったわ」
んー、今日もオカマ言葉炸裂だよ、九条院さん。
「それで今、家に帰る途中で携帯からなんだけど、さっき記憶が戻ったのよ」
「えっ! 九条院さん、記憶が戻ったんですか?」
「そうなの、突然。きっと、さっきの騒ぎが引き金になったんだわ」
九条院さんの記憶が戻ったと聞き、僕は舞い上がった。
これで、僕の身元も過去もやっとわかるよ!
「それで、九条院さん! 九条院さんは本当は誰なんですか?」
「私? 私は九条院麗よ」
「じゃあ、名前は本物だったんですね。じゃあ、僕の名前も……」
「字は少し違うけどね。あなたの名前もね」
「えっ? 僕の名前って字が違ってるんですか?」
「そう……、そう……だけど、……うっ、頭が痛い……」
「どうしました? 九条院さん!」
「私と……、あなた……は、この時代の……、人間じゃ…………」
「もしもし、九条院さん?」
「…………」
受話器から聞こえてくるのは、鳴り続ける発信音のみ。
通話は切れてしまった。
着信履歴からリダイヤルしてみたが、九条院さんは出なかった。
受話器を置き、しばらく待ってみたが、もう電話は鳴らなかった。
九条院さん、苦しそうだったけど、大丈夫かな……。
すぐにでも駆けつけたい気持ちだったが、五両君のいる施設を僕は知らない。
それに僕がいなくなると、また仁科家に心配をかけるし……。
九条院さんを思い、リビングの窓に手をつき、外を眺めた。
夜の街は何事もなかったように、いつものようにきらめいていた。




