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♔ Ⅰ章_01節_05 西北の地勢 ♔ 

“獅子”と名付けられたバーブル

ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出

〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する

食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し

愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル

・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。

この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・


♔ Ⅰ章_01節_05 西北の地勢・天山山脈の地誌 ♔ 

  

 中央アジア北西に位置するアルタイ=金の山=山脈の西方はステップのキルギス大草原である。 遊牧民の世界である。 シルクロードを東西の基軸とすれば、イスラム・オアシス世界と儒教・農耕世界を分ける分水界がパミール高原と言える。 東西文化圏の境をなし、また 南北に民族的な垣根をパミール高原が担っている。 地形上、南域でヒンヅゥークシュ山脈が西方に連なり伸びる。 東方向にはカラコルム山脈が伸び、ヒマラヤ山脈の大連鋒を形成する。 まさしく、世界の高峰・雪嶺がこのパミール高原を中核として東西に広がる。 また、パミール高原は北側で天山山脈に接し、天山山脈北西約200キロでアルタイ山脈である。 天山とアルタイのあいだがジュンガリア盆地と呼ぶ大草原地帯である。 


 天山山脈の北西には、中央アジア最大の内陸湖・バルハシ湖があり、緯度を同じくする西方にアラル海、カスピ海があり、黒海に繋がる。 この広大な地域がキルギス大平原・ステップ地域の草原である。 蒙古高原からジュンガリアに至りて、天山山脈北麓からイリ渓谷にわけいり、バルハシ湖に至るルートがシルクロード北方草原ルートである。 蒙古高原からボルガ・ドン川まで遊牧民の世界、壮大な草原地帯が打ち繋がり広がる。 過日、バトゥ(ジュチ家の二代目)欧州遠征軍がウィーン近郊まで迫り、ウィーンを陥落しようと東欧を制圧した蒙古軍を集結していた。 しかし、ジンギスカーンの後継者・オゴディ(第二代モンゴル帝国皇帝、1241年12月21日死去)崩御の伝令が蒙古高原中央のカラコルムから10日間でバトウが本陣を敷くドナウ流域・ブタペスト近郊に到達している。


天山山脈そのものも、雪嶺の高峰を抱え込んでいるが、全域が遊牧民の縄張りである。 遊牧と狩猟に適した世界がタクラマカン砂漠=タムリ盆地=北域の天山山脈に広がっている。 この天山山脈を本拠にバルハシ湖東部からジュンガリアを支配した遊牧民国家があった。 紀元前から5世紀にかけてのこと。 烏孫が巨大で豊潤な自然が遊牧生活を約束するこの地域を支配し、統治していた。 紀元前2世紀の頃、匈奴に追われてパミールを超えてフェルガナに建国していた大月氏を烏孫の単于(王)・コンバク(昆莫)が駆逐した。 大月氏は南方に移動する。 西方後背の憂いを無くした昆莫は東天山に居城を構えて東方の匈奴と対峙する。 当時、強大な遊牧国家を形成した匈奴は漢を脅かし、毎年貢物を強要する強大な帝国であった。 有史以来、ユウラシア大陸に存在した最大最強の帝国と言える。


 漢の武帝は、大宛に赴いた経験を持つ張騫を特使に任命し、300人の部下に数万の牛と羊を引き連れさせ、さらに数千万の黄金と絹織物を携えさせ、節をもった副使多数とともに烏孫へ派遣した。 烏孫王の昆莫は匈奴王に対するのと同じ儀礼で漢の使節と面会し、天子の賜り物に拝礼した。 そこで張騫は漢と対匈奴の共同戦線を張ることを提案した。 この密談を漏れを聞いた匈奴は烏孫に攻撃しようと決意する。 これを恐れた烏孫は漢の公主を娶り漢と兄弟となる策に出た。 烏孫は千匹の良馬を結納として送り、漢は江都公主を嫁にだした。 また、匈奴も嫁を送り込む。 


 しかしながら、後漢の時代には烏孫は漢に名馬を献じて侍子の入朝を請う立場になり、北魏の時代には、柔然=蒙古高原を統一支配した遊牧国家=にしばしば東部域を侵略されてパミール山中に移動して行った。 そして、5世紀ごろ烏孫族は姿を消した。 天山山脈西部に天山域の最高峰・ボベーダ山 (7,439 m)がある。 その西方にイシク・クル湖がある。 周囲は688キロで、琵琶湖の9倍。 最大深度は668メートル。 標高は1,606mという高地にあり、周囲から流れ込む河川は存在するが、イシク・クルより流出する河川はない。 透明度は20メートルを超え、数少な古代湖の一つである。 標高が高く、冬季は厳寒の気候であるが、夏の水温は20度、冬の水温は3度程度ある。 塩分濃度が比較的低いにも拘らず、厳冬期でも湖面は凍らない。


 原因は不明だが、イシク・クルの湖底には多数の遺跡が水没している事が確認されている。 湖畔の砂浜には中国からの陶器など、湖底遺跡から流れ着いたものが打ち寄せることが有る。 しかし、なぜ遺跡が存在するかは未だに謎であり、この件に関しては何度か潜水調査が行われた。 その結果、遺跡は1つではなく、様々な時代の遺跡が水没している事が判明した。 その内の1つに、曾て湖畔に存在したという烏孫の赤谷城が在った。 


 昔の文献によると、この湖には少なくとも16世紀頃までは島が有り、更にその島には城が存在していたという事だが、今はその面影は全く無い。 また、玄奘三蔵は烏孫の支援を受けて湖畔を旅している。 彼の『大唐西域記』には”熱湖“と記しており、湖面には終始霧が漂い異様な雰囲気であるとも・・・・・。 ちなみに、イシク・クル湖は中央アジアの”真珠“とよばれ、湖底の城郭は世界ふしぎ物語でしばしば取り上げられる。


バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。

バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。

バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。

バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。


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