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♔ Ⅰ章_01節_04 フェルガナのアンディジャン ♔

“獅子”と名付けられたバーブル

ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出

〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する

食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し

愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル

・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。

この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・


♔ Ⅰ章_01節_04 フェルガナのアンディジャン ♔ 

  

  フェルガナ地方は中央アジアで最も豊潤な地である。 パミール高原の西に連なる丘陵地帯である。 その中核がアンディジャン。 アンディジャンは東西を繋ぐシルクロードの要衝カシュガルとコーランドの中間に位置し、交易で栄えている。 過日のジンギス・ハーンの中央アジアア親征(1218-24年)で徹底した破壊を受けたが、13世紀にジンギス・ハーンの三男・オゴディ(第二代モンゴル皇帝)の五男・カイドゥによって旧市街の南側に再建され、以降300年近く中央アジア屈指の賑わいを呈している。 以来、アンディジャンの商人は中央アジア一帯でその名を馳せていた。


 パミール高原西面中央周縁部に発した小川が合流してカラダリア川と呼ばれ、フェルガナ盆地の南域の丘陵地帯を屈曲しながら西方に流れ、アンディジャン市街北方辺りから西北西に流れて行く。 フェルガナ盆地の中央部を屈曲しながらおおむね西に流れパミール高原北東部に源を発したシル・ダーヤと合流する。 他方、カシュガルからのシルクロードは、パミールを越えて来た隊商はオシュに至り、西行してアンディジャンに登宿する。 カラダリア川の流域を離れて、西南西に125キロ行けばコーランドのパンジケント城砦に至る。 コーランドから北西に向かえタシケントに出る。 シル・ダーヤ川沿いに西に進めば、 ポジェント(アフスィ城の対岸)を経由してサマルカンドに至る。 コーランドからポジェントまで約100キロ、ポジェントから西行200キロで帝都・サマルカンドである。


 バープルの生まれたアンディジャンはシルクロードの要衝であり、ティムール帝国の経済を左右する重要な地点であった。 蒙古帝国の破壊と再興でカラダリア川沿岸から15キロほど南方に移動したとは言え、その活況ぶりは帝都に次いだ。 街の南方5キロに大きな湖・ムシュチュンがあり、北側の広大な湖畔がシルクロードを往来する隊商ラクダの自由な放牧地を提供している。 ムシュチュン湖は東西約30キロ幅6キロ程度か、アンディジャン城砦の背面が湖面である。 ただ、厳冬期 フェルガナ地方の湖は氷結する。 この湖も例外ではなく厳冬期は騎馬にて往来できる。 このフェルガナ地方は、開祖ティムールの息子ミーラーン・シャーの一族の所領であった。


 バープルが生誕した当時、この地はチムールの三男ミーラーン・シャーの曾孫のウマル・シャイフが領主として君臨していた。 しかし、ティムール朝は2つの政権に分裂しており、政権は安定していない。 ウマル・シャイフは祖父のアブー・サイードが樹立したサマルカンドの政権に属していた。 サマルカンドの政権は南のヘラート政権とは対立し、サマルカンド政権もミーラーン・シャーの四名の後嗣、ハリール・スルタン、アバー・バクル、ウマル・シャイフ、スルターン・ムハンマドが互いに帝位を狙っていた。


 サマルカンドとヘラートを統合した帝王アブー・サイードは台頭著しい西南イラン高原の白羊朝ウズン・ハサンとの戦いに敗れ捉えられるとシャー・ルフ(ティムー朝の第3代君主)の曾孫で彼の政敵であったヤードガール・ムハンマドに引き渡され処刑された。 彼の死後、ホラーサーンとホラズムそしてヘラートはティムールの子ウマル・シャイフの曾孫にあたるフサイン・バイカラがヤードガール・ムハンマドを処刑しこれを確保、ヘラート政権を復活させた。


 残されたサマルカンド政権の領域は、アブー・サイードの4人の息子に分割相続された。 長男アフマドはサマルカンドとブハラ、そしてティムール朝の支配者の称号を相続し、次男のマフムードはバタフシャン、ハトロン、テルメズ、クンドゥーズ、ビサールを相続した。 三男のウルグ・ベクはカーブルとカザニを確保し、四男のウマル・シャイフがフェルガナを相続した。 このウマル・シャイフとチャガダイ王家出身のクトルグ・ニガール・ハーヌスの間に生まれた息子が、バープルである。


バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。

バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。

バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。

バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。


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