♔ Ⅰ章_01節_01 軍事の天才“虎”の誕生 ♔
“獅子”と名付けられたバーブル
ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出
〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する
食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し
愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル
・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。
この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・
♔ Ⅰ章_01節_01 軍事の天才“虎”の誕生 ♔
我が君主の王子バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時のこと、バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間 字が書けず、弓も引けない状態が続いたことがあった。 また、時折残忍な性格も覗かせたこともある。 これから話すインド遠征の際の際、血族の地を追われ、敵ばかりの新天地に侵攻した時の出来事である。 彼は敵対するアフガン人の首を切り、その首を集めて塔を建てることを命じる。 一度ではない、数度起こす。 その際の彼の行動は異常であった。 眼前に築かれた敵将や矛を収めなかった敵の一人一人の首に無言で対峙し、一刻の後に薪を積んで火葬に賦したのである。 私は彼の行動を止めなかった。
バープルはこれらの事を赤裸々に己の日記に書いていると思う。 よく思い出すのであるが、彼が少年期から青年期にさしかかろうとする頃の事、当時 私の君主であった彼の父親がティムール帝国の皇統として権勢を四辺に示していた頃の事、彼は城砦を訪れた同郷の美少年に会いたくて 夜中 アンディジャンの街を彷徨したことや、女性を嫌悪する内心の苦痛を私に打ち明けた事があった。 少年期を終え、青年として自我を自覚する己の葛藤とティムール朝後嗣としての規範的行動との狭間や齟齬に苦悩していたのであろう。 心を上手に支配する方法を教えてくれと私の助言を求めに来た。 彼は私を亡き父君が命じた後見人と考えていたのであろが、私は、その日の出来事を赤裸々に日記に綴る事を教えた。
バープルは英明である。 そして、繊細な心の持ち主であると思う。 果物に強いこだわりを持つ美食家は母親の血筋であろうか、己のこだわりを知っていた。 他人には話さぬようだが、特にメロンが大好物であろう。 また、路傍の咲く草花の美しさに心が癒されると私に告げ、武人としては女々しかろうか素直に問うたこともある。 自筆しているようである。 宴席で覚えた葡萄酒の豊潤さから禁酒の苦しみに悶々とする己を書き綴っているようである。 イスラムの教えに葛藤しているようでもあった。 愚直なほど、私が教えた自筆で研鑽しているようである。 ペルシャ語で美辞麗句を連ね書き綴る文学ではなく、日常の言葉であるテュルク語を使った赤裸々な日記で己の内心を見つめているようである。
中央アジアの厳冬期は厳しい。 丘陵地帯であるフェルガナ地方は古名ではソグディアナと呼ばれる。 この地は野外に放置されたラクダが凍死する事すらある。 全てが凍て尽き、アンディジャン近郊の冬季で緑色を消失した丘陵地帯の底部にある大きな湖は凍り、騎馬で湖面を歩行できる。 湖の名はムシュチュン。 しかし、この辺りの積雪は少なく、往来に不自由はない。 春に成れば、ムシュチュン湖は満々と清水を湛える丘陵地帯の草原の核となる。 この湖畔に堅牢な城砦があり、日々 朝日を受けて美しい雄姿を誇る。 このさして大きくない城砦がアンディジャン城である。 1483年2月14日、この城塞で“虎”と名付けられた王子が誕生していた。
彼の父・領主ウマル・シャイフが待ち望み、喜びをもって迎えた長子にバープル命名した。 “バープル”はテュルク語で虎はである。 望まれて誕生したバーブルは帝王・ティムールの三男ミーラーン・シャ^の玄孫であり、母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスは大蒙古帝国の始祖チンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。 正しく、新生児バープルは黄金の血筋の後嗣であり、時代はティムール帝国の再興を促す皇嗣を求めていたのである。
当時 ティムール帝国はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂していた。 ヘラート政権は名君主スルタン・フサイン(在位;1469-1506年)が善政を行い、サマルカンド政権はスルタン・アフマド(在位;1469-1494年)が執権していた。 サマルカンド政権は安定せず内紛が絶えない。 マー・ワラー・アンナフル(フェルガナ/サマルカンドが中核)東方を収める領主ウマル・シャイフに待望の皇嗣が誕生したのである。
ウマル・シャイフは祖父のアブー・サイードが樹立したサマルカンドの政権に属していた。 そのウマル・シャイフはフェルガナの西端に位置する要路、フェルガナ盆地の盛衰を左右する城郭都市の居城アフスィにて混乱するサマルカンド政権の推移を見守り、内紛を窺っていた。 居城アフスィから帝都・サマルカンドまでは広大な帝国の中では指呼の距離である。 時と状況次第ではサマルカンド政権を収握できる最適の地にウマル・シャイフは居城を構えていた。 新生児バープルを無事産み落とした皇后のクトゥルク・ニガール・ハヌムは臨月が訪れる前にアフスィ城から東方400キロのアンディジャン城に居住していた。 城砦に接して広がるムシュチュン湖の湖面後方に広がる丘陵の彼方に聳えるパミールの高峰やヒンヅゥークシュ山脈の雪嶺に春夏秋冬の美しさに浸る日々を過ごしていた。
バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。
バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。
バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。
バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。