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= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪4/4≫ =

“獅子”と名付けられたバーブル

ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出

〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する

食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し

愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル

・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。

この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・


= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪4/4≫ =


 父である第四代君主ウルグ・ベクに刺客を送って殺害したアブドゥッラティーフはティムール朝第五代君主として即位した。 1449年の事であるが、翌年の5月には父君の忠僕によって暗殺された。 彼は、スーフィズムの聖者、修行僧を保護し、私生活においても敬虔なムスリムであった。 父とは異なりイスラームの指導者層から支持を受けたが、しかし、将校の多くは彼に服しておらず帝国を運営する力量に不足しているものがあった。


 第3代君主シャー・ルフの子でファールス地方の支配者であったイブラーヒームの子であるアブドゥッラーはアブドゥッラティーフにより投獄されるが、彼の暗殺後支持者により釈放されて、サマルカンド政権の支配者となる。 ティムール朝の第6代君主(在位:1450年 - 1451年)と成った。 がしかし、翌年反乱を起こしたアブー・サイードに敗れ、処刑された。


 反乱を成功裏に収めたアブー・サイード(1424年- 1469年)は、第7代君主(在位:1451年 - 1469年)に推戴される。 彼は、初代君主ティムールの三男でアゼルバイジャン・タブリーズのアミールであったミーラーン・シャーの孫にあたる。


 アブー・サイードは、スルタン・ムハンマドの子としてヘラートで生まれ、ウルグ・ベクのもとで養育されるが、シャー・ルフの死後の1448年、ウルグ・ベクに対して帝位簒奪を試みる。 しかし、これは失敗しブハラで自立を図るもこれも失敗、サマルカンドにて投獄された。 しかし、ウルグ・ベクが長男のアブドゥッラティーフに暗殺されると、サマルカンド有力者によって救出され、1450年に再度反乱を起こす。


 ウズペグのアブル=ハイル・ハン=チンギス・カンの長男ジョチの第5子であるシバンの一族、ウズベク・ハン国の初代ハン=の援助を得てマー・ワラー・アンナフルを征服。 当時、サマルカンドは、アブドゥッラーが帝都の支配者となっていた。 しかし、アブー・サイードの帝都占領に伴い、アブドゥッラーは処刑され、アブー・サイードが、ティムール朝東部のサマルカンド政権の支配者となる。


 しかし、この時期のティムール帝国は東のサマルカンド政権と西のヘラート政権とに分裂する萌芽を宿していた。 アブー・サイードサマルカンドの安定を確立した後、アブル・カースィム・バーブルのヘラート政権と戦う。 また、アブル・カースィム・バーブル死後の混乱に乗じ、黒羊朝のジャーハーン・シャーと同盟し、アブル・カースィム・バーブルの息子のシャー・マフムードを追放したティムールの曾孫イブラヒムを破った。 その結果、彼の政権は安定する。


 1459年には、ヘラートを征服、ペルシャを東西でジャハーン・シャーと分割し、その後の1461年までにアフガニスタンの大部分も征服し、ウルグ・ベク以来サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール朝の再統合を成し遂げた。 アブー・サイードは優れた君主であり税制を改革し灌漑を行い農地を回復させ、内乱で疲弊した帝国のかつての繁栄と栄光を取り戻すために精力的に働いた。


 だが、1467年にジャハーン・シャーが白羊朝のウズン・ハサンに破れると、ジャハーン・シャーの息子たちを援助し、ウズン・ハサンと敵対する。 そして1469年、ウズン・ハサンとの戦いに敗れ捉えられるとシャー・ルフの曾孫で彼の政敵であったヤードガール・ムハンマドに引き渡され処刑された。 再び、帝都・サマルカンドは混乱の時を迎え、ティムールの血族が互いに覇権を競い合う時代に逆戻りした。 支配者は定まらない。 


 ホラーサーンとホラズムそしてヘラートはティムールの子ウマル・シャイフの曾孫にあたるフサイン・バイカラがヤードガール・ムハンマドを処刑して、政権を握る。 ヘラート政権を復活させたのである。 残されたサマルカンド政権の領域はアブー・サイードの4人の息子に分割相続された。 長男アフマドはサマルカンドとブハラ、そしてティムール朝の支配者の称号を相続し、次男のマフムードはバダフシャン、ハトロン、テルメズ、クンドゥーズ、ヒサールを相続した。 


 三男のウルグ・ベクはカーブルとカザニを確保し、四男のウマル・シャイフはフェルガナを相続した。 このウマル・シャイフとチャガダイ王家出身のクトルグ・ニガール・ハーヌムの間に生まれた息子が、後にムガル帝国を建国する“バーブル”である。


 1451年、シャー・ルフの兄ミーラーン・シャーの孫アブー・サイードが、中央アジアのトゥルクマーンとウズベクの支援を受けてサマルカンドを奪取、シャー・ルフ家の王子に代わって第6代君主に即位した。 アブー・サイードはイスラム教神秘主義教団のひとつナクシュバンディー教団の支持を獲得してその宗教的権威のもとにティムール朝を収握し、マー・ワラー・アンナフルの勢力を固めた。

 

 アブー・サイードは、1457年にはアゼルバイジャンで反乱が起ったためにヘラートを放棄して東イランに帰還せざるを得なくなった黒羊朝と交渉して、ヘラートを含むホラーサーンを始めとするイラン東部を返還された。 シャー・ルフ没以来の10年ぶりのティムール朝の単独君主となった。

 アブー・サイードの治世では、西武域での反乱や北方からのウズベクの侵入に悩まされつつも統一は保たれた。 しかし、1467年に小アジアのアゼルバイジャン方面でトゥルクマーンの白羊朝が黒羊朝を破って勢力を確立すると、これを東部イラン回復の好機と見たアブー・サイードは西方へと遠征を敢行した。 驕り高ぶる彼の出陣であったが、この親征中の1463年に白羊朝の英主ウズン・ハサンの軍によって大敗を喫し、殺害された。


 アブー・サイードの死後、その長男スルタン・アフマドがサマルカンドで即位するが、もはやマー・ワラー・アンナフルを確保するのが精一杯で、ホラーサーンではヘラートを本拠地とするティムールの次男ウマル・シャイフの曾孫フサイン・バイカラが勢力を確立していた。 こうしてティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権の分立し、互いに相克する時代に入る。


 サマルカンド政権ではウルグ・ベクの知事時代に繁栄の絶頂を極めていた都市文化が衰退に向かいつつあったが、ナクシュバンディー教団の権威のもとで安定が保たれた。 しかし、1494年にアフマドが没すると王子たちと有力な将軍たちとナクシュバンディー教団の教主たちの間で王位を巡る内訌が勃発し、さらに北方のウズベクの南下・侵入によってサマルカンド政権の支配は急速に崩壊していった。


 アフマド没後の6年後、サマルカンドはシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンによって征服され、サマルカンド政権は滅びる。 しかし、ティムール朝の血脈の後嗣たちは互いに政権奪回、王朝の復権を図った。 しかしながら、その動きはティムールの血脈として大同団結で北方のウズペクを排斥する戦いではなく、サマルカンド政権を継承しようとする後嗣たちが互いにいがみ合う状況を生んでいた。 事実、1500年にはアブー・サイードの孫バーブル(ウマル・シャイフの子)がサマルカンドを奪還するが数ヶ月で再びシャイバーニー・ハンに奪取され、中央アジアはシャイバーン朝に制圧されてゆく。


 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンにサマルカンドを蹂躙されたバープルは血族からも追われて、1504年6/7月にバーブルは少数の部下を率いてアフガニスタン方面に南下する。 一行はぼろぼろの衣服を着、野営のための十分な設備も持っていなかった。 老母と若い新妻に乳飲み子を抱えた逃亡であった。 移動中、ウズベクから逃れようとした多くのモグール人(モンゴル人)がバーブルの軍に合流する。 また、南下するバーブルの元にティムール朝ヘラート政権の君主フサイン・バイカラから防備の協力を求める親書が届くが、バーブルはシャイバーニーに対して攻勢に出ることを企てていたため、ヘラート政権との共同作戦を考えいなかった。


 バーブルは南方の陰険なヒンヅゥークシュ山脈を越え、アルグン部出身の領主ミールザー・ムキームが領有するカブールを包囲した。 ムキームは抵抗をすることなくバーブルに臣従とカーブルの譲渡を申し出る。 1504年9月にバーブルはカーブルを征服し、サマルカンド奪回の為のシャイバーニー攻略基地としカブールに腰を据えた。 カブールは開祖・ティムールが二度のインド親征に出向いた折の前線基地であった。 カブールから西行すれば、マザーリシャリーフ~ヘラート~カンダハールからガズニーに至る。 東に向かえばパキスタンのイスラムバードに抜ける。 東西の幹線路上の要所であり、北方はヒンヅゥークシュの雪嶺が連なり北東域はヒマラヤ西方のカシミール地方である。


 一方、ヘラート政権では40年近くに及んだフサイン・バイカラの治世のもとで安定を実現し、サマルカンド政権や白羊朝との友好関係のもと、首都ヘラートではティムール朝の宮廷文化が絶頂を迎えた。 しかし、平和の影でヘラート政権は次第に文弱化しており、1506年にフサインが死んだ後にはまったくその力は失われていた。 翌1507年、ヘラート政権は、サマルカンドから南下してきたシャイバーニー・ハンの前にあっけなく降伏し、こうして中央アジアにおけるティムール朝の政権は消滅する。


 その後の1511年、バーブルはイランの新興王朝サファヴィー朝・イスマーイール1世の支援を受けて再びサマルカンドを奪還するが、サファヴィー朝の援助を受けるためにシーア派に改宗していたために住民の支持を失い、1512年に再びサマルカンドを失った。 バープルは若すぎたのである。 彼は、13歳で家督を継ぎ、政権争いを勝ち抜いて14歳の折に主を失ったサマルカンドに入城し、1497年11月末にスルターンに即位していた。 しかし、サマルカンドでの治世は約100日で終わっていた。 そして、四年間の悪戦苦闘の末にサマルカンドを奪回したのだが・・・・・・


 


バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。

バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。

バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。

バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。


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