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= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪3/4≫ =

“獅子”と名付けられたバーブル

ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出

〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する

食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し

愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル

・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。

この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・


= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪3/4≫ =


 ウルグ・ベクは占星術に強い関心を持ち、占いを信じるようになっていた。 王権に関わる占いで自分の息子に殺されるであろうと言う結果が出た。 懐疑心で宮殿の後嗣達をみれば、側室ルカイヤ・ハトゥン・アルラトが生んだ子・アブドゥッラティーフが疎ましく、遠ざけるようになる。 その結果、次男のアブドゥルアズィーズを後継者にするように考え始めていた。


 サマルカンド総督となったウルグ・ベクは37年にわたってマー・ワラー・アンナフル地方を統治し、平和な時代が続いた。 ウルグ・ベクは原則的にはヘラートの君主シャー・ルフからの指示に従っていたが、シャー・ルフの指示に現れていない独自の政策も父には内密に実施していた。 彼は新しい貨幣を鋳造し、流通させて商業の発達が促進する。 


 文人・学者の保護者となったウルグ・ベクは、自身も優れた天文学者・数学者・文人であり、今日統治者としての事績よりも学者としての事績を高く評価されている。 ウルグ・ベクによって統治された帝都サマルカンドでは王族や有力者による建設事業が盛んに行われ、町に集まった多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果を挙げていた。 遠くギリシャやモロッコから人材が集まった。 ウルグ・ベクの治世はトルキスタン文化の黄金期と呼んでも誤りではない。


 その結果、ウルグ・ベク時代のサマルカンドにはティムール時代と同様の自由で享楽的な空気が流れ、美と人生の楽しみを好む性格と学術上の事績からルネサンス的な君主として君臨する。 しかし、イスラームの伝統に基づいた支配を敷いた父のシャー・ルフと異なり、ウルグ・ベクはテュルク・モンゴルの伝統に則った支配を志向した。 


 ウルグ・ベクは成吉思汗裔の人間を傀儡のハンに擁立し、傀儡のハンの名の下に命令を発した。 チンギス・カンの血を引かないウルグ・ベクはチンギス家の王女たちとの結婚によって血統を強化したが、この婚姻政策にはキュレゲン(娘婿)の称号を使用していた祖父のティムールの存在が色濃く影を落としている。 ウルグ・ベクはティムールと同じくキュレゲン(娘婿)の称号を用い、ウルグ・ベクが発行した貨幣にはウルグ・ベクとティムールの名前、キュレゲンの称号が刻まれていた。


 ウルグ・ベクによってサマルカンドのティムールの墓に軟玉製のセノタプ(模棺)が置かれ、セノタプには伝説上のモンゴルの王妃アラン・ゴアに遡る一族の系譜が刻まれた。 セノタプの素材となった軟玉は1425年のモグーリスタン遠征の際にカルシから持ち帰ったもので、かつてモグーリスタン遠征を行ったティムールがこれをサマルカンドに持ち帰ろうとしたが果たせなかったと伝えられている。 このように彼はティムール朝の復興を夢見ていた。


 因みに、破壊者であり建設者であったティムールの政策を模して、ウルグ・ベクの統治下ではマドラサ(神学校)などの公共施設が多く建築され、それらの施設には土地がワクフ(寄進財産)として寄進され、ワクフからあがる収益によって施設の維持と管理が行われていた。 ウルグ・ベクの建造物の中には後世に崩壊したものもあるが、サマルカンド、ブハラには彼の建てたマドラサが残る(ウルグ・ベク・マドラサ、ウルグ・ベク・マドラサ (ブハラ)。 また、ティムールの治世に建設が開始されたグーリ・アミール廟は、彼が完成させた。


 ウルグ・ベクはサマルカンド総督時代から中国の明に対してたびたび使節を派遣。 1439年にウルグ・ベクが贈った良馬は明の英宗に気に入られ、英宗は馬の姿を描かせて縁起のいい名前を付けたと言う。 更に、1449年にウルグ・ベクの派遣した使節が明の宮廷を訪れたが、この年にウルグ・ベクは殺害されたために彼が派遣した最後の使者となる。 因みに、英宗は土木の変でオイラトの捕虜とされ明も終焉の時を迎える。


 1447年、父シャー・ルフ(ティムールの四男)が反乱を起こした孫を討伐するために遠征したとき、3月12日にレイで陣没した。 サマルカンドでウルグ・ベクが即位する。 だが、国内に多くの王位請求者が現れる。 各地で王族たちの反乱が発生し、ウルグ・ベクの母のガウハール・シャードは孫(ウルグ・ベクにとっての甥)のアラー・ウッダウラを擁立した。 ウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに捕らえられた長子のアブドゥッラティーフを解放するため、彼と和約を結んだ。 取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される。


 そして翌年(1448年)にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利してマシュハドを占領する。 他方、正嗣子・アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功していた。 他方、ウルグ・ベクの遠征中に帝都・サマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。 ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移して帰国する。


 しかし、占領したヘラートがトルクメン人の襲撃を受けて破壊された時、ウルグ・ベクが国政の中心をヘラートではなくサマルカンドに据えたことを不服としていたアブドゥッラティーフは、駐屯先の城郭都市・バルフで反乱を起こした。 


 1449年秋、アブドゥッラティーフの軍はサマルカンドに接近し、ウルグ・ベクはアブドゥルアズィーズとともに迎撃に出るが敗北。 ウルグ・ベクは息子のアブドゥッラティーフに帝都・サマルカンドを明け渡した。 敗者の捕らわれ人と成ったウルグ・ベクはアブドゥッラティーフにメッカ巡礼を願い出て許される。 だが、サマルカンドを発った後にアブドゥッラティーフが派遣した刺客によって殺害された。


 占いが的中したのである。 後年の1941年にウルグ・ベクの墓陵から、彼の頭蓋骨のみが発見されている。 下僕奴隷を遣わして父を殺害したアブドゥッラティーフは、ティムール王朝第五代君主として即位した。

 

 王朝の開祖・ティムールが1405年に崩御して44年間に、ハリール・スルタン(第二代君主 1405年 - 1409年)、シャー・ルフ(第三代君主 1409年 -1447年)、ウルグ・ベク(第四代君主 1447年 - 1449年)と君主の変遷をみる。 この間、ティムール帝国は北方にジンギスカーン長男・ジュチ血脈が勢力を南方に拡大、サマルカンドを侵食して帝国内に勢力を拡大する。


 ティムール帝国を支えるべき政権は、アブドゥッラティーフ(第五代君主 1449年 - 1450年)、アブドゥッラー(第六代君主 1450年 - 1451年)と一年を待たずに崩壊して行く。 そして、サマルカンド政権とヘラート政権に分裂して行くのです。 バーブルがサマルカンド政権の後嗣として誕生するのは1483年。 ティムール帝国の落日期であった。


バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。

バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。

バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。

バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。


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