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= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪2/4≫ =

“獅子”と名付けられたバーブル

ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出

〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する

食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し

愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル

・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。

この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・


= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪2/4≫ =


 ジンギス・ハーンの継承者を自任するティムールは明国へのリベンジに東方遠征に親征 しかし、天山北麓を迂回する途上、例年にない酷寒に見舞われオトラルで病に倒れた。 病床の周りに集まった王子と貴族に、孫のピール・ムハンマドを後継者とすることを告げ、彼らに遺言を守ることを誓わせた。 時に、1405年2月18日 ティムールはオトラルで病没した。


 ティムールの三男でティムール帝国の西部域を統括していたミーラン・シャー=反乱を起こして謹慎中=の長男であるハリール・スルタンは、ティムール最後の遠征となる東方遠征には右翼軍の指揮官として参加して、タシケントに駐在していた。

 ティムールが没した当時、ピール・ムハンマドはカンダハールに駐屯していたために彼が帝都サマルカンドに帰還するには多くの日時が必要であり、ハリールはその間隙をついてサマルカンドに入城した。


 オトラル近郊に駐屯していたティムールの甥スルターン・フサインはティムールが没した報告を受け取るとサマルカンドに進軍し、オトラルのティムールの側近たちは密使を送ってハリールにスルターン・フサイン進行阻止を要請した。


 帝都に乗り込んだハリール・スルタンは財産の分配と引き換えに何人かのアミール(貴族)、サマルカンド知事のアルグン・シャーから支持を取り付けた。 買収したのである。 宝石・貴金属が納められた長持ち、各国の貨幣が入った袋、中国の絹織物、ペルシアの絨毯などの、サマルカンドの内城と首都に蓄えられていた莫大な財産がハリールによって接収された。


 そして、テュルクとモンゴルの慣習に従ってティムールの盛大な葬儀を執り行い、自らがティムールの後継者であることを強調した。 しかし、サマルカンドに入城したハリールは、生前にティムールから後継者に指名されていたもう一人の従兄弟ムハンマド・スルターンの遺児ムハンマド・ジャハーンギールを傀儡のハン(君主)に擁立する。


 ハリール・スルタンは祖父ティムールがチャガタイ・ハン国の傀儡のハンに対してとった手法を踏襲し、ムハンマド・ジャハーンギールの名前で勅令を発布する一方で貨幣や兌換証書に自身の名前を入れる。 ハリールはマー・ワラー・アンナフルを支配下に置くが、ホラーサーン地方を統治するティムールの四男シャー・ルフはティムールの遺言を無視した行動に反発し、帝国はハリールらミーラーン・シャー一門を支持する派閥とティムールの遺言を遵守するシャー・ルフの派閥に分裂した。


 当初 ハリール・スルタンはアゼルバイジャンに赴任していた父のミーラーン・シャーを王座に迎え入れようとし、彼の元に使者を送った。 しかし、ミーラーン・シャーはシャー・ルフの軍勢に阻まれてハリールに合流することができず、ハリールは母ソユン・ベグ=ジンギス・ハーンの長男・ジュチの血筋=の助言を容れ、自らがティムールの後継者になろうと考えるようになり始める。


 他方、ティムールの遺言を知ったピール・ムハンマドはマー・ワラー・アンナフルに進軍し、シャー・ルフと合流した。 1406年2月にハリールはカルシ郊外の戦闘でピール・ムハンマドに勝利を収める。 戦闘の結果ピール・ムハンマドの勢力はパルフに後退し、翌年2月にハリールは謀略を用いてピール・ムハンマドを殺害した。


 ハリールはアシーン・サイフッディーンの妻シャーディー・ムルクを妃に迎え、彼女を寵愛した。 国政には側近のシャーディー・ムルクの意向が強く反映され、シャーディー・ムルクは自分が気に入った身分の低い人間を重用し、ティムールの側近、未亡人、側室に敬意を払わなかった。 ティムールの遺言に背いた行動をとるハリールらミーラーン・シャー一門から離反する人間が増え、また飢饉によって民衆の不満も高まっていた。 


 東北部ではジャライル部族のシャイフ・ヌールッディーンがモグーリスタン・ハン国=バープルの母方=の有力者ホダーイダードと同盟して反乱を起こしており、オトラル、タシュケント等 重要な城郭都市が反乱軍の手に落ちる。 オトラルとスィグナクなどの西部地域はシャイフ・ヌールッディーン、アンディジャンなどの東部地域はホダーイダードの支配下に置かれ、ハリールは数度にわたって遠征を実施するが不成功に終わる。 


 ホダーイダードはシャー・ルフと連合してハリールを攻撃し、1409年3月にハリールはホダーイダードの捕虜とされる。 ハリール捕縛の報告を受け取ったシャー・ルフはマー・ワラー・アンナフルに向かい、1409年5月13日に主が不在のサマルカンドに入城した。 シャー・ルフの即位後、ハリールはイランのレイの総督に任じられ、二年後に任地のレイで没し、彼の死後にシャーディー・ムルクは短剣を首に突き刺して後を追ったと伝えられている。


 シャー・ルフは、1377年に初代君主ティムールの四男としてサマルカンドに生まれた。 彼が生まれる直前にティムールはチェスをしており、城/ルフ(Rukh)の駒で王/シャー(Shah)手をかけた時に、ちょうど四男が生まれた報告を受けた。 喜んだティムールは子に「シャー・ルフ」と名付けたと言う。 因みにティムールの楽しみはチェスと建物建造であったと言う。

 

 1405年、父のティムールが明遠征途中にオトラルで病死した。 ティムールは生前に嫡孫のピール・ムハンマド・ジャハーンギールを後継者に指名していたが、シャー・ルフとティムールの三男ミーラーン・シャーの子ハリール・スルタンは独立の意思を表し、2人の他にも帝位を窺う王族は多くいた。 


 こうした状況下でシャー・ルフはミーラーン・シャーとハリール・スルタンの合流を阻止、スライマーン・シャー、サイード・ホージャら反乱を起こした配下の貴族を討って地盤を固める。 他方、ピール・ムハンマドは配下によって暗殺され、ハリールが配下の反乱によってサマルカンドから追放された後、最後の有力者としてシャー・ルフが残った。


 虚を突いて、シャー・ルフは1409年5月にサマルカンドに入城を果たし、ハリールを廃位して即位した。 しかし、シャー・ルフは即位前からの居住地であったヘラートに住み、サマルカンドに入城した後も帝都の中核に居座ることなく1412年までに居所をヘラート宮殿からヘラート西北の「カラスの園」に移した。


 従来の帝都サマルカンドには息子のウルグ・ベク(シャー・ルフの長男、ティムール朝第4代君主)を総督に任じ、ベルグト部のシャー・マリクを後見人に据えた。 しかし、後見人シャー・マリクらを罷免した後はウルグ・ベクと国を2つに分けて共同統治を行う体制となった。 即ち、ウルグ・ベクはサマルカンド知事に命じられる。 これによりウルグ・ベクを統治者とする地方政権がサマルカンドに成立し、その支配期間は40年近くに及ん行く。 


 すなわち、サマルカンド(ティムール朝の中核)のウルグ・ペグ政権他方とシャー・ルフのヘラート中央政権が40年近くも並立して行った。 そして、ティムール朝第3代君主シャー・ルフは晩年にイラン高原で反乱を起こした孫を討伐するために遠征したとき、1447年3月12日にレイで陣没するのだが、正嗣のウルグ・ベクは占星術に強い関心を持ち、占いを信じるようになっていた。 ある日、王権に関わる占いで自分の息子に殺されるであろうと言う結果が出ていることを知った。 


 他方、サマルカンドを統治するウルグ・ベクは、幼少期にティムール第一の正室であるサラーイ・ムルクの下で養育されていた。 そして、10歳の折の1404年 帝王・ティムールの従姉妹であるエケ・ベグムとの結婚がティムールによって取り仕切られ有力な皇族に名を連ねていた。 ティムールの中国遠征にはウルグ・ベクも従軍しており、ティムール死後の内戦においてはシャー・ルフの部下のシャー・マリクとともにバルフ城砦と近郊の統治を命じられ、政権の地盤を固めていた。

 

 1419年にジョチ・ウルスの王族バラクがウルグ・ベクに支援を求め、ウルグ・ベクはバラクに援助を与える。 また、ウルグ・ベクはワイスとの内争に敗れたモグーリスタン・ハン国のシール・ムハンマドに援助を与え、バラクとシール・ムハンマドはそれぞれの国で君主の地位に就いた。 ウルグ・ベクは2人を通した間接支配を計画していたが、1426年にバラクはシル川中流域のティムール帝国領を占領して敵対し、シール・ムハンマドもウルグ・ベクに従属の意思を見せなかった。


 そして、1425年2月にウルグ・ベクはモグーリスタン遠征を実施し、同年5月にモグール軍に勝利を収める。 遠征軍は天山山中のユルドゥズ草原(バインブルク草原)に到達し、帰国したしている。 父シャー・ルフの与り知らぬことであった。 しかし、1427年にウルグ・ベクは君主シャー・ルフから派遣された援軍と共に北方のウズベク族の討伐に向かうが、敗北する。 


 シャー・ルフは遠征の失敗に非常に落胆し、一時はウルグ・ベクからサマルカンドの統治権を没収しようと考えていたといわれている。 ウズベク遠征の失敗以後、ウルグ・ベクは対外政策に消極的な姿勢をとるようになった。


 1447年にシャー・ルフがレイで陣没した後に各地で王族たちの反乱が発生し、ウルグ・ベクの母のガウハール・シャードは孫(ウルグ・ベクにとっての甥)のアラー・ウッダウラを擁立した。 同族のいがみあいが激化する。 ウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに捕らえられた長子のアブドゥッラティーフを解放するため、彼と口先の和約を結ぶ。 


 取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが、ウルグ・ベクは他の条件を履行しなかった結果、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの政権確立戦争は再開された。


 この戦いは、ウルグ・ベクが1448年にアラー・ウッダウラに勝利する。 ウルグ・ペグはマシュハドを占領した。 がしかし、アブドゥッラティーフは父が長年政局の中心にしていたヘラートの制圧に成功した。 他方、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドが北方のウズベクから襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。

 ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移すべく帝都に帰還する。


バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。

バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。

バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。

バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。


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