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♔ Ⅰ章_02節_02 フェルガナの領主ウマル・シャイフ ♔ 

“獅子”と名付けられたバーブル

ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出

〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する

食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し

愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル

・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。

この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・


 ♔ Ⅰ章_02節_02 フェルガナの領主ウマル・シャイフ ♔ 


ティムール朝晩期の英守アブー・サイードは波乱に満ちた生涯を送った。 彼は、バープルの祖父であり、1424年にスルタン・ムハンマドの子としてヘラートで生まれ、偉大な君主に成長するウルグ・ペグ(第4代君主)に養育される。 しかし、侵略で築いた帝国を世界に冠たる文化帝国に変貌せしめた第3代君主シャー・ルフの崩御が知らされると、各地で王族たちの反乱が発生し、アブー・サイードも反旗をかかげた。 だが、ウルグ・ベクの母のガウハール・シャードは孫(ウルグ・ベクにとっての甥)のアラー・ウッダウラを擁立した。 ウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに捕らえられた長子のアブドゥッラティーフを解放するため、彼と和約を結んだ。 取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される。


 1448年にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利してマシュハドを占領し、アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功した。 この時、アブー・サイードはウルグ・ベクに対して帝位簒奪を試みる。 しかし、これは失敗しブハラで自立を図るもこれも失敗、サマルカンドにて投獄された。 他方、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。 北方からのウズペグの侵略と内部で燻り続ける帝位簒奪を防ぐ戦略のため、ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考えた。 まず、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移して帰国する。 これによりウルグ・ベクを統治者とする地方政権がサマルカンドに成立し、支配期間は40年近くに及んだ。 しかし、ティムール帝国はヘラート政権とサマルカンド政権に分裂した。


 ウルグ・ベクは占星術に強い関心を持ち、占いで自分の息子に殺される結果が出た。 熟考の後に、彼は長男のアブドゥッラティーフを遠ざけるようになり、次男のアブドゥルアズィーズを後継者にするように考え始める。 ヘラートがトルクメン人の襲撃を受けて破壊された時、バルフに駐屯していたアブドゥッラティーフはウルグ・ベクに対して反乱を起こした。 1449年秋にアブドゥッラティーフの軍はサマルカンドに接近し、ウルグ・ベクはアブドゥルアズィーズとともに迎撃に出るが敗北、幽閉される。 ウルグ・ベクはアブドゥッラティーフにメッカ巡礼を願い出て許されるが、サマルカンドを発った後にアブドゥッラティーフが派遣した刺客によって殺害される。 1449年10月29日のことであった。 他方、ウルグ・ベクに投獄されていたアブー・サイードはサマルカンド有力者によって救出され、1450年に再度反乱を起こす。 また、ウズベクのアブル=ハイル・ハンの援助を得てマー・ワラー・アンナフルを征服。 サマルカンドを占領し、アブドゥッラーを処刑し、ティムール朝東部のサマルカンド政権の支配者となった。


 アブー・サイードはその後アブル・カースィム・バーブルのヘラート政権と戦う。 アブル・カースィム・バーブル死後の混乱に乗じ、黒羊朝=イラク北部から東部アナトリアを経てアゼルバイジャン、イラン西部に広がる遊牧地帯を支配したテュルク系のイスラム王朝=のジャハーン・シャーと同盟し、ティムール帝国中央部に勢力を張るシャー・マフムードを追放したティムールの曾孫イブラヒムを破る。 そして、彼は1459年ヘラートを征服、ペルシャを東西でジャハーン・シャーと分割し、その後1461年までにアフガニスタンの大部分も征服し、ウルグ・ベク以来サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール朝を再統合を成し遂げた。 アブー・サイードは優れた王であり税制を改革し灌漑を行い農地を回復させ、内乱で疲弊した帝国のかつての繁栄と栄光を取り戻すために精力的に働いている。


 しかし、1467年にジャハーン・シャーが白羊朝=チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラム王朝=のウズン・ハサンに破れると、ジャハーン・シャーの息子たちを援助し、ウズン・ハサンと敵対する。 1469年、ウズン・ハサンとの戦いに敗れ捉えられたアブー・サイードは、シャー・ルフの曾孫で彼の政敵であったヤードガール・ムハンマドに引き渡され処刑された。 享年46歳。 ティムール朝の第7代君主としての在位は18年間に及んだ。


 彼の死後、ホラーサーンとホラズムそしてヘラートはティムールの子ウマル・シャイフの曾孫にあたるフサイン・バイカラがヤードガール・ムハンマドを処刑しこれを確保、ヘラート政権を復活させた。 残されたサマルカンド政権の領域はアブー・サイードの4人の息子に分割相続された。 長男アフマドはサマルカンドとブハラ、そしてティムール朝の支配者の称号を相続する。 次男のマフムードはバダフシャン、ハトロン、テルメズ、クンドゥーズ、ヒサールを相続した。 三男のウルグ・ベクはカーブルとカザニを確保し、四男のウマル・シャイフはフェルガナを相続した。


バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。

バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。

バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。

バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。


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