♔ Ⅰ章_02節_01 ホジェンドのアフスイ城 ♔
“獅子”と名付けられたバーブル
ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出
〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する
食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し
愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル
・・・・・・・・・・・1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。
この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・
♔ Ⅰ章_02節_01 ホジェンドのアフスイ城 ♔
乾燥した空っ風がオアシス地帯を脅かし、砂塵を舞い上げる。 小石をも天空に舞い上げる。 緑で覆われていない漠々の地表は常に小刻みな変化を起こしている。 中央アジアの多くの地は砂塵に脅かされている。 しかし、パミール高原北西、イシク・クル湖を抱き込んでタシケントに向かう山並のモコルダウ山脈とパミール南西域から西に延びるヒンヅゥークシュ山系トルキスタン支脈に挟まれるフェルガナ盆地に吹く風は吹きぬけるのみである。 厳冬期には肌を刺す寒風ではあるが、悪さわしない。 ただ、「風の街」と言う異名を盆地中央部に位置するコーカンド市街に残して、春夏秋冬 空っ風は東方のパミール高原に去る。
東方の富を求めて旅する隊商がフェルガナの丘陵地帯を西走して、パミール高原に分け入る。 また 東方で求めた絹や漆器や玉をラクダの背に満載した隊商が西方の砂漠とオアシス地帯に足を向けてフェルガナ盆地を出て行く。 草原に覆われるフェルガナ丘陵地帯(盆地)の出入り口がホジェンドである。 この町の北側をシルダーヤ川が西方に流れる。 シルダーヤ川の町の東西6キロは深く切れ込むゴルジュ(溪谷)である。 東端の上流には大きな湖・カイラカム湖があり、市街西端のザルト・トッカイ辺りよりゴルジュを抜け出たスルダーヤ川は扇状地を形成している。 本流はモコルダウ山麓に沿って、山脈舌端のベガバードに至っている。 この村落より北上すれば120キロでタシケント、西に220キロで帝都・サマルカンドであり、ベガバードとホジェンドはシルダーヤ本流から南に2~3キロ離れた街道を30キロ歩行する距離である。
カイラカム湖を離れたスルダーヤ川は、大きく南北に蛇行を二度繰り返してポジェンド市街の北縁を流れる。 市街地中心の対岸、スルダーヤ川が北に蛇行する北端、モコルダウ山脈の岩稜が迫る台地にアフスイ城がある。 この辺りの両岸は深く切れ落ちる断崖を形成している。 天然の要塞であろう。 逆V字型に蛇行するスルダーヤの逆V字頂点右岸にアフスイ城が堅牢な城壁を東西に広げて建つ。 城正門の正面には上部は切り落とせる特殊構造のアーチ橋が架けられている。 特殊の構造を有する橋梁が逆V字の両端にも設けられていた。 元来、ホジェンドの造営は、紀元前6世紀の古代、アレクサンドロス大王はこの地にギリシャ人の入植地を建設したことに始まる。
中央アジア方面に侵攻したアレクサンドロスは反乱を起こしたスピタネスを中心とするソグド人の激しい抵抗にあい、ソグデリア(フェルガナ丘陵地を後背にサマルカンドを中核とする地方の古名称)とバクトリア(アムダリア川上流、サマルカンド南東地域の古名称)との過酷なゲリラ戦を3ヶ年も強いられる。 紀元前328年、アレクサンドロスはバクトリアの有力者・オクシュアルテスの娘ロクサネを妃に迎えてバクトリアを懐柔、ソグドをパミールに追いやった。 しかし、北方の抗戦的遊牧民・スキタイがタシケントから侵略を窺っていた。 アレクサンドロスは部下の将兵とバクトリアの民との婚儀を奨励し、また ギリシャからの入植者を奨励する。 そして、ホジェンドに新しい入植地を建設し、アレクサンドリア・エスハテ=最果てのアレクサンドリア=と呼んだ。
ホジェンドのアフスイ城はバープルの父ウマル・シャイフの居城である。 フェルガナ盆地の中心であるコーカンドへ125キロ、更に西走すれば250キロで中央アジア第二の交易都市・アンディジャン。 したがって、コーカンドはホジェンドとアンディジャンの中間点に位置し、アンディジャンはパミール東方の要衝・カシュガルとの中間地点でもある。 アンディジャンから東南方向の要衝・オシュへは約60キロ。 また、アンディジャンの西北西65キロにナマンガン村落があり、シルダーヤ川が北東のイシク・クル湖方面に遡上する本流とアンディジャン方面から流れ来る支流カラダリヤ川が合流する。
バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。
バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。
バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。
バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。