= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪1/4≫ =
“獅子”と名付けられたバーブル
ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出
〝パーニーパットの戦い“で火器を用いて像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する
食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し
愛する正嗣が病に倒れれば 神の前に己の命をささげた文人・バープル
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1494年6月、バーブルが数えで12歳(満11歳)の時、父のウマル・シャイフ・ミールザーが、フェルガーナ中部にあるその居城アフスィで鳩小屋共々シル河の谷底に転落して死去するという事故が発生した。 ウマル・シャイフは時に39歳であった。 このため12歳のまだ少年に過ぎなかったバーブルは、フェルガーナ東部のアンディジャーンで父のティムール朝フェルガーナ領支配者としての位を継いだ。
この事故の直後、バーブルの亡父の兄、つまりバーブルのおじに当たるティムール朝のサマルカンドの君主スルターン・アフマド・ミールザーがサマルカンドから、またバーブルの母の弟、つまりバーブルのやはりおじに当たるモグールの君主スルターン・マフムード・ハーンがタシュケンドから、それぞれ別々にフェルガーナヘと来攻した。・・・・・・・・・・
= プロローグ 【洪統の血筋】 ≪1/4≫ =
ムガル帝国は、1526年から印度南部を除くインド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム教を信奉する帝国の一つである。 ムガル帝国開闢の祖はバープル。 中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフ・ミールザーを父、ジンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするモグースタン・ハン家の王女クトルグ・ニガール・ハーニムを母とするチュルク・モンゴル系の遊牧貴族バーブルが始祖とし、現在のアフガニスタンからインドに移って建国した侵略王朝である。 12世紀から近代まで中央アジアにおいて、ジンギス・ハーンの“黄金の血統”・【アルタン・ウルク】が脈々と継承されて諸王国を継承して来た。 その血脈がインド亜大陸に流入して開闢したのである。
ムガル帝国は、1526年から印度南部を除くインド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム教を信奉する帝国の一つである。 ムガル帝国開闢の祖はバープル。 中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフ・ミールザーを父、ジンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするモグースタン・ハン家の王女クトルグ・ニガール・ハーニムを母とするチュルク・モンゴル系の遊牧貴族バーブルが始祖とし、現在のアフガニスタンからインドに移って建国した侵略王朝である。 12世紀から近代まで中央アジアにおいて、ジンギス・ハーンの“黄金の血統”・【アルタン・ウルク】が脈々と継承されて諸王国を継承して来た。 その血脈がインド亜大陸に流入して開闢したのである。
王朝名の「ムガル」とは、モンゴル人を意味するペルシア語の「ムグール(モゴール)」の短縮した読みであるムグル/Mughul_ムガル/Mughalが転訛したもので、 このことからムガル(ムガール)朝とも言われ、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるのだが、これは飽くまでも他称である。
ムガル帝国では 最後の君主・バハードゥル・シャー2世の治世まで一貫してティムール(初代ティムール朝君主)を家祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティムール・グーラーカーン」(成吉思汗家より子女の降嫁を受けたその娘婿であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自他称の尊位名で一族の長を呼んでいた。 ちなみに ジンギス・ハーンの西征以来ムガル帝国の成立まで、蒙古人によって インダス川流域やカシミール地方が度々侵入を受けたが、インドの諸政権は領土的な支配を許していなかった。
1494年6月 バーブル=名前の「バーブル」は虎(百獣の王)を意味する=は、父ウマル・シャイフ・ミルザー(フェルガナ地方の領主、享年39歳)の他界で家督を譲り受けている。 弱冠11歳であった。 バープルの生地・アンデイシャンは 当時中央アジア全域を通じ サマルカンド、ケシュにつぐ三番目の都市であり、当時 ティムール帝国はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂していた。 ヘラート政権は名君主スルタン・フサイン(在位;1469-1506年)が善政を行い、サマルカンド政権はスルタン・アフマド(在位;1469-1494年)が執権していた。
1494年 ティムール朝・サマルカンド政権初代君主・スルタン・アフマドが死去するまでは サマルカンド政権は平穏だったが、彼が死去するとたちまち後継者をめぐって内紛が起こった。 サマルカンドはティムール帝国内における“京都”のような立ち位置を占めており、この帝都での政権確立がティムール帝国の継承政権として諸侯から擁立される。 1494年 スルタン・アフマドの長子・スルタン・マフムード(在位;1494-1495年)が政権の座に就くが、翌年に死亡し、第二子・バインスングル・ミルザ(在位;1495-1496年)が18歳で政権の座に就いた。
ところが バインスングルの重臣たちが進める人事政策がヒサール地方を重視し、サマルカンド゛出身者に冷や飯を食わせると諸侯が反目した。 ダルヴィシュ・ムハンマド・タルハンという有力者が中心になって バインスングル・ミルザの弟・スルタン・アリー・ミルザを君主に迎い入れ 反乱を起こした。 サマルカンド政権は、ひとたび スルタン・アリー・ミルザが手に入れる。 だがしかし、再び バインスングル・ミルザ(復位;1497年)が政権の座に登った。
バインスングル・ミルザとスルタン・アリー・ミルザの兄弟同士の政権争いで、帝都サマルカンドの住民は家を失い 食糧は略奪され大変不安定な状態に陥った。 この混乱に乗じてバープルが兵を進めたのである。 1496年6月の事 バープルは13歳だった。
因みに、ティムール朝は中央アジアのマー・ワラーーアンナフル(現在のウズベキスタン中央部/筆者が彷徨った地域)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイラン高原にかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年-1507年)。 その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン(現在、新疆ウイグル自治区/中国)、南東インダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。 創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれる。
王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテユルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。 ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。
これらは最終的に16世紀初頭にウズペグのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われる。 が、ティムール朝の王族の一人バーブルはカブールを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。
バープルが世に知られる前のティムール帝国の帝都・サマルカンドは、殷賑を極めた“青の都”であったが、いつしか その活気を無くしていた。 抑圧者にして破壊者であった跛のティムールがこの“青の都”の建設者である。 彼は征圧した各地から工芸人・職人や文化人をアムダリヤ川の支流であるサラフシャン川河岸のこの地に呼び集めて帝都・サマルカンドを建設したのである。 バープルの行動の背景を理解する意味で、ティムール帝国を俯瞰しておかねばならない・・・・・・。
サマルカンド城都の中央部にはティムールが建立したビービー・ハーヌム・モスクが聳え立つ。 モスクの外壁は高さ167メートル、幅109メートルである。 壮大な構えである。 モスクのキューポラ(円形屋根)の高さは40メートルであり、入口部分の高さは35メートルである。 中庭には大理石を嵌込する大規模なイスラム教の聖典・クルアーンのスタンドがある。 インド征服の際に、彼が持ち帰った貴石が惜しみなく使用されたモスクである。 礼拝を呼びかける尖塔は50メートルの高さを誇っている。
この城塞都市であるティムール帝国の帝都サマルカンドは、ステップ気候から中央アジアの砂漠性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から“青の都”と呼ばれている。 しかし、帝都は混乱していた。
アブー・サードはバープルの祖父に当たり、バープルはミーラーン・シャー(王朝の創始者であるティムールの三男)の玄孫である。 1396年までの間ミーラーン・シャーはティムールが実施する遠征に毎年従軍し、1393年から彼はアゼルバイジャン総督に任命され、この地で善政を敷いていた。 彼は、ティムールの子孫の中で最年長者であり、チンギス家の王女ソユン・ベグを娶っていることからティムールの後継者を自任していた。
しかし、ティムールがインド遠征から帰還して間もなく、ミーラーン・シャーはティムールに対して反乱を起こした。 落馬によって精神に異変をきたしたことが遠因なのだが、インド遠征(1398-1399年)から凱旋したティムールは孫のムハンマド・スルターンを後継者に指名した。
ミーラーン・シャーは父である帝王ティムールの決定に反発した。 ティムール帝国西部の諸侯も彼に同調し、反乱の炎が燃え立つ。 七年戦役と呼ばれる西方での軍事行動が開始されたのである。 しかし、反乱は鎮圧され、ミーラーン・シャーは統治権を取り上げられる。 血族を重んじるティムールは帝国の西部をミーラーン・シャーの息子に分配した。 ハリール・スルタンにアルメニアとグルジア、ウマルにアゼルバイジャン、アバー・バクルにイラン西部とクルディスターンの統治を命じ、ミーラーン・シャーはアバー・バクルに同行して、帝都に帰還を命じられた。
西部域を鎮圧したティムールはアナトリア半島のオスマン帝国をも制圧・蹂躙した後、明朝が治める中国への遠征計画を再開する。 中国遠征の準備は西アジアでの征服事業が一段落した1397年末より進められており、この遠征は異教徒に対する「聖戦」と位置付けられた。 当時ティムールの元に亡命していた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就けて全モンゴルへの影響力を有する意図があった。
遠征を前にしてティムールは国内の有力者とサマルカンドの全住民を招待しての大規模な孫の結婚式を開き、同時に罪人たちに刑を下した。 式が終了する前になり、全ての貴族の前で亡くなったムハンマド・スルタンの弟であるピール・ムハンマドを後継者とすることを宣言した。 1404年11月27日にティムールはサマルカンドを出発して東方遠征に向かう。
この年は気候が悪く、1月にサマルカンドから400キロ離れたオトラル=ジンギスカーンの因縁の城郭都市=にようやく到達することができたものの、ティムールは病に罹っていた。 配下から寒さで士気の下がった兵士のために宴会を開くことが提案され、3日におよぶ宴会が催された。 ティムールは病身にもかかわらず酒を飲み続けたがついに倒れ、死期が近づいていることを悟った。
病床の周りに集まった王子と貴族に、孫のピール・ムハンマドを後継者とすることを告げ、彼らに遺言を守ることを誓わせ、1405年2月18日にティムールはオトラルで病没した。 亡くなる直前、「神のほかに神は無し」と言い残して・・・。 香水と香料がかけられたティムールの遺体は装飾された担架に乗せられ、密かにサマルカンドに搬送された。 しかし、ティムールの死を知った王族たちは、ピール・ムハンマドを後継者とする遺言に背いて王位を主張する。 この反発の中、病没してから5日後、ティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に安置された。
蛇足ながら、1941年にソビエト連邦のミハイル・ゲラシモフらの調査隊によってグーリ・アミール廟のティムールの遺体の調査が行われた。 ティムールの棺には「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていたが、棺の蓋は開けられて調査が実施された。
さらにゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、解読した結果「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という言葉が現れた。
調査から2日後、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始し、ソ連に侵入した。 1942年11月のスターリングラード攻防戦でのソ連軍の反撃の直前に、ティムールの遺体はイスラム教式の丁重な葬礼で再埋葬されたと史実にある。
バーブルは文学と書物を好み、征服先の土地に所蔵されている書籍を接収した。 また、自然に対しても強い好奇心を持ち、動植物に対する詳細な記述を書き残した。 カーブルに建設した庭園の1つであるバーグ・イ・ヴァファーには、インドで採取したバナナの木やサトウキビが植えられた。 バーブルはインドの人間・自然に好ましくない印象を抱き、中央アジアの果実、氷、水がないことを歎息した。 多くの金銀を蔵する点、多種の職人が無数に存在する点には好意を持っていた。
バーブルには自慢好きな、やや短気な面もあった。 ある時バーブルは馬を引いてきた従僕の態度が悪いと腹を立てて彼の顔を殴りつけたが、薬指の付け根を脱臼してしまった。 その後3か月間字が書けず、弓も引けない状態が続いた。 時折残忍な性格も覗かせ、インド遠征の際に敵対するアフガン人の首を切り、首の塔を建てることが数度あった。
バーブルはアーイシャ・スルターン・ベギムの異母妹であるマースーマ・スルターン・ベギムと恋に落ち、1506年の冬にヘラートで彼女と結婚した。 マースーマ・スルターン・ベギムは娘を産んだ後に亡くなり、バーブルは彼女が残した娘に母親と同じマースーマという名前を付け、溺愛した。
バーブルは早い段階から長男のフマーユーンを後継者として考え、生前に臣下にフマーユーンに王位を継承する意思を伝えていた。 1520/21年にバーブルは当時13歳のフマーユーンをバダフシャーンに総督として派遣し、息子を気遣ってフマーユーンの生母であるマーヒム・ベギムとともに任地まで付き添った。 パーニーパットの戦いの前にフマーユーンが初陣を飾った時の様子を、誇らしげに書き残している。