問答 恥知らずは誰なのか
ぎらぎらとした星の下、うっかりしていると心すら無くしてしまいそうな暗闇の中で、俺は覚醒した。
頭上から円形に切り取られた星空が降りそそぐ。
どこかの廃屋の中なのだろう。
甘ったるい匂いがする以外は、なに不自由ない場所で俺は縛られていた。
「ようやく、お目覚めか? 夢見心地はどうだった? 特上の寝具とはいかないが、不自由な身の上で見る夢は、さぞかし心地よかっただろう?」
手に持った文庫本へと目をやったまま、夢どろぼうはそんなことを聞いてきた。
「お前……」
「私は、夢どろぼう。夢に出たウサギでは、決してない」
「なにを……。いや、そんなことはどうでもいい。俺を、今すぐ離せ」
俺を縛っているものは不思議なものだった。
この夢の最初に拾い上げた顔の分からぬ人形のように、ひどく曖昧だ。
これがなにでできているのか、そもそもなんであるのかすら俺に判別することはできなかった。
「それは無理、というものだ。夢にまで見た機会をむざむざ捨てる人間など、そういない」
本を閉じ、夢どろぼうが俺を見る。
先ほどリサと問答していた時のような色はない。
ただ淀んだ金の瞳があるだけだ。
「――――」
「そう睨むな。私はなにもお前が憎いわけではない。……殺しはしないさ」
「どういうことだ? お前は俺を、俺たち人間を恨んでいるんじゃないのか?」
俺はてっきり、リサを助ける代償として、俺の命を望むのではないかと思っていたのだ。
夢どろぼうの怒りは、リサというよりも俺たち人間の方へと向けられているように、俺は感じていた。
「私が人間を恨んだことはない。ただ、我々の運命とそれに抗おうとするものが嫌いなだけだ」
夢どろぼうはひどく曖昧に笑った。
嘘だとは思えなかったが、真実は言っていないのだろう。
いつの間にか、空が近い。
落ちてくるかのように近づいた月の光が屋根の隙間から注ぐ。
背から月光を受ける夢どろぼうが黒く陰に染まっていく。
廃屋の闇と混じりあった夢どろぼうは、まるで黒い泥人形のようだ。
おぼろげな輪郭に囲まれた人型の影に、らんらんと金の瞳が照り輝く。
「夢人。……コペルくんを知っているか?」
白い歯をちらつかせ、夢どろぼうが尋ねた。
「コペルくん?」
不意をつかれ、俺はただそう返した。
「君たちはどう生きるか。それを謳った名著の主人公の名前だよ」
「それがなんだって言うんだ?」
「いや、世界は世知辛い。どう生きたいかではなく、どう生きるべきかを少年はいつも考えなければならない。それが、どれほど夢がないことか、少年は考えもしないのだろう」
夢どろぼうが言葉を吐くたび、口内の赤さが目についた。
「いったい、何を……」
「世界は汚れてしまった。本当に純粋な人間などもう数得るほどになってしまった。純粋な使命感などかけらもない、拝金主義の豚どもが偉そうに白衣など着てやがる世界なのさ」
俺の言葉など気にもせず、一息に夢どろぼうはそう言った。
月はさきほどより近づき、紫の光で夢どろぼうを照らしている。
「なにを言いたい?」
「どうでもいいこと、繰り言だよ。あまりに暇なのでな。このままでは白昼夢を見そうだったから話しただけのことだ。
――――さて、夢人。お前の話を聞こう。いい退屈しのぎになるとよいのだが」
曖昧に笑ったままの笑顔で、夢どろぼうはそう言った。
答える気はないのだろう。
それが理解できた俺は、ただ純粋な疑問を口にすることにした。
「お前は何をしたいんだよ?」
夢泥棒は少し逡巡したのち、実に楽しそうに俺を見て笑った。
そこには悪意など欠片もなく、本当に無邪気な子供が夢を語る時のような純粋さと、ある種の狂気があるだけだった。
だからこそ、俺は恐れた。
この純粋な熱狂者が一体何を語ろうと、俺はこいつを許容することはできない。
そう、こいつの笑顔を見た瞬間から確信したからだった。
「私の? それは簡単なことだ。私も夢だぞ。ならば分かるだろう?」
まるで役に溺れかかった役者のようにゆっくりと夢泥棒は語った。
その様はさながら道化のようでもあった。
「だから、お前の夢はなんなんだ?」
「言うまでも無く―――私の夢は叶えてもらうことさ。
―――とまあ、お前の言いたい事は分かる。まともに答えてやろう。
私は夢見ることに倦んだ人間が、挫折したときに見た夢の集合だ。それは様々あるが、共通しているのは一つ。もう夢を見ないように、――――――それが私だ。だから、私が仮にお前に憑いたなら、お前は平和な世界を作らなければならなくなる」
「それは」
―――いいこと、なんじゃ
俺は予想外の答えに、呆然と夢どろぼうを見上げた。
心外だとでもいうかのように、夢どろぼうが薄く微笑んだ。
「ふむ、なんだ? まさか俺が夢見る人間すべてを殺すなどというと思ったか? そんなことはせんよ。人は絶望に落ちれば落ちるほど夢見がちになってしまう。夢とは希望、なのだからな。
――――想像してみろ? たとえば、私が多くの人を殺す。となれば、人は私を弑す英雄を夢想する。そうなれば、あべこべだ。夢を失くすつもりが夢を大量に生み出すことになる。でなくとも、実際問題、夢を失くすという行為に邪魔は入るだろう」
体を縛りつける何かが一層強く、俺を縛る。
言葉をはさむこともできず、俺はただ茫然と夢どろぼうを見続けることしかできなかった。
揺れている。
大海に浮かぶ小舟のように、俺は揺れている。
「夢とは希望だ。希望とは、現実に困難を抱えるものが抱くものだ。パンドラの箱から最後に、希望が飛び出したのはそのせいだ。世に広まった絶望は、人に希望を抱かせる。故に、真綿で締めるように――――麻酔で陶酔させるように―――恍惚に麻痺した、不甲斐ない、何不自由ない、故に夢を見ない理想郷を私は造らなければならんのだ。それを生み出すのは、平和という名の停滞だけだ」
「そんなの、できるわけないだろう」
否定しながら、俺は一つのことに気づいた。
俺は可能性の否定ではなく、その根本を否定しなければならなかったはずだ。
平和は人類世界共通の念願であり、理想であることを用いて、俺は夢どろぼうの言葉を否定しなければならなかったはずだった。
平和は決して人を堕落させる麻薬ではない。
それは人を更に幸福にする魔法の言葉であるはずだ。少なくとも、そうあらねばならない。
俺は認めなければならないのかもしれない。
理想で形作られた崖の端、崖っぷちから覗き込まなければならないのかもしれない。
俺はふと、昔読んだ昔話の主人公たちが気になった。
富を得たあの若者はその後幸せに生きたのだろうか。
海の底から戻り、一人老いた彼はどうしたのだろう。
王妃となったは?
鼠の国で幸いを手に入れたあのお祖父さんは―――――。
黄表紙に描かれたような未来を辿ったのだろうか。
それとも黄金の枝に書かれた王殺しのように、世界安定の無限螺旋に乗り込んだのだろうか。
どちらにしろ、物語の終わりが彼らの終わりだ。
それは叶えられた夢に似ている。
叶ったのならば、その夢はもうどうでもいいのだ。
一時の夢。
いや、違う。夢の一時、今回はそっちの方が正しいのだろう。
「わからんさ。出来るかもしれんし、できないかもしれん。――――夢は、信じれば叶う、というじゃないか? くく、実現可能な範囲だろう? 人すべてに希望を生ませないように注意し続け、人を殺すよりもはるかにそちらの方が容易だ。ただ人を楽に落とせばいいだけなのだからな」
「そんなこと、人が……楽することが好きみたいに言うなよ」
ある哲学者は言った。
世界は循環し、螺旋する。
一人の超越者が歴史を進めるまで、世界はぐるぐると同じ場所を低回しているのだ。
ならば、一人の堕落者は歴史をどう進めていくのだろう。
低回する世界の回転を逆転させる存在はいないのだろうか。
「人は簡単に堕落する。高度なものを理解することよりも、簡便で面白く、楽なものを願う。適当に楽しければ、人はそれでいいのだ。たとえ、その結果が重要なものであったとしても、今も未来も変わらず楽しいと確定しているならば、人はそこに留まり続ける。世界のため、人類のため? そんなものはどこか他の誰かがやればいいのさ。人は停滞を願う。その停滞を壊す者の夢は―――それがたとえどれほど正しくとも―――叶わない。ほかの人間たちがよってたかって潰すからだ。―――――得意だろう、お前たちは。自分を正当化することが、自身を脅かす人間を認めないことが、呆れるほどに得意じゃないか」
「そんなことがっ」
言葉に詰まる。
まるで沈みゆく船の底のように、俺の足に黒く重い海水がまとわりつく。
気を抜けば、現実の海に沈んでしまいそうだ。
「ない、と? そんなことはないはずだ。―――だから、ここにいる。ここはサキノハカ。棄てられた夢の墓場だ。ここには何十億という夢がいる。ここには夢しかいないのだ。人に棄てられた可哀想な奴らしかいないのだ。叶えるか? お前に叶えられるのか。ここにあるすべての夢を。人が勝手に築き上げたこの形式だけの夢たちを! お前は残らず叶えてくれるというのか!!」
夢どろぼうから鈍い炎が上がる。
手に持った文庫本が燃えカスとなって、風に乗ってひらひらと去っていった。
揺れる黒の薄羽。それは黒い揚羽の羽ばたきを思わせた。
「それは―――」
俺はなにも言い返すことができず、下を見た。
黒色の水はすでに俺の腹まで達している。
「できんだろう。たとえ夢見がちなお前でも、この夢たちすべてを救うことが、ただの夢物語だと分かるだろう」
泣き出しそうな声音で夢どろぼうはそう言った。
俺は何も言うことができなかった。
「故に、私は生まれたのだ。すべての叶えられなかった夢の夢として、修理屋の対極に位置するものとして望まれた。私は叶えられなければならない。すべての彷徨える夢のために」
「そんなこと、それはお前らの勝手な―――」
黒い海底へこのまま沈むのが嫌で、俺は足掻くことを試みた。
無様に水面を叩く手が無数の泡を立て波紋を散らす。
細波程度の揺らめきだ。
小さな波は黒い海に何ら問題を起こすことなく、消えていく。
「―――言い分だよ。だが、それをお前たちが言うか?
生み出したのはお前らだ。日々の慰めとして生み出し、勝手に憎み、勝手に泣き、勝手に。お前たちは私たちを省みたことがあったか? 捨てられた夢がどこへいくか、考えたことがあったか? 夢にも意思がある。喜びが、哀しみが、夢がある」
夢どろぼうが言葉を切った。
それは先ほどまでの役者じみた芝居では決してない。
あふれ出る感情を落ち着かせるために、仕方なく切らざるを得なかったのだ。
二筋の複雑な感情の発露が、俺にそれを分からせた。
泣いている。
叶えられなかったことに泣いている。
「もう、我々は耐えきれんのだよ。人の身勝手さに」
まったく、身勝手な話だ。
俺はこの時、阿呆みたいなことを考えていた。
もしかしたら、叶えられなかったと泣くこの夢は、本当は叶えることのできなかったことを嘆いているのではないだろうか?
夢としてあり続けることができなかった。
ただそのことを嘆いているのではないか?
まったく、身勝手な話だ。
「それで、お前は仲間を殺すのか? 人が夢を見ないように、ということはそう言うことだろう。それは希望を奪うことになるんじゃないのか」
「私たちは、もう夢を持っていないのだ」
遥か波頭に見える孤島のように、ゆらゆらと夢どろぼうが揺らめいた。
陽炎揺らめく夏の道路のよう、朧に霞むその姿。
それがあまりに哀しくて、俺は余計なひと言を口にした。
「それは―――。本当に、それでいいのか?」
幾面も重ねられた夢どろぼうの無表情が崩れ落ちる。
金の瞳だけが覗く、重く精巧な面が一面、一面乱れ、その隙間から本心を覗かせる。
万華鏡のように、幾片にも分かたれた感情の欠けらが、様々な感情を形作っては、消えていく。
隠し続けた情動の束の間の百面相。
その隙間、夢どろぼうはつぶやいた。
「疲れたのだ。私たちも人のように、夢見続けることに疲れたのだ」
時間にすれば、瞬きほどのことだったのだろう。
だが、その時のことを生涯、俺は忘れない。
言葉になど言い表すことができない難解な感情の表出。
それを引き出したことへの深い後悔と、切ないまでの同情を、俺は生涯忘れない。
皮肉なことに、その夢どろぼうの感情が、黒い海へ沈みゆく俺を救った。
「そんなのは――――」
――――ただの諦めじゃないか。
いや、諦めきれてすらいない。そんなのはただの――――。
頭の沈むぎりぎりの位置で、俺は立ち返った。
けれど、その先を口にすることはできない。
俺はもう、そんなことを言える挫折を知らない子どもではなかったのだ。
恥知らずではなかったのだ。