夢は泡沫のように
「畜生っ! 東雲の奴! せっかくの夢人を!」
リサたちが白い霧の中へと消えた後、一人荒野に残された黒づくめはそう毒づいた。
それはもうなに度目の屈辱に――――失敗になるのだろう。
途方もないほどの数の失敗があった。
元々、ギャング映画を見たとき、ふと生まれた夢なのだ。
一瞬人々を楽しませ、泡のように消えていく。
ふわふわと空を漂い割れていくシャボン玉のような存在だ。
事実、彼のような存在はシャボンと呼ばれていた。
石鹸水という簡素なものを材料に、実に簡単な方法で大量に生み出され、次の瞬間には消えてゆく。幾億も現れ消えていく泡沫の夢。
その泡沫が叶えられることなど、それこそ夢のようなお話だ。
だが、それでも――――。
「諦めきれるか! 諦められるかよ」
口角に泡を浮かべ、彼は力いっぱい叫んだ。
彼は人間を知らない。
己を気まぐれに生んだ人間も、誰も知らない。
気づけば、サキノハカに来ていたからだ。
だから、彼は知らない。
己がなぜシャボンと呼ばれ、己がどのように生み出されたかを知らない。
だから、叶えられることを諦めない。
彼は夢なのだ。
己が、東雲や博士のような強い夢でないことは理解している。
己が些少な夢なのだと知っている。
だが―――にも関わらず―――彼は生まれた。
それは誰かが彼を願ったことに他ならない。
ならば、己は願った誰かを待ち続ければいい。
彼がどれほど些少であろうとも、彼を願っている者がいるならば―――
――――きっと、俺はいつか叶えられる。
「夢が、夢見るか。なんと哀れだ」
の耳に、低い声が響く。
今まで聞いた声の中で、もっとも落ち着いた声音だった。
その声はひどく彼の神経を苛立たせる。あまりに落ち着き過ぎているのだ。
「誰だっ!!」
彼は大声で叫んだ。
視界はいつの間にか、先ほどまでの牛乳をこぼしたかのような濃い白色に覆われてはいない。
広がるはただ真黒な空。
申し訳程度に、転々と星が光っている。
ゆらりと、なにかが蠢いた。
「夢どろぼう。そう呼ばれている」
黒い空間からのっぺりと姿を現す。
袈裟と法衣を纏い、手には錫杖。
頭髪は綺麗に剃られ、その下の頬はこけている。
穏やかさなど欠片もない鬼気迫るものだけがそこにはあった。
まるで、死神のようだった。
「ゆめどろぼうっ」
彼はこれでもかと目を見開く。
冷や汗が一筋顎を伝う。
落ちた汗が熱砂に溶けて、水煙を数瞬残して消えていく。
サキノハカで決して会ってはならないもの。
それが夢どろぼうというだった。
「そうだ。私は夢どろぼう。お前らを救う者だ」
「はっ! そりゃあ、夢にも思わないお誘いだ。お前が俺を叶えてくれるっていうのか? ありがたいことだが、おことわりだ!」
甲高い音を立てて、黒づくめの銃が宙を飛んだ。
引き金を引こうとした黒づくめの銃を、夢どろぼうが錫杖で弾き飛ばしたのだ。
「聞こえなかったか? 私は叶えるではなく、救うと言ったのだ」
「救い? そんなのはお断りだね。説法ならどっかべつの場所でやるんだな。俺たちにとっちゃあ、お前は悪夢の類なんだよ!」
「ほう。それは夢聊かにも思わなかった。安心しろ、苦しいのは一瞬だ。
すぐに夢見心地にしてやろう」
「ぐああああ」
夢どろぼうの錫杖が、彼の腕を深々と突き刺した。
赤い血潮の代わりに迸るは光の粒。
それは異様なほどあたたかだった。
まるで掬いあげた銀砂のようにさらさらと音もなく、ただ痛みだけを残して大気へと溶けていく。
「てめぇ」
脂汗を滲ませながら、彼は夢どろぼうを睨んだ。
「なにを怒る? 私はお前を救うのだ。感謝されこそすれ、そんな風に睨まれることはないのだが、な!」
「ぐ、おおお!」
幾度も幾度も鋼鉄製の錫杖が、黒づくめの肉を抉った。
その度に血にも似た、けれど決定的に異なるなにかが彼の体から抜け落ちていく。
「や、やめろ。俺には、まだ見果てぬ、夢が……」
腕を力一杯天へと伸ばす。
いつのまにか、空はまばゆいばかりの星で覆われている。
チカチカと光る星の洪水。吸い込まれそうだ。彼は思った。
「見果てぬ夢などただの悪夢にすぎん。これでお前は救われる。一生叶えられぬのだ。待ち続けるのは辛かろう? その苦しみから、私が救ってやる」
「い、一生叶えらねぇ、なんて……誰が言った。俺は、夢だぜ?」
――――夢は叶えられるためにあるものだ。俺を叶えてくれる夢人もきっとどこかにいるはずだ。
体から力が抜け落ちるのを感じながら、なんとか彼は口にした。
それは夢として生まれた彼のたった一つの意地であり、信じ続けてきたものだった。
「……幸せな夢だ」
そう呟いた夢どろぼうの顔にはなにもなかった。
哀れみも、嘲りも。
怒りも、悲しみも。
憧れも、諦めも。
なにひとつとしてそこにはなかった。
ただひどく疲れた色をした金の瞳があるだけだ。
「……まさか」
彼は戦慄し、そして、すぐさま否定した。
――――まさか、いや、だが、それでも、やはり、けれど。
浮かび上がってくるいくつもの感情を、疑問を、確信を。次々に消しては捨て、消しては捨てた。
けれど、彼を見る金色の眼差しが、それを完全に捨てることを許さない。
考えないようにしていた。
見ないようにしていた。
なぜ自分がシャボンと呼ばれ、なぜ自分と良く似た奴らがこの場所にはたくさん溢れているのか。
「嘘だ」
自分は夢だ。
誰かによって望まれ、今も誰かが叶えたいと願っている。
いつか努力した人間が、自分を叶えにやってくる。
夢とはそういうものだろう。
夢は願い続け、努力し続けていれば、いつかきっと報われる。
そのはずだ。そう信じてきた。
「叶わない夢もある」
ひどく落ち着いた声だった。
まるで夢見る子どもを相手どる老人のように、ひどく落ち着いた――――諦観にまみれ切った達観した男の声だった。
『なあ、坊や。その夢の先にはなんにも、なんにもないんだよ』
冷酷な言葉だ。
だが、夢どろぼうはただ事実を述べただけなのだろう。
金の瞳は変わらず疲れた色をたたえているだけだ。
そこには他になにもない。
――――知りたくはなかった。叶わない夢があるなど、叶えてもらえない夢があるなど、知りたくはなかった。
「……俺は……叶えては、もらえないのか?」
彼の頬を涙が伝う。暗く輝くにぶ色の涙だった。
夢どろぼうは答えない。
ただ疲れた瞳で彼を見るだけだ。
黒づくめは弾かれた銃を拾い上げた。
――――自分は割れてしまった。
「叶わない夢に、一体なんの価値がある?」
怨嗟でもなく、哀しみでもなく、怒りでもない。
ただ湧いてきた純粋な問いを、彼は口にした。
その声に重なって、のように軽く短い音が一発響いた。
「それが分からぬから、苦しいのだ」
夢どろぼうは呟いた。
その呟きをかき消すかのように、一陣の風が走り抜ける。
ゆらゆら揺れて、先ほどまで誰かが被っていた帽子が空へとさらわれた。
黒い空へ黒い帽子が呑まれ、消えていく。
夢どろぼうはなにもなかったかのように歩き出した。
地を搗くたび、錫杖の音が星空の下、木霊する。
それはまるで誰かにあてた鎮魂歌のように、どこまでも、どこまでも遠く響いていくように思えた。