東京悪魔の悪魔のささやき 後篇
急に斎藤の言葉を思い出した。お前は、恋をしていると。ッ笑止!
「あの、どこかで会ったことないですか? こんな印象的な人、一度見たら覚えてると思うんだけどなぁ」
王者は頭痛を抑えるかのように額に人差し指の腹を当てて目を閉じる。眉間の皺がより深くなる。
「飯田橋の食堂ではないか? 俺はお主がかつ丼をかっ食らうのを見たぞ それとも上野公園の大道芸人か」
「そう言われてみると、どっちでも見たような気がします」
なんと。俺が上野にいるのと同じ時に王者も上野にいたのか。その時に復讐をしてやれなかったとは残念だ。
「あー、上野公園でそういうしゃべり方の芸風なのね。なるほどなるほど」
紙風船から空気が漏れるようなため息を漏らす。
「お互い、仕事では苦労しますね」
死に顔のような顔を少しゆがませ、自嘲的な笑みを浮かべた。
「なにかあったのか?」
言葉を発するかどうかを考える余裕すらなく、言葉が先に飛び出していく。王者の持つ、俺から平常心を奪う特殊な力のせいだ。
「んん? 聞くと体に毒ですよ?」
「構わん」
「いや、なんだか仕事が嫌で嫌でね。なんでこんなに嫌なのかは自分でもよくわからないんですけど、仕事の他にはなにもしない人生がこんなに辛いのは、仕事のせいなんじゃないかって思い出したら、それまで普通にやってた仕事が辛くて辛くて」
抑揚のない声。
「おい、お主」
「あ、松田と申します」
「松田とやら、それでいいのか。俺は貴様を飯田橋の食堂で見た時のことが今でも鮮明に思い出せるぞ。女でありながらあのような男ばかりの食堂にやってきて周囲の目も気にせずかつ丼をかっ食らうその省みない威風堂々とした態度」
「だって、あそこのかつ丼好きなんですもん」
ですもん。半ば開き直った口調と些細な表情の変化、俺の何かがますます燃え上がる。
「それでよいのだろう。それが、松田だろう。お主らしさだろう。周囲の目を気にすることもなく、かつ丼が好物ならばもっと高級なかつ丼を食せばいいというのにあの食堂のかつ丼にこだわる。ありとあらゆる選択肢を持ち、己の赴くままに選択をする。それは自由であるということだ。世の中には、女だからそんなことをするべきではないという偏見が満ち、女は女らしく洒落込まねばならぬと焦燥する女が山ほどいる。己の食事でさえもステータスとして、ネットで見せびらかす輩もいる。高級品を消費することが己の経済力のアピールになると派手に散財したがる人間共も、自分で自分の選択の幅を勝手に狭めている。お主は、それらに縛られて選択肢を消したりはしないで行動をすることが出来る。松田という人間は、人より自由な人間なのだ。俺は敬意を払う」
タバコの先が火に浸食されて短くなっていく。あれが俺の残り時間のように思えて、焦りがどんどんと加速していく。
「だから松田は、その数多の選択肢の中から自分はこれが良いというものを選んで自由にしておればよい。自由でいる姿が松田には似合う。だから俺は食堂で見た松田をまだ鮮明に覚えているのだ」
松田はため息のような笑い声の後
「上野公園にやたら流暢な日本語でツンデレべた褒め漫談をする外国人大道芸人がいるって知ったら、観に行っちゃうかもしれない。なんだかさっきよりはマシな気分になれました、と」
と言う。なんだ、妙に心地よい気持ちになるぞ。まるで人間共の断末魔の叫びを聞き続けているようだ。路傍の小石ほど俺とは無縁の人間から聞きたいのは断末魔だが、俺が松田から聞きたいのは断末魔ではなく、その言葉の一つ一つだというのか? それが王者の王者たる所以なのか?
「さてと、また人の皮をかぶった魑魅魍魎の世界に戻るとしますか。まぁ、また会うことがあったらツンデレべた褒め漫談、聞かせてくださいよ」
王者は弁当を包んで大きく伸びをし、体の関節をポキポキと鳴らした。
「俺の言葉が漫談に聞こえるのならばそれはもう責めぬ。聴きに来るがよい。それで満足ならばいくらでもな。俺は四谷で働いておる。新宿御苑でひたすらに瞑想していることもある。恵比寿のバーで飲んでいることもあれば、上野で大道芸人をしていることもある。こうやって麹町で弁当を食うこともある。俺はいつでも東京のどこかにいる。いつでも俺の悪の説法を聴きに来い」
そうだ。松田に悪魔の囁きを聞かせ続け、俺がこの女を悪の道に引きずり込んでやればいいのだ。そうすれば、松田も堕落し、『貴賤なき時の王者』としての威厳も失うことになるだろう。松田が俺の話を聞きたいとは幸いだ。自ら崖に向かって歩みを進める無知な子羊の如く。俺は松田をどうにでもできる。松田をどうにでもしたい俺からすればまさに渡りに船、地獄にアイアンメイデンだ。
「それでは、失礼します」
「そうか。俺の名はヴェル。ヴェルフェゴールだ。覚えておくがよい」
返事の代わりに軽く手を振り松田は公園を去った。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、思い出したように携帯電話を取り出し、斎藤を呼び出した。
「どうしたヴェル。俺は宮崎に旅行中なんだ、邪魔をしないでくれよ」
「自由にも貴賤があるとは思わなかったな。貴様の自由は松田のそれと比べて下賤だ」
「松田?」
「前に話したであろう。『貴賤なき時の王者』のことだ」
電話の向こうで斎藤が大きく動揺するのが雑音になって伝わってくる。
「ヴェル、お前どうやったんだ! 名前を知ることが出来たのか!」
「松田だ。巡りあわせで共に公園で飯を食らった」
「やったじゃないか!」
「俺は彼奴の前では、俺が俺でいられなくなるようだ。言霊を普段通り扱えぬ。やはり、これが恋というものなのか」
「そうだ。それが恋だ」
「そうか。厄介なものだな。俺の感覚を狂わす」
山手線どころか東京どころか本州さえ抜け出した斎藤に腹を立てつつ電話を切り、人間共の文明を根こそぎ吹き飛ばすような大きなため息をついた。
「ただの一匹の人間如きを、特別な強敵と思ってしまう。これが、恋か」
労働とは、社会と一個人とのギブアンドテイクの形である。
しかし、資本主義の呪いがかかっている以上、金を稼がない人間よりも金を稼ぐ人間の方が全うであると言わざるを得ない。資本主義の呪いをより一層強くする世間体という名の呪いだ。働かざる者食うべからず。現在の日本でも、このスローガンは健在だ。労働をせず金を稼がないということは社会に貢献しないということだ。社会に貢献しないということは、社会の祝福を得られず世間体を失うということだ。そして資本主義の呪いがかかっているこの日本で、職を失い、収入の経路が断たれるということは、金で人の貴賤を計るこの日本の下層に位置しなければならないということを意味する。社会が人間共を牛耳るこの世界において、人間にそのペナルティはあまりにも過酷だ。このことに気付いたのは、松田と初めて話した翌月、飯田橋で安いうどんを手繰っている俺の前にスーツではなく若干垢抜けた服を着て、目は僅かながら生存している人間のそれに近くなった松田が現れた時だった。
「仕事を辞めました。またお話聞かせてくださいよ」
「待て。仕事を辞めただと?」
「ヴェルさんが松田は自由の方が似合うって言ったんで踏ん切りがつきました。本当に辞めたいと思っていたんですよ。ありがとうと言った方がいいですか?」
「金はどうする! 稼がなくてもよいのか!」
「心配性なんですね。ここ数年ずっと働いてただけで使い道もなかったんで貯蓄はしばらく暮らせるくらいは。しばらく自由に過ごして、また今度は生きがいを感じられる仕事を探しますよ」
松田。貴様、それは社会からのペナルティの資本主義の呪いと世間体の呪いを一気に引き受けるということに他ならぬぞ! とは、以前と比べてあまりにも生き生きとしている松田に水を差すようで言えなかった。俺が彼奴にこんな過酷なペナルティを受けさせてしまった。この女を悪魔の囁きで怠惰な悪の道に引きずり込み、王者としての威厳を奪ってやろう画策した間違いなく俺だ。人を唆すことが悪魔の使命だからだ。しかし、今はそのことを後悔させる罪悪感が俺の心の色を塗り変えていく。
このままでは、松田は社会に押しつぶされてしまう。ならば、せめて俺は松田を他のものから守らねばならぬ。こいつは俺の獲物なのだから。
「この後、お時間があったら、ツンデレべた褒め漫談、聴かせてくださいよ。結構クセになりそうで。コーヒー好きですか? ちょっと気になってたお店があるんで、ゆっくり聞かせてください。他に友達もいないですし」
どうした、その甘えたような態度は。以前の威風堂々とした『貴賤なき時の王者』の面影はどこにある! 再び、俺の中で何かが燃え上がる。
「よかろう。コーヒーは好きだ。コーヒーは俺によい体験をくれる」
恋とやらに脳にジャミングをかけられた俺は一気にうどんをかき込み、箸を卓に叩きつけて店を出た。
「結構距離ありますけど、ダイエットで散歩するにはいい距離なんで。漫談の方もダメだしとかも付き合いますから、芸の肥やしにしてください。お代は持ちますよ。なにせ、使い道がなかったから、貯金はたっぷりですから」
慣れていないのかニタニタと薄気味悪い笑みで店とやらに歩みを進める松田を追う。俺は柄にもなく自責の念を感じたり、生まれて初めて自ら反省しているというに、足取りは軽く、何故か幸福が心の中で燃え上がる何かと同居していた。
しばらく歩き陸橋が日の光を遮ると、俺の足は突然に石のように固まり、全身が鎖で縛られたように重くなった。
「おのれ、貴様」
今の燃え上がっているものが何かと問われればすぐに答えられる。怒りだ。目を斜め前方に向けると、一本の陸橋の上を緑色の電車が横切った。
「山手線め。やはり、俺を逃がさぬか……」
俺の異変に気付いた松田は振り返り、俺に近づいて心配そうな顔を向けた。
「大丈夫ですか? 体調が悪いんですか?」
「唐突だが、これから、行こうとしていた店は、どこにある?」
山手線の聖なる力によってまともに喋ることすらままならず、途切れ途切れの言葉を絞り出す。
「人形町の『アンティーク水原』って店です」
「人形町」
素早く頭の中で地図を開く。人形町。畜生。山手線の外側だ。
「すまぬ。今日は行けぬ。また別の機会にしてもらえると助かる」
前に進もうとすると、全身が重いだけではなく苦痛が骸をついばむハエのように襲いかかってきた。おのれ、聖なる鉄の輪、JR山手線よ!
「今日は付き合えずに申し訳ない。悪いが今日のところはお引き取り願おう」
「はぁ、じゃあ、連絡先教えておきますんで」
と手際よく手帳にペンを走らせ、そのページを破って俺の手に握らせる。
「すまぬ」
「しょうがないですよ。調子悪いなら、しばらく見てましょうか?」
「遠慮してもらおう」
なんとか後ずさりし、山手線から距離をとって苦痛から逃げる。
「心底すまぬと思っている」
「いえ。では、また」
松田の姿が見えなくなったところで俺は感情を爆発させた。
「俺が一体何をしたというのだ! なぜ俺は生まれながらにして山手線に囲まれねばならなかったのだ!」
秋葉原に俺の叫びがこだまする。俺は生まれて初めて怒りで涙を流した。
「俺は決して貴様を許さんぞ山手線! 決して、決して許さん!」