東京悪魔の悪魔のささやき 前篇
東京という街には人間どもの頭髪でも足りぬほどの多くの肩書があふれている。学生と社会人、花形に縁の下の力持ち、日本人に外国人。営業、技術者、経営者、公務員、フリーランス。それらの数えきれない肩書が細胞のように集まり、各々の役目をはたして東京という街は機能し、一つの社会を形成している。花形と縁の下の力持ちに象徴されるように、それぞれに求められているものや他者からの印象に差異はあれどどれも不可欠な細胞であることは言うまでもない。生まれは等しくても、生後与えられ、あるいは自ら望んだ役をこなすことを宿命づける、社会という存在。保険制度があることからも鑑みることが出来るように、社会は社会に貢献する者を守ろうとする。その庇護を受けるために人間たちは社会に貢献する。働く、ということは働いている一個人と、その他大勢、言い換えるところ社会とのギブアンドテイクの形なのである。
「あとはファミチキだ。支払いはPASMOだ」
蛇の鱗のような緑色のパネルの上に、貨幣を代用品の札をピッと音がするまでかざすと、666円と表示され、皆等しく同じ衣を纏った奴隷が濁った透明の袋を俺に差し出す。
殺した鶏の死体を解体して油で揚げたもののかぐわしい香りが鼻をくすぐり、早く俺の血肉にしてくれと誘う。それに応えるべく麹町まで少し歩いて煙草の瘴気が充満する手ごろな公園を昼食の場に誂えた。
俺は1時間×8を手離して労働をしてやることで賃金を得ている。上野公園で大道芸をすることもある。労働の義務を果たし、人間共が形成する稚拙な構造に現時点で俺は組していると言える。
「な、あやつは……」
俺が遭遇したのは、懇意にしている飯田橋の殺安食堂でかつて遭遇した高き経済力と身分を持つ女だった。食事に要する時間の短さと値段の安さを追求した食堂で、煉獄の如き熱さで口の中を焼かれ最も時間がかかると推察されるが、決して高級とは言えず手軽ではないという難易度の高い450円のかつ丼を注文し、俺が120円の素うどんを食べるよりも早く胃の状態も省みずにそれを平らげた女傑である。貧しくないのであれば、かつ丼が好物であるのならばもっと高級なたたずまいの店で時間をかけてゆっくりかつ丼を食べるという体験を購入すればよいと俺は一人憤慨したが、その女はSuicAに10,000円チャージし、たかが煙草1箱のために10000という非常に美しい数字の並びを9570に崩すことさえ厭わない経済力を持っていた。その金銭による貴も賤もただ己の欲求に応じて選択して時を過ごすことのできる王者のような威風堂々とした自由さに敬意を払い、俺は『貴賤なき時の王者』と一人呼んでいた。たかが一匹の人間如きに後れをとるわけはいかないと俺は躍起になり同じ土俵に立つべく煙草を吸い始めあらゆる方法で『貴賤なき時の王者』に追い縋ろうとしたが、考えれば考えるほど恐怖にも似た感情が蘇り、俺の体を蝕んだ。そして、俺には『貴賤なき時の王者』に俺の生きざまを見せつけ俺を動揺させたことを後悔させてやろうとする機会すら一度も訪れていなかったのである。そう、今の今まで。
『貴賤なき時の王者』の奴は骸のような生気を感じさせないような目とひっかき傷のような細い眉、遺灰色の背広からふてぶてしさを全身から放ちながら公園に侵入し、ベンチに腰かけて小さな包みの荷をほどく。
「クッ!」
手作り……弁当!
ラクダの肌色の短い箸の先でつままれているのは、既に自らが弁当のおかずの中で最強最大の正義であると主張せんばかりの卵焼きである。
『貴賤なき時の王者』の頭越しに弁当を覗き込むと、禁断の果実プチトマト、裂ける大地のような紅鮭、地獄の岩石を連想させる芋の煮ものが転がり、隅には柱のようにホウレンソウの茎が収まっている。弁当界のウリエル、ラファエル、ガブリエル、メタトロンとでも呼ぶべき完璧すぎる布陣をけん引し、我こそが大天使ミカエルだとばかりに輝く日の丸。まさに弁当の黙示録だ。
「お、おのれぇ」
王者と呼ぶにはいささか質素な弁当の顔ぶれではあるが、さすが王者と称賛を浴びせるのが妥当である王道の組み合わせでもある。改めて恐怖を思い知っているのか、それとも王者の覇気か、俺の平常心がまたも大きく揺さぶられていることは否定の仕様がない。
それを悟られないように割り箸を冷やし中華に突き刺して巻き付け、絡んだ麺だけを口に運ぶ。
『貴賤なき時の王者』は弁当を一通り口にすると、肩から提げた動物のなめし皮の袋から一本のペットボトルを取り出した。
美麗茶……ッ!
垣間見える、女が本来生まれ持つ本分を全うするために美しくあろうとする力……女子力とでも呼ぼうか。その圧力が俺を襲う。心臓が慄いて悲鳴を上げている。ダメだ、この女の前では俺はもうダメだ。敵わない。あまりにも己が道を往く王者の覇気を前に平常心を保つことが出来ない。もっと見ていたいとさえ思える。
茶を一口飲んで弁当をかっ込んだ『貴賤なき時の王者』は今度は鞄から煙草を取り出した。白いパッケージのウィンストンだ。そして鞄の中に煙草をぶちまけないようにするためか箱を輪ゴムで固定している。些細な気遣い。
「はぁ」
箱を輪ゴムで固定するまでの細心な性格でありながら、何故ライターを忘れるのであろうか。ため息をつくぐらいなら家を出る時に確認しろ。俺の心の中で何かが燃え上がる。
「使うか?」
気が付いた時にはスッとポケットの中の自分のライターを『貴賤なき時の王者』に差し出していた。王者はピンポン玉に墨を一滴ずつ落としたような色彩に欠ける目で俺の拳と顔に目をやった。
「ありがとうございます」
生気を失った声で王者は応え、俺の拳からそっとライターを抜き取り、くわえた煙草に火をつけた。一瞬俯いた際に露わになった、眉間に寄った皺が脳裏に焼き付いた。





