東京悪魔はbarにいる。
東京という街は、おそらく日本で最も多くの店がある街である。店とは、金銭やそれに準ずるものを代価に払い、支払った代価に値するものを提供する施設であり、流通の末端であると同時に資本主義という名の亡霊の巣窟でもある。
かつて愚かな人間共が世界を舞台に『冷たい、戦争』なる悪魔的所業を繰り広げていた際、その『冷たい、戦争』の主役となっていたアメリカとロシアは、己の所有する兵器の威力や国力を相手に見せつける際に実験と称した花火を打ち上げ、その派手さと大きさを競い合っていた。相手が大きな花火を打ち上げれば自分たちはより派手で大きなものを、とその規模を釣り上げて。
東京における店同士の争いにも似たものを感じてしまう。例えば喫茶店一つをとっても、ライバルの店がウェイトレスの服をメイド服にするサービスをしたのなら、我々の店はウェイトレスは皆メイド服にした上に猫ミミをつけてやる、参ったか! と派手にする。すると、なんだとぅ、ならばウチの店は全員浴衣だ! となり、なぁにぃ!? なら当店ではメイドさんといちゃいちゃできるようにしてくれるわ! こうなってしまうと、もはや喫茶店の喫茶店たる珈琲や茶の嗜みを提供するという喫茶店のレゾンデートルははるか後方に置き去りにされる。喫茶店の最前線は珈琲や茶の嗜みではなく、如何に整ったシチュエーションであるか、ということになる。やはり、今も昔も争いが絡むと人間共は争うことだけに熱しすぎて本分を見失う傾向がある。
メイド服を着てポン引きをする若い女どもを哀れと眺めながら、俺は呟く。
愚かなり、人間共。
「だが、的を射ていることは否定できまい」
カランコロンと贄の羊の首に下げられたベルのような音と扉を潜り抜けると、薄暗い店内にはタバコと酒のにおいが充満していた。
簡単な例え話だが、イギリスとはつまり英吉利であり、英国であり、U・Kである。この中ではイギリスが最もよく使われる呼称である。次に英国。英吉利の呼称を使うものはどこか気取った言い回しと、自国の歴史を築いた男たちの浪漫や許されることのない恋を好む者共。U・Kも同じくいけ好かない。なぜいけかすかなく感じるのか。それはイギリスだろうと英国だろうと英吉利だろうとU・Kだろうとそれらが意味するものは同じものであるからだ。ならば最も使われているイギリスと言えばよい。それ以外は気取りだ。
しかし、バーはどうだ。バーと居酒屋を同じものと捉えていいのか? 洋風か和風か。客層は。コンセプトは。当然、U・Kとバーでは固有名詞か普通名詞かという違いはあれど、バーの方がより高貴で気品を感じさせることは言うまでもない。
そして高貴で気品あふれる俺が好むのは当然、バーである。
バーと居酒屋の違いとは何か。その値段、コンセプトの違いはもちろんだ。しかし、ハイネケンを頼めば出てくるのは同じハイネケンだろう。店による違いがあることは否めないが基本的には同じ、酒である。違いとは、体験なのだ。時の貴賤を計る方法はいくつもあれど、余暇の時間の貴賤を計るのに最も適しているのは体験である。
仮に同じものを食す場合でもドブのにおいに包まれた路傍と、人間共が資源を消費して作った夜景を望むホテルの最上階では違った情緒がある。情緒を売ることが店と店の違いなのだ。その情緒の価値の高めあいが、メイドだの戦国だのという奇襲攻撃の仕掛けあいに発展してしまったのが喫茶店。競うべき点としての目の付け所は悪くないと言えるだろう。及第点をつけてやってもよい。
ならば俺や、あらゆる点で俺には多少劣るものの吸血鬼と人間のクォーターである斎藤はどんな体験や情緒を好むのか。言葉少なだが口がうまく、手際よく酒を作る壮年の男の頭と、20代半ばの見目麗しいがどこにでもいそうでしかし手出しは出来ないような隙の無さを持つ女を一人働かせている恵比寿のバーである。
認めたくはないが、この隠れ家のような居心地のよい店で、コキュートスから切り出した氷を人間共の血液に浮かべたようなカシスオレンジを飲むと、ついその店構え、従業員共、料理の三位一体で俺を襲う想像を絶する素敵体験に口元が綻んでしまう。良い店では、より良い体験ができるのだ。
「素晴らしい。この店だけは見逃してやってもよいだろう」
「ほほぅ、ご満悦だねぇ外国人のお兄さん」
「何奴ッ」
俺が声を槍の先のようにとがらせて目をやると、くたびれた服に墓場の墓標を上空から眺めたような短い無精ひげを生やした中年の男が一人、この世の終わりのラッパの音を聴いてしまったと言わんばかりの絶望の色が見て取れる笑みを浮かべてロックグラスを傾け、宝石の如く澄んだ氷を弄んでいる。
「随分と達者だなァ、色白の御仁よ」
「貴様、何者だ!」
「おいおぃ、喧嘩はご法度だろう? 俺ァ、人には理解できない人種よ」
せせら笑いを浮かべ、詐欺師のような男は続けた。
「人間共には理解できない人種だと?」
「そうとも。俺ァ魔法使い」
魔法使い……だと? 魔術を使うことが出来るとでもいうのか、この聖なる鉄の輪、JR山手線に囲まれたこの東京の地で!
「妄言だ!」
「じゃあ、一つお見せしましょうか」
と、男は懐から取り出したトランプを俺に渡し、一番上のカードを確認させた。ハートのエースだ。それを男には見せずに束に戻し、男がカードを切って一番上の札をめくるとハートのエースだった。
「……く、確かに切ったではないか! 随分な手品ではないか。タネがあるにせよ、それを悟られずにやってのけるとは……。俺が貴様に劣るだと!」
「手品じゃございやせん。俺は魔法使いですからねぇ」
「俺をなめるな魔法使い! ならば飛んで見せよ! しかる後ホグワーツに帰れ!」
魔法使いはふふ、と気の抜けた笑みを浮かべ、再びグラスを傾けた。
「俺はもう飛べないのさ。病が俺の体を蝕んでいる」
「ほう、仕事をしているようだな、『疫病』のやつも」
「疫病とはちと違うな。俺の体を蝕んでいる病は、痔だ」
痔? 笑い上戸の斎藤の奴がいればもう腹を抱えてのた打ち回っているだろう。笑い上戸とは、相手の面目も考えずにところかまわず笑い転げる無礼者のことだ。俺にはまだ礼儀がある。仮に相手がほら吹きの魔法使いでもだ。
「貴様、痔で箒にまたがれないのか」
「大きい声で言わなでくださぁい」
ますます頭を抱えねばならない。悪魔は山手線に捉えられ、魔術師は痔で箒にまたがれない。誰が邪悪の式典の音頭を執るというのだ。しかし、箒にまたがれなくとも本当に魔術師ならば、この山手線の聖なる力に打ち消されることなく魔術を使う術を知っているかもしれない。今の俺には喉から手が出るほどほしいものだ。
「察してやろうではないか。俺も悪魔だ。聖なる山手線の輪に囲まれて魔術が使えぬ」
「悪魔? 魔術?」
「本来の俺ならばパンダの赤ん坊を殺すことも思いのままだ」
「へ、何が悪魔だ、ほらふきめ。同情するなら病院にかかる金を貸してくれ」
「ほらふきは貴様も同じことだろう。だが、貴様が本当に魔術師である可能性も俺は決して捨てはせぬ。貴様が再び箒にまたがることが出来れば、家族や恋人に至るまでに蛇蝎の如く嫌われ唾を吐かれようと俺に忠誠を誓うというのならば、貴様の抱える問題を解決してやらんでもない。尤も、貴様を信じてやった俺を裏切った暁には確実な死が待っているであろうがな」
「お兄さんの問題は頭かい?」
魔術師は吐き捨てるように言った。
「俺は貴様を理解してやるぞ。痔、という字は、一文字で出来ている。風邪も虎列剌も麻疹も二文字以上の文字で出来ている。一文字で表さねばならぬ病ということは、痔は癌と並ぶ重大な病だということだ」
「お兄さん、綺麗な顔して汚いこというねぇ」
「フン、所詮は『疫病』のヤツの受け売りだがな。」
俺もカシスオレンジのグラスを気障に傾ける。
「貴様ら魔術師は、何故、箒に裸のまままたがるのだ? あれでは肛門を痛めても致し方あるまい。愚かな人間共でさえ、約1700年前には馬に鐙を載せていたというのにだ」
「箒に鐙?」
「鞍や鐙を載せろと言っているのだ。己の無知で箒にケツを割られるのと、不条理に悪魔にケツを八つ裂きにされるのでは貴様らの気持ちも違うであろう。貴様はどちらを選ぶ」
「お兄さん、本当に大丈夫なのか?」
心底参ったと顔で表し、魔術師はため息をついてまた酒をちびちびと口に運ぶ。
「お、珍しいな。ヴェルが知らない人と話をしている」
ドアノブを縊るように扉をくぐってきたのは吸血鬼:人間=1:3のクォーター斎藤だ。
「俺に話し相手がいては問題があるのか」
「いや、ないね。まずは水をいただこう。喉がカラカラだ」
斎藤は図々しく俺の隣に腰かけ、タバコを一本抜き取った。
「こやつは吸血鬼のクォーターの斎藤だ」
「どうも。斎藤です」
斎藤は魔術師に気さくに挨拶をする。
「クォーターがウォーターを飲んでるって訳ですか」
「悪魔と吸血鬼と魔法使い……」
フハハハハ! 人間共、心の底から縮み上がれ! 貴様らが想像を絶する邪悪が、今ここ、恵比寿から始まるのだ! 膝を折れ、命乞いをしろ! 貴様らが泣き叫ぶ姿が見たい!
「お前、いつから飲んでいたんだ?」
と斎藤が何かを案じているような言葉を投げかける。
「参ったなぁ。マスター、こいつに一人でお酒飲ませたらダメだって。馬鹿になってしまってる」
斎藤は眉間にしわを寄せ、ため息とともに地獄の瘴気もとい紫煙を吐いた。
「紛れもないですなぁ。この兄さん、馬鹿ですぜ」
「なんだと?」
「手品は、相手に魔法と信じ込ませたら勝ちなんでさぁ。お兄さん、金貸してくれ」
東京という街では、目まぐるしくネオンの色が変わる。先日まではメイド喫茶だった店が、今日はミニスカポリス喫茶に代わっている。店が競っているものはなんなのか。
質なのか、量なのか、はたまたサービスなのか。どれも正解なようで違っている。店が追い求めているものとは、物質でも感情でもなく、客をより満足させ心地よくさせる、体験なのである。考える力や記憶と引き換えに酒を使って手に入れる快感も、店で買うことが出来る体験の一つなのだ。