東京悪魔の胸のつかえ
人間の体は脆くできている。ほんの些細なことが発端ですぐに異常を来してしまう。
視界に蔓延る人間共の中に、数十年、あるいは数年の人生の中で一度も薬を飲んだことがないという者は存在しないだろう。その矮小でちっぽけな生にしがみつき、苦痛から逃れるために人間共はすぐに薬を飲み、痛みや死という自然の摂理から逃れようとしている。
緻密に築き上げられ栄華と繊細さを誇る楼閣でさえ、砂上であれば儚く崩れるがごとく。人間共は自らの健康自体が砂上の楼閣である。しかし、崩れゆく楼閣を補修することに精いっぱいで、悪いのは足元が砂だということは誰も気をかけたりはしない。些細なことで落城を招く足元を換えればいいと言うのに、楼閣の補修に補修を重ねるだけだ。それでは何の解決にもなりはしない。なんともはや。まるで人はゴミのようだ。
「斎藤、貴様、医師だったな」
「今は免許がない」
「俺を治せ」
斎藤は眉一つ動かさず「俺が治す努力をするのは人体だけだ」と突っぱねる。
「俺の半分以上は人体だ」
「ならばきちんとした医師に診てもらえ」
「保険証を持たぬこの俺に病院にかかれと言うのか」
眉間に皺を寄せ、タバコを挟んだ左の掌で口元を隠し、顔を背ける斎藤。
「保険証がないのか……そうか、ヴェルは出生届も出されていない悪魔の私生児だったな。どう申請すればいいのか……」
どうも笑われているような気がしてならず、苛立ちの言葉を舌打ちに換え、タバコを一本取り出し、ライターを探る。
「ヴェルがタバコだと?」
「吸ったらいけないのか」
「金にそんな余裕があるのか」
「あったら悪いのか。うっ」
一息吸っただけでまるで濁流が急に行き場を失ったように俺の気道がタバコの煙を拒否し、口から煙があふれかえって咳き込んでしまう。斎藤は眉をひそめて、公共の食卓で無様な姿をさらしている俺を諌めた。
「なんとも……人間に近づくことはうっ、不便で情けない。地獄の瘴気は、こんなものでは、ない」
「どうしたヴェル。30代からの不良デビューか?」
「黙れうっ!」
俺は目を見開き斎藤を睨みつけるが、それを薄く閉じた瞼で隠した斎藤は優雅に煙を吐くさまを見せつける。
「慣れないうちに吸いすぎるのは体に毒だぞ」
「あまりにも毒が過ぎる。これは、貴様ら人間には無害で、本当は悪魔を駆逐するために……月桂樹の葉が混ぜられているのでは」
「メビウスにそんなものが含まれているとは聞いたことがない」
また胸が苦しくなり、軽く叩いて呼吸を整える。霞む視界に斎藤を捉えるが、煉獄の如く噴煙を噴き上げ肉を焦がす焼肉の煙が目に染みる。
「人間はゆっくりと死に向かって生きていくのさ。人生は加点法ではなく減点法だ。行いが悪ければ悪い分だけ、寿命は減点されていくんだよ。タバコもその減点対象の一つに過ぎないのさ」
灰皿にぎゅうとタバコの先を押し付け、斎藤は焦げ目のついたカルビを箸で拾い上げた。
「で、体が悪いんだって? どうした」
斎藤は俺を嘲笑って気分がよくなったようだ。斎藤の言うとおりに人生は加点法ではなく減点法ならば、本来ならば悪魔の特権で貴様は大減点だ。早く地獄に行けばいい。
「胸が痛い」
「痛いってどんな風に」
「通りが悪い。喉を通らん。あまりにも窮屈、腹が立ってしょうがない」
「タバコをやめろ」
「タバコは関係ない。吸い始める前からだ」
斎藤は少し眉を動かした。それが意味するものは、今度は俺にもわからない。
「何か、生活の中で変わったことはなかったか? 気掛かりなこととかは」
「全て些細なことだ。四捨五入すれば0になってしまうようなことばかり、この俺を揺さぶるには足りぬ」
「何かあったのか」
「なかったと言えば嘘になるだろう。そう、俺は飯を食えなくなった。我こそが、人間共とは一線を画す『貴賤なき時』の王者と勘違いしていたのだ。いや。これこそ勘違いだ。東京は悪魔でさえも捉えて飼おうかという街。何がいてももうおかしくはない!」
「何かに遭ったのか?」
「優れた経済力を持ちながら、それを鼻にかけず身の丈に合わぬ低き飯を食らう女がいた。その省みぬ堂々たる振る舞いにいささか俺も気圧されたようだ」
斎藤はまた眉間に皺を寄せ、目をつぶって口元を隠す。恐ろしさに鳥肌でも立っていればよいのだが。
「タバコはそれとなにか関係でもあるのか」
「その者は、10,000円もチャージしたPASMOでタバコを買った」
「そうだなヴェル。人間には対象年齢というものがあってだな」
瞼を固く閉ざし、首を縦に振りながら斎藤が声を絞り出す。
「貴様、侮辱しているのか。俺はもう生まれて29年も経つのだぞ。寿命は貴様ら人間共にとっては久遠とも思える時を刻むまで果てはしないが、成長するまでに要する時間は貴様らに遅れを取っているわけではない」
「いや、大いに遅れをとっているよ。人間の初恋の対象年齢は12歳から22歳くらいだろうと俺は考えていたが、まさか悪魔に初恋適性年齢があるとは思ってもみなかったよ。そうか、悪魔は29歳でもまだ早いか。見ていて照れるよ」
俺は人間のしゃれこうべを握りつぶす時と同じくらいの強さで拳を握り、心底湧き上がるマグマのような怒りに任せてそれをテーブルに叩きつけた。
「斎藤、貴様、この俺が人間の女に恋をしているとでも言うのか!」
「違うのか?」
「愚かな! 恋など知らぬ!」
「だから初恋なんじゃないのか? 何事も経験だよ」
「クッ、今日は負けを認めんぞ!」