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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京大魔境編
42/43

東京悪魔、5つの誓い

「ヴェル、朝よ。起きなさい。仕事がもう終わったとしてもいい加減起きなさい」


 夢心地の俺の肩を母上が叩く。母上は既にスポーティなキャップとサングラスをかけ、蛍光色の派手なジャージに身を包んでいる。


「ぬぅ」


「わたしはランニングに行ってくるわ。朝ご飯はテーブルの上。朝ご飯はちゃんと食べなさい。起きたらベッドの布団は畳みなさい。カビてしまうから。そんなんでは天界で恥をかくわよ。夕ご飯はどうするの?」


「夕飯はいらぬ。帰りは少しばかり遅くなるだろう」


 東京での残り少ない日々で、少しは親孝行をしようと母の家……18歳まで過ごした実家に泊まっていた。俺の出ていった時と全く変わらない自室で眠り、無意味に勉強机の椅子に腰かけたりもした。母の小言、説教がこんなに愛おしく、心地よく聞こえる日が来るとは……。


「長生きしてくれ、母上」


「そうね。わたしが生きてるうちに帰って来なさい。わたしは死んだら地獄に落ちるもの」


 地獄の花が開くように、母上が笑った。


「褒められた人生は送っていないし、地獄には夫がいるもの」




 顔を洗って眠気を流し、朝食を食べ、簡単にストレッチをした俺は、いつも通りシャツを着てネクタイを締めた。そして実家に置いたままだった古い自転車に乗り、本郷にあるカグツチの銭湯に向かう。高い煙突が見えてきた。暖簾をくぐり、6番の木札の下駄場に革靴をしまう。乱雑に畳まれたスポーツ新聞があるが、(かがみ)は番台にはいない。


「鏡。いるか?」


「その声はヴェルの旦那か? まだ開店前だが」


 男湯の奥から反響した声が聞こえてくる。


「少しばかり話がしたくてな」


「入ってくれ。男湯だ。滑らないようにしてくれよ」


 靴下を脱ぎ、スラックスの裾を折ってガラス戸を開ける。アロハシャツに炎のパターンのオラオラ系のハーフパンツを履いた鏡は、浅黒い額に汗を浮かばせて、デッキブラシで床を磨いていた。


「まだ湯は張れないぞ。それに話は聞いてるぜ旦那。貴重な時間を俺なんかと潰していいのかい?」


「お前に話、いや用があってな」


「言ってごらん。俺にできることなら何でもするぜ」


 なんという好漢だ、鏡真実。いや、カグツチ!


「銭湯の掃除が済んでからで構わん。付き合ってほしいところがあってな」


「どこだい?」


「市ヶ谷フィッシングセンターだ」


「釣り堀か」


「いや、アクアリウムの店だ。火の化身にこんなことを頼むのは間違っているか? フフフ」


「冗談はやめてくれよ。よいしょ」


 鏡がホースの水流で床と足を流し、デッキブラシを担いでこちらにやってきた。


「いいぜ。行こう。ちょっと外で待っててくれ」


 しばし外で待つ。鏡はすぐに、肩掛け鞄を提げて銭湯から出てきた。足下はどこかベルゼブブ殿を連想させる草履だ。ベルゼブブ殿も鏡も、自身への嫌悪という大きなコンプレックスを抱えていると、こういうファッションになるのだろうか。


「これを渡しておこう」


 市ヶ谷への道すがら、俺は鞄から自作の冊子を引っ張り出し、鏡に手渡した。


「なんだいこれは」


「15年金魚を飼った俺の経験をまとめた金魚の飼育方法だ」


「金魚?」


「俺は長年金魚を飼っていてな。先日死んでしまったが。だが金魚は心を落ち着かせる。金魚の燃えるような赤は素朴だが美しい。そして金魚との生活はメリハリをもたらす。この小さな命を死なせてはならぬ、と、自暴自棄な生活はしなくなる。餌やり、水替え、水温管理、水質管理……。今度は最大の水槽で一大アクアリウムを作ろうと思っておる」


「何かのメタファーかい?」


「言葉通りだ。俺は天界に去るが、東京の部屋は残しておく。いつか戻るその日までな。そうだ、忘れていた」


 今度は鏡に合鍵を渡す。


「おいおい、女の子にももらったことないぜこんなもの」


「お前が俺の部屋でアクアリウムの管理をしろ。数百リットルもの銭湯の管理をしているお前ならば容易いだろう」


「かぁっ、暇でよかったぜ、まったく」


 鏡はニヒルな笑みを浮かべた。


「じゃあ俺からも頼みがある」


「なんだ」


「もし、天界で俺の親父とお袋……イザナギとイザナミに会ったら、イザナギには俺が東京にいることは黙っててくれ。きっと親父はまだ俺を許していない。だがイザナミに会ったら、俺のことを話してくれ。そして俺が謝っていた、とも。お袋が会いに来てくれるかもしれねぇ。実はまだ会ったことがないんだ。親孝行がしたい」


「伝えよう。鏡」


「おう」


「金魚を飼え、鏡。金魚の親になればわかる。金魚が元気に泳ぎ、生きているだけで、その姿は親であるお前への孝行になるだろう。鏡。親孝行は出来ずとも、親孝行をされることは出来る。お前はその特殊な出生から、生きること全てを贖罪に費やし、幸せを求めることを疎かにしているように思える。もったいないぞ、お前ほどの好漢が」


「ははっ。じゃあまず嫁探しからだな」


「それに母たちの懐の深さは、俺たち子が一生かけようと知ることは出来ぬ」


 市ヶ谷のアクアリウムショップで水槽、オブジェクト、エアレーション等その他もろもろを買い込んだ。重い荷物になったが、鏡は見た目通りというか、よく鍛えられた筋肉と怪力でそれを支えた。肝心の金魚はまだ買うことは出来ない。金魚を飼うためには水を作る必要がある。水道水を水槽に張り、一週間ほどエアレーションを回して環境に馴染ませねばならない。水槽のセッティングを終えた鏡に冷えた麦茶を一杯差し出した。


「いい部屋だな」


「フ、手放したくない気持ちも分かろう」


「ああまったくだ。金魚飼育の命、確かに承った」




 水槽の準備を終え、俺と鏡はマンションの出口で別れて違う方向に向かう。俺の足は既に秋葉原に向いている。


「ヴェルお兄様! アールマティですぅ! この間は、本当にごめんなさい!」


 秋葉原の大型書店で待ち合わせたアールマティは、俺を見つけるなり、背中のリュックサックが頭を飛び越えるほど深く頭を下げて謝罪した。


「謝るなアールマティ。いずれは松田にも言わねばならなかったことだ。タイミングが早まっただけのこと。それに松田はすんなりと受け入れてくれたしな」


「本当にヴェルお兄様には頭が上がらないですぅ。わたしは……スプンタ・アールマティはアムシャ・スプンタの一員。わたしの自主性よりも〝献身〟が使命、そのために、何も考えず従うことだけをしてきました。ほんの少し許された時間では好きに過ごしましたが……生きていることの意味、時間の貴重さ、スプンタ・アールマティとしての自我を強く感じたのは、松田(まつだ)お姉様との漫画制作が初めてですぅ」


「それはよかったな」


 大型書店に中に入ると、ブリザードが如し冷房の風が吹き、汗を引っ込ませる。身震いするほどだ。


「お前に頼みがあるアールマティ」


「なんでもこいですぅ」


「お前や松田には劣れども、俺も漫画を嗜んでおる。お前と同じくジャンプっ子だ。年季は違うがな」


「ジャンプ、いえ、漫画を愛する気持ちに年齢やキャリアは関係ないですぅ。そんなことを言っていたら誰も手塚治虫先生に勝てないですぅ」


「俺が不在の間、俺が集めている漫画の新刊を代わりに集めておいてくれ。まずはこれだ」


「ちょっと待ってくださいですぅ」


 アールマティが小さなメモ帳と鉛筆をリュックサックから出し、眼鏡のつるのように細い指で鉛筆をメモ帳に走らせる。


「俺は特にこの漫画が気に入っている。初回限定版特典がある時は優先してそちらを買ってくれ」


「ガッテンテンですぅ」


「そしてこれが、俺が欠かさず見ている海外ドラマだ」


 手帳に挟んでおいた一枚のメモと合鍵をアールマティに渡す。アールマティの背は低い。手を伸ばさねばならないほどだ。


「これの録画も頼む。全て俺の家のチャンネルで映る。DVDに焼いてくれ。叔父上がとりに来るかもしれぬ」


「ガッテンテンですぅ。字幕ですか? 吹き替えですか?」


「断然字幕だ。アールマティよ。俺が偉そうにお前に言えることなど何もない。お前の自我は決して希薄などではないぞ。むしろ、好きを貫くお前の生き方は多くの者にとって希望になるだろう。松田を頼んだぞ」


「ありたがいお言葉ですぅ。ただ一つ残念なことがありますぅ」


「ぬ?」


「松田お姉様とわたしの力がユナイトした最高の漫画は、きっとヴェルお兄様が旅立つまでには間に合わないですぅ。でも安心してほしいですぅ。松田お姉様は、画力はまだまだ改善の余地はありますが、わたしの方からも教えられることもまだ多くありますし、それにネーム力は素晴らしい素質を持っていると感じますぅ」


「漫画を読み続けたお前が言うのだから相当なのだろうな」


「わたしも楽しみですぅ。松田お姉様に〝献身〟できる機会をくれたヴェルお兄様には、あらためて感謝ですぅ……。私的なことですが、わたしも一つ決断をしたんですぅ」


「ぬ?」


「40年使ってきたこの姿を変えることにしました。ベースはこの姿ですが、やはり松田お姉様も深夜までこの年齢のわたしを働かせることには抵抗を感じてしまうと思いますので、この流川千晶が20歳まで成長した姿に変えることにしました。先に言っておきますが、メイド喫茶の方ではその程度の容姿の変化では何も影響はないので、気にしないでください。アールマティは、心も体も少し大人になりますぅ。そして、夕子(ゆうこ)お姉様みたいに頼りがいのある素敵な姉御になりたいですぅ」


「フッ、夕子のようになるのは難しいぞ。ではアールマティ。頼んだぞ」




 そして次に向かうは高田馬場だ。


「いらっしゃい」


「おう」


 夕子はカウンター席に座り、クロスワードパズルを解いていた。だが俺が来ることがわかっていたのか、料理をするときにしか巻かないグリーンのエプロンを巻いている。


「今日は大盤振る舞いだ。冷蔵庫一掃セール。旅行先が決まったんでね。長期になるから冷蔵庫空けないと。とりあえずいつものコーヒー淹れるか」


「ほほぅ、どこへ行くんだ?」


「まずは屋久島かな。屋久島には縄文杉ってあるじゃん。とんでもないパワースポットって噂の」


「聞いたことがあるな」


「その縄文杉の近くで瞑想したら、わたしの仙人としての潜在能力が覚醒するかもしれなくない?」


「今更仙人の力が必要か?」


「長期の断食に耐えられるようにすると何かと便利だし、やっぱり女子はパワースポットとトロピカルスイーツが好きなんだよ。それから種子島かな。宇宙と交信できるかもしれない。それからヨーロッパにも行きたいし」


「そんな金があるのか?」


「ヴェルには言ってなかったね。わたしの主な収入は、ミカエルからのお小遣いだ。その気になればいくらでもくれるんだよ、ミカエルは」


「叔父上が天使でなければ法的に問題のある怪しい関係に他ならぬな」


「悪友であることは否定しないよ。ほいっと、夕子特製冷蔵庫閉店セールのフルコース。食べきれるかな?」


「食べきれる。そのために母上には夕飯はいらぬと言っておいたからな」


 いただきます、と挨拶し、まずはサラダから取り掛かる。


「チッ、胃袋は掴んでやったのになぁ」


 と笑いながら夕子がタバコに火をつけた。一抹の罪悪感を覚えながらも完食し、夕子が持ちきれなかった分の食器をシンクまで運んだ。


「お前にも特に言うことはないな」


「ん?」


「お前には何も心配はいらぬ。それに叔父上を通してお前の近況は天界でも聞けるだろう。いや、叔父上から金を借りずに生活できるようになれれば一番良いのだが」


「勘違いしてるなぁ。借りてるんじゃない。譲渡されてるんだ」


「なおさらダメではないか。フッ……松田の……」


「おいおいいい歳した大の大人が泣くなってぇ」


「松田の友達でいてやってくれ。あやつは孤独なのだ。手伝ってくれるアールマティもいるが、松田の閉ざされた心を開けるのは、同じく心を閉ざしていた俺を開かせたお前しかおらぬ」


「心配すんなって」


「クソ……また来る」




 少しばかり心を乱されてしまったが、月が少し欠けた東京の道を自転車で駆ける。高架をいくつもくぐり、ようやく家の近所の白金までたどり着いた。自転車を押して歩き、白金には珍しい安いスーパーの前に、襟の大きなシャツの上に、高級スーツブランドのチョッキを纏い、髪をオールバックに束ねて銀色に輝くフレームのメガネをかけた三白眼の男がガードレールに座り、アイスクリームを食べている。そのステレオタイプすぎる小金持ちっぷりはあまりにも悪趣味だ。コスプレの趣すらある。ランドセルを背負っていた育ちの良さそうなガキの面影すら残っていない。


「久しぶりだな、ヴェル」


「久しぶりだな、我が好敵手、斎藤(さいとう)よ」


「最近全然遊んでくれなかったものな。おかげで俺はナースにモデルに、打算的な遊び相手が増えすぎて困っている。明日からは女子大生と一緒に夏フェスに行く予定だ。新車を飛ばしてな。手早く頼む」


「隣に座るぞ」


「好きにしろ」


「……」


「……」


「あれは15歳の時。貴様と夏祭りに行ったな」


「15の時?」


「忘れてしまったというのか⁉」


「いや、毎年行っただろう? 記憶が混同してしまい15の時に何があったのかまでは思い出せないだけだ」


「貴様は金魚すくいで金魚をすくった。そして俺はその金魚を持ち帰り飼っていたのだが、死んでしまったのでな」


「15年も持てばいい方だろう」


「貴様は……まだ人間を愚かだと思うか?」


「愚かだ」


「貴様と余り遊ばなかった間、俺も多くの人間に出会ってな。様々な生き方を知った。親不孝を嘆く者、自らの好きを貫き通す者、夢を追う者……俺はふと思ってしまったのだ。他人から見て愚かでも、各々が必死に生きれば、それは正解なのでは、と」


「何を言っている。お前、天使になるからと言ってヤケクソに善人になろうとしているだろう」


「ぬぅう!」


「そもそも愚かかどうかすらも、他者に評価をゆだねた結果だ。聖人だろうと犯罪者だろうと、自分は正しいと思ってやっている。だが他者から見れば聖人も犯罪者も同じ、場合によっては評価も逆転する。そんな風に人は人を食らって生きていく生き物だ。特に俺のような吸血鬼は物理的にも人を食っている。人は人に認められることで生きている。故に、愚かと思われた時点で、その人間は終わりだ。貫き通せば花が咲くようなことはない。さらに愚かだと思われるだけだ」


「だが……俺は医者になるという貴様の志を愚かだと思ったことなどないぞ」


「この俺の賢さ、要領の良さでは医師になることなど容易だと、ガキのヴェルでもわかっていたからだろう?」


「ぬぅう! 何が貴様をここまでの露悪趣味にさせた……」


「俺の性、業ではないか? フゥ……お前といれば少しは俺も、善人と思われていたかもしれないな」


「俺は貴様意外にも友人がいるものでな! 少々忙しかった。フハハハ! 貴様には俺しかいまい」


「ハッ、違いねぇや」


 斎藤がガードレールから飛び降り、膝の屈伸運動をして首を回し、指の関節をポキポキと鳴らした。


「よし、ケンカするか。18年ぶりになるか? その日和って脆弱になった根性を叩き直してやるよ。おばさんにも久しぶりに会いたいしな。俺の歯でも折ってみろ。またおばさんが菓子折りと金持って謝罪に来るぞ」


「……」


「吸血鬼の身空じゃ医師免許は半永久的に凍結されたままだ。今更なくなっても何も問題ない。免許も友人もな」


「フ……今日は貴様の勝ちでよい」


「つまんねぇな」


「斎藤」


「なんだ」


「そのまま生きろ。そのままならお前は天国行きだ。そのケンカ、次は天国で買ってやろう」


「善人ぶるんじゃねぇって言ってんだろ。またな」


「おう」




 こうして俺は東京最後の日を終えた。

 マンションのある新宿、職場のある飯田橋、三枝(さえぐさ)と話した池袋、カマエルと巡った谷根千、松田と初めて食事した恵比寿、鏡のいる本郷、アールマティのいる秋葉原、夕子の店がある高田馬場、斎藤と育った白金……。もうどこにも行きたいところはない。もうどこにも……。


「十分ではないか」


 ここでようやく俺は気が付いた。


「東京で生まれ育ち齢30! 東京から出られなくとも我が生活、一片の不自由なし! おおお、なんということだ……愚かなり、俺! 天使になるなど……。叔父上よ! 今から自転車を盗む! その気になればパンダの赤子も殺してみせようぞ! 俺は東京悪魔のままでいい!」


次回(2020年1月1日)、最終回。

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