東京悪魔と落日の決闘
「悪魔の苦手なもの。十字架、聖水、お祈り、銀の銃弾。この辺りは定番だろう。しかし、意外と知られていないものがある。そう、鉄によって作られた輪である。母が東京に輪を描く山手線の内側で俺を産んだことにより、生まれながらにして俺は山手線に封印されている悪魔だ」
「つまりヴェルさんは悪魔、夕子さんは仙人、マティちゃんは神様と」
「そういうことになる。信じられぬのも仕方ないだろう。だが真実だ。近いうちに話すつもりだったが、少し唐突だったな」
「……信じますよ。なんていうか、信じるのが一番簡単なんですよ。疑ったりするよりも、このレベルまでくると受け入れた方が楽なんですが……」
松田が頭を抱えてタバコに火をつけ、細く煙を吐く。
「でも、なんですかねぇ。確かにヴェルさんも夕子さんもマティちゃんもちょっと変わってますから。夕子さんはまだマシですけど、決定的におかしくはないのが、逆に怪しいというか。わたしは消されたりしませんよね? 怪しい勢力とかに」
「知ってしまった人間が消されたという話は聞いたことがない。少なくとも俺の属するコミュニティとゾロアスターは消さない。それに夕子は特殊なスキルを持っているだけで、お前と同じ純粋な人間だ」
「……じゃあきっとわたしの元いた会社の連中も人の皮をかぶった魑魅魍魎ですね。他にもまだこういう人たち……神たち? 化身? はいるんですか?」
「ヤオヨロズデンキとアポロカメラは知っているな?」
「ええ。上京してきたときに家電はヤオヨロズデンキに面倒見てもらいましたよ」
「あそこはそれぞれ高天原とギリシャ神話の直営店だ」
「はぁ、道理で神対応だったわけです」
また軽口を叩く。前向きに受け入れているのか? 悪魔である俺でさえ、夕子やカグツチ、アールマティの存在を知った時にはショックを隠せなかった。だが松田は底知れぬ器で、なんの覚悟もなく唐突につきつけられた真実を受け入れている。それどころか、俺たちのような神仏や悪魔の類を一纏めにする〝化身〟なる言葉さえ出して見せた。松田の対応はむしろ、この世界の真理を信じられない松田へ説明する言葉を用意していた俺を困惑させる。こうも簡単だったのか。世の中は俺が考えているほど難しくないのか?
「しかし、今更知ってどうってこともないってのが本音ですよ。ヴェルさんも夕子さんもマティちゃんも、人間として社会で生きてるじゃないですか。他の化身だって、全然そうだってわからないほど社会に馴染んでいるじゃないですか。そうである以上、わたしは態度を変えたりしませんよ。でもあれですね? 人にこのことは言わない方がいいですよね?」
あの日、殺安食堂で見かけただけのこの人間、松田。その後、喫煙公園で出会い、秋葉原で出会い……。幾度となく出会ったのは偶然ではなく、俺が松田に導かれていたのだろう。悪魔であることを、一番後ろめたく感じていたのは俺だったのかもしれない。思えば、両親はもちろん、斎藤も、夕子もカグツチも、俺の正体を知っても態度を変えることなく接してくれていた。その有難さを教えてくれたのも、俺が一番許されたいと思っている松田だった。俺は松田を、そして人間という種を侮っていた。
「そうか。俺が愚かであったな」
「わたしの出番もなかったね。そんな訳で、ヴェルとマティちゃんを頼むよ、松田さん」
夕子が俺の肩に手を置いた。夕子も夕子なりに、俺と松田の関係を案じてくれていたのだ。きっと話術に欠ける俺の説明を補足してくれるつもりだったのだろう。
「そうだね夕子さん。とりあえず、マティちゃんは今後手伝ってくれるのに問題ないってことだね」
「メイド喫茶とお手伝いは両立できますぅ」
「そっか。マティちゃんとは長いお付き合いになれるといいけど……。とりあえず、今日はここらで失礼します」
松田が鞄から財布を取り出し、夕子に視線を送るが、夕子は掌を突き出して首を横に振る。
「今日のお代は結構。また来てね」
「はぁ、本当に何から何まですみません」
「ヴェル、見送りだよ」
夕子に促され、席を立つ松田と目線を合わせる。相変わらず光を吸い込むブラックホールのような真っ黒な瞳だ。カランカランと鳴るベルを後ろに、街の光と夕闇が混じる夏の空を見上げる。猫背の松田を追って駅に向かって少し歩いたところで、松田が足を止めた。
「松田」
「はい」
「まだ言っておらぬことがある」
「まだ? まだあるんですか?」
「世界の真相ではなく俺自身のことだ」
「はい」
「先ほども述べたように俺は人間兼天使兼悪魔。生まれ持った悪魔の性質で俺は山手線に封印されている。その限られた空間の中で、俺は人間として育ち、生きてきた。就職し、人と出会い……。だが俺の身には天使の血も流れている。父は天使から転身した悪魔、叔父は大天使だ」
松田に相槌を許さないほどの速度で俺はまくしたてる。松田に知ってもらわなければならないことはこの世界のことと俺のことの二段構えだ。この二段目だけは、やはり夕子にも甘えてはいけない。
「そしてここ最近、俺の中の天使の素質が芽生え始めてきたそうだ。魔力が増し、呪縛が強くなっている。相反する天使と悪魔の力のジレンマが体調不良となって俺を襲っている。叔父上の力で多少、魔力の増強を防ぐことは出来ても、その効果すら最近は薄くなってきている。そして俺は決断を下した。松田よ。せっかく再会したばかりだが、別れの時だ。俺は人間と悪魔を辞める。天使になる。天使になれば天界で研修を課される。いつ戻ってこれるかはわからない。だが、天使となれば、俺を縛るものはない。山手線の外にも行ける」
「え、フェイクニュース! メイク・アメリカ・グレート・アゲイン! ……冗談言える場面じゃないみたいですね。でもわたしの理解が追い付いてないのをいいことにかっこいいこと言わないでくださいよ」
「本当にすまぬ。俺が何を言っているかわからないだろう。今日、今さっき天使や悪魔の存在を知った者に、悪魔の天使化などという現象を話すのは褒められたものではないことはわかっている」
「いえ……ヴェルさんがいなくなるってことだけわかれば大丈夫です。……わたしのことを、妙に物分かりがいいとお思いでしょう」
「少しな」
「さっきも以前も、わたしは元いた会社の人達のことを人の皮をかぶった魑魅魍魎と言いましたが、わたしもそうなんです。陽気な化けの皮に身を包んで、軽口を叩いて、人の言葉が誰も知らないわたしの本体に届く前にシャットアウトして……。それをみんな察しているから、わたしには深く立ち入ろうとしないし、わたしも人の深い領域には踏み込まない。そういう生き方をしてきた人間です。一番楽な生き方なんで。それでも少し疲れましたけど……。はぁ。東京ドームは本当に楽しかったです。やっと、あんな風に本気を出せると思ったのに……残念です。わたしには天使や悪魔の事情なんてわかりませんから、わたしの勝手で行かないで、なんてことは言えないんですよ」
「松田よ」
「はい」
「俺は必ず戻ってくる。待っていてくれぬか」
「はい、待ちますよ。わたしはモテませんし、本気を出そうと思える相手もヴェルさんだけですから。言われなくても待ちますよ。はぁ……。それにヴェルさんはわたしに謝りに来たじゃないですか。こんなサプライズを仕掛けるために謝るわけありませんし。はぁ」
松田がまたため息を吐いた。
「本当にすまぬ」
「黙って去ったりしないだけでも、いいですよ。それに、その辺をうろついてたらチクるようにマティちゃんに言っておきますから」
「ああ。戻ってきたら真っ先にお前に会いに来る。その時は、また別のことを教えよう」
「そうですね。じゃあ、その時はわたしから一つ教えましょう。ヴェルさんはまだ、わたしの下の名前を知らないですもんね。教えてあげます。……じゃあ、ヴェルさん。またね」
「ああ、またな」
一つ大きなため息を吐き、結局一度も振り返らないまま松田は高田馬場の駅へと去っていった。俺にはもう追うことは出来ない。胸が激しく熱を持ち、茨のような感情が渦を巻く。これでよかったのだろうか。もっとマシな言葉を……斎藤ならばもっと洒落た言葉を、叔父上ならばもっと熱い言葉をかけられただろう。だが俺の限界はここまでなのだろう。人ゴミに流されて消えていった松田を見送り、俺は踵を返して夕子の店に戻った。夕子はタバコを吸いながら一人で食器を洗っていた。
「アールマティは?」
「帰ったよ。余計なことを言ってしまったって少し落ち込んでた。気にするなって言っておいたけど。大事なことは言えた? ヴェル」
「どうだったのだろうな」
「ヴェルぅ」
「どうした夕子。少し奇妙だぞ」
「わたしは待てるよ。その気になればいつまでも、この姿でね。………。わたしは、ヴェル」
「……ダメだ。黙れ夕子」
「ヴェルぅ」
「お前はお前のままでいろ。無理矢理他の何かになるということは、思いのほか辛いことだ。お前にとっても、お前の周囲の者にとってもな。俺のために何かしてくれるなら、お前はお前のままでいろ。夕子。俺にとってお前は最高の妹だった。これ以上にないほど完璧だった。誰もお前の代わりなど出来ない。だからお前のままでいてくれ」
「……ハン」
夕子が鼻で笑った。
「あれだけ面倒見てやったのにわたしが妹かい。姉の間違いでしょ? ふぅ、よいしょ。旅行にでも行くかなぁ。手間のかかるヤツがいなくなるわけだし。ヴェルに旅行という概念ないと思うけど」
「フッ、バカめ」
「……ん? 笑った? そういえば、ヴェルに冗談が通じたのは初めてだな。変わったね、ヴェル」
「そうだな。感謝する」
「今日は閉店。お疲れっした」
震える声を隠すようにため息をついた。
「そうか。またな、夕子」
「またね」
荷物を持ち、扉をくぐる。もう一度空を見上げる。
「今日は満月か」
俺が次に満月を見上げるのはいつになるのだろうか。30年過ごした東京を去る日は、すぐそこに来ている。





