東京悪魔vs資本主義
凍て狂う街、凍狂と揶揄する者もいるように東京という街は何かがおかしい。そして、この東京、いや日本を根城に一匹の亡霊がうろついている。そう、資本主義という名の亡霊が。
「水をくれ」
カウンターに素うどん120円の食券を叩きつけ、ついでに飲み物を頼む。飲み物は水道水で良しとすれば、無料だ。金は大切に扱うに越したことはない。
この国では金が全てであり、金が全てのこの国において貴賤のバロメーターは金である。貧乏は下賤であり、金持ちが尊い。金とは、あれば裕福な暮らしが出来る、という以上に、あれば己の尊厳をより巨大で強固なものにし、誇示し、維持するために不可欠なものだという印象を受ける。
飯田橋駅から徒歩数分。エネルギーに直結する炭水化物を破格の値段で学生や会社員たちに提供し、ありがたく思われるこの食堂もさすれば下賤なものということになる。しかし少なくとも、昼飯時を迎えた彼らにとって金はバロメーターではない。命綱だ。財布に入っているだけの命綱を消費し、時間を惜しんで喰らう。そして新たな金を稼ぐために職場に、学生は己の未来で金を稼ぐために学び舎にまた戻っていく。
時間も骨身も惜しまず働き続け、より多くの金を持つために安い飯を摂ることを下賤とされてしまえば、彼らは何のために生きているのだろうか。もし、金が意味を持たぬ無償の世界だったら、彼らの行動は無意味に自らを卑下する行為となる。時をいかに金に換えるか。時は金なりとは金言だ。そして金とは貴賤だ。つまり、時は貴賤だ。時をいかに過ごすか。有効に使った時間こそ、貴ぶものだというのか。
時給960円よりも、時給1200円。なにかと平等を目指す人間共の最大の敵は、格差を生む金の存在だ。おかしな話だ。人類みな平等の兄弟を掲げるスローガンは、自ら生み出した金という概念によって実現を阻まれている。
「フ、愚かなことだ」
素うどんを受け取り、素うどん殺安食堂ブランドのつゆを受け取り、割りばしを割って水をお供に手繰る。
120円で過ごす昼食と、1,200円で過ごす昼食。120円は下賤だと指をさされても、1,200円で過ごした時にその行為を後に忌み嫌い、指をさして否定するのは他ならぬ俺自身だ。無意味な贅沢は敵だ。貴賤もない。ただ、蛇蝎の如く忌み嫌うべく敵だ。
悪魔であるこの俺が、亡霊に憑りつかれることなどあってはならない。ただ、己の好むもののみを残し、嫌う者は粛清する。俺はそのスローガンを実現する日を待つだけだ。
炭水化物の貴賤の基準は金とは違う。120円で事足りるうどんと、1200円もかかるランチ、摂取として勝っているのは、燃費の優れる安値の120円うどんだ。
「な」
かつ丼だと!? 安さはどうした、早さはどうした!
450円、そして熱々。食べるのには時間がかかるし、ここは命綱の消費を厭うもののオアシスだ。かつ丼など、代わり映えのしない品書きに添えられた花のようなもの。頼むのは悪手だ。この食堂の良さの全てを打ち消す禁忌の食い物である。
「ば、馬鹿な……」
注文したのは女だ。細い眉、青白い肌、藁人形のように束ねられた髪には艶がない。鯨幕のそれを連想させる輝きのないただの白と黒の双眸はかつ丼を捉え、骨と筋の目立つ手首は卵をとくような動きでかつ丼をスピーディに口へと搬送し、溜まった熱は水を流し込むことで冷却。
驚く俺の目線など気にかけることもなく、女はかつ丼を食い切り、自分に残っている唯一の感情は勝利だけとでも言いたげに少し強くどんぶりを置いてその音をかちどきの声とし、素早くその場を去っていく。
「畜生」
男しか好まないような食い物ばかりで男ばかりの客層の食堂に姿を現し、俺の目を剥かせる嵐のような速度の、機能美に特化した食事。人間の短い生涯で最も脂の乗るのは20代と言われているが、その20代と思しき女が、それも東京のオフィス街に居を構える一流企業で働いているであろう高貴な女が! 自らを省みず、下賤と思われようとかまわず己の欲望に忠実に行動をする!
俺の負けだ。安い身分の者が安い行動をするのは当然のことであるが、高い身分の者が安い行動を気高く行うと安き身分の者はただ圧倒されるだけだ。
ここのかつ丼はあの女の好物だったのだろう。好物に貴賤はない。地獄の王だろうと人間の生き血は好きだ。総理大臣の好物が3,500円のカツカレーだろうと、それを慕い、食す行為にはなんら異論はない。そのためには省みぬ。勝者にのみ許された、安いも高いも貴も賤も選択できる権力! そこが俺とは違うのだ!
「このままでは済まさぬ」
ぼそりと呟き、俺はうどんを一気に啜り、既に人ゴミに消えつつある女の背中に視線を張り付ける。
俺が完全なる敗北を喫するのは、あの女が金を持つ裕福な者だった時だ。450円のかつ丼どころか4,500円のかつ丼を食べることすら一笑に付すほどの経済力を持ちながらも、この社会の片隅の安いかつ丼を食べるためにわざわざ足を運んだというのなら、俺はもう口出ししまい。その時は高き者でありながらその高さを誇示しない姿勢に敬意を送ろう。
「俺の負けだ」
後をつけたコンビニで女がタバコを買った際に表示されたPASMOの残金9,570円を
見て俺は完全敗北を悟った。
『攻殻機動隊STAND ALONE CONPLEX』のDVD-BOXは、日本語版では1万円を超える。しかし、日本語吹き替え付きのフランス版では2,600円程度で手に入れることが出来る。同じ内容であるにもかかわらず、溝を感じさせてしまうのは、やはり亡霊のせいだろうか。
この街を一匹の亡霊がうろついている。金に糸目を付けずに行動し、より派手に袖を振ることを宿命づける、資本主義という名の亡霊が。