東京悪魔も覚悟を決めろ
「夕子特製生ハムとズッキーニのパスタとカフェラテ」
「うむ」
とある休日の午後、俺は夕子の店で空前絶後の握力と眼力でスマートホンと対峙していた。松田へ送信した謝罪メールの返事待ちである。
夕子とアールマティの協力を得て、松田に対し俺が出来ることは、口説くことや機嫌を取ることではなく、謝罪が先であるという課題が浮かび上がっていた。一にも二にも謝罪である。あの日、松田が逃げてしまったこと、その原因は松田にあったのではなく、俺の失言にあったことが明らかになった。個人と個人の間で行われる謝罪に第三者が入ってはらならない。この場合、俺が松田に謝罪をするのに、夕子を引き連れていくのは卑怯だ。
「腕を上げたか? 夕子」
「食っていけないと困るんだよ。客が来ない理由はいろいろあっても、リピーターが来ない理由が料理がマズイじゃやりきれないからね」
エプロンを畳んでカウンター席に腰かけ、スパーとタバコをふかす。夕子に甘えることはもうできない。
「メール返ってきた?」
「そう簡単なものではないぞ夕子」
「そうだろうね。何しろ地獄の、いや、天界の要人になろうってお方だ」
「茶化すな」
俺もタバコに火をつけるが、一向にメールは戻らない。松田と二人で行った東京ドーム、どうしてもあの時のことが頭をよぎる。メールが戻ってくれば、またあの時と同じように松田と楽しく過ごせるだろうか? 答えは否である。松田に謝罪をし、許されても、俺は松田の腐女子なる深淵の趣味と向き合い、受け入れることになる。それは俺の知らない松田の領域に踏み込むこと。関係が進展すると、松田は変わってしまうのではないだろうか? あのドライで飄々とした強者、松田のウェットな、弱点ともいえる部分を俺は期せずして知ってしまった。松田に許され、再び向き合った松田は、果たして同じ松田と言えるだろうか?
だが、やはりまた一緒に東京ドームにも行きたい。どうしても松田に許されたい。
「ぬう?」
「返ってきた⁉」
「おお、松田からメールが返ってきたぞ!」
「おぉ、おう」
俺のスマホを覗き込もうとした夕子が急に身を翻し、両手の前でバツ印を作る。
「ヴェルと同じタイミングで見るのは反則だね。芳しくない結果だったら嘘ついてもいいよ」
「俺はお前に嘘を吐かぬ。ぬ」
そうは言ったものの、夕子はやはり興味津々なようだ。俺の一挙手一投足に過敏に反応する。
「案ずるな夕子。どうやら怒ってはいないようだぞ」
「やったじゃん。まぁ、こんなに速くメール返ってくるぐらいだし、可能性はあるよ」
「そうだといいな。しばしここを離れる。また戻ってくるぞ」
急いでカフェラテを飲み干し、俺は駆け足で夕子の店を出た。今にでも走り出したいぐらいだ。だが呼吸が荒れて喉の奥がじりじりと焦げ付くように痛い。スマホカバーに仕込んだPASMOを叩きつけるようにして改札をくぐり、高田馬場から新宿に向かった。
「松田!」
そして松田は、新宿の画材屋の前で所在なさげにスマートホンをいじっていた。相変わらず覇気のない真っ黒な瞳、あか抜けない服装、夕子に比べて地味な髪型、アールマティやカマエルのように息を呑むような美しさもなく、全体的に漂うマイナスの空気感。松田に他ならない。
「すまぬ!」
松田が俺に気付くのと同時に俺は頭を下げた。例えメールで謝罪をしようとも、会えば真っ先にすることはやはり謝罪と決めていたのだ。
「あぁいいですよ、全然気にしてないんで。むしろヴェルさんが気にしてたことが意外でした。っていうかやっぱりアレ、ヴェルさんだったんですね。まさかなぁとは思ってたんですが」
「あの日、秋葉原にいたのは俺だ。そして衆目の前でオタクについて否定してしまった」
「ちょっと驚きましたけどね。急に名前呼ばれて袋叩きにされかねないこと言い始めるんですから」
松田の口調は軽い。あの日の東京ドームと何も変わりはない。俺だけが気にしていたのか? 松田はもとより気にしていなかったのに、夕子やアールマティを巻き込み、俺だけがうじうじとしていたというのだろうか? 無味乾燥なメールの文字では伝わらない互いの言葉の感触……。
「お前を傷つけてしまったこと、そして場をわきまえぬ言葉と大人にあるまじき乱暴な言動、改めて謝罪する」
「いや本当にもういいですって。あんまり謝るんならまた逃げますよ?」
「すまぬ……」
嗚呼、これだ。これが松田だ。木の葉のようにヒラヒラと俺を翻弄する態度や言動、これこそ、俺が……
「でも……つまりそういうことですよね? オタク呼ばわりしたことを謝ったってことは……」
「先に言わせてくれ松田。俺はお前のことについて詮索をしない。話したくなければ話さなくていい」
松田が顔を真っ赤に染め上げ、拳で口元を隠して俺のいないどこかに視線を向ける。
「やっぱり知っちゃってるじゃないですか」
「それはすまぬ。だが、あくまで俺のことだが、俺は気持ちを改めた。全ての趣味は普く高貴な趣味であるとし、全ての趣味を差別しない」
「まぁ、いいですよ。この程度でオタクやめられるんならとっくにやめてますし……」
「……」
「知っていいですよ。教えます」
「……」
「わたしはオタクです。漫画オタクですよ。ほら、これ」
松田が俺の前に、指を目いっぱい広げた右手を掲げる。その中指には奇妙な突起物がある。
「ペンダコです。元々野球オタクの漫画オタクで、脱サラしたわたしは漫画を描いています」
「ぬぅ……」
「情報が渋滞しちゃってる感じですよね?」
「そうだな。少し」
果たしてこれは知っていいことだったのだろうか。俺と松田が、何のトラブルやアクシデントもなく、順当に東京ドーム以降の付き合いを続けていったとすれば、松田はいつかこのことを俺に告白したのだろうか?
「ヴェルさんは確かお堅い職ですよね?」
「いや、それは違う。吹けば飛ぶようなベンチャー企業だ」
「しかし、わたしは貯金と気力と体力の許す限り、漫画家を目指すことにしたんです。BLじゃないですよ」
「そうか……」
「そんな感じですね。でも、よかったです。わたしはどこかでヴェルさんに嫌われたのでは、と勘違いしているところがありました。わたしに私生活の知り合いはいないので。誰も野球の話なんてできませんし。ましてや会社でなんて」
「そうなのか?」
「そうですよ。宗教と政治と野球の話は基本NGですよ。しかもジャイアンツファンなんて……。ジャイアンツファン全員をディスってるんじゃないですけど、わたしみたいなのが好きって言うと、強者にすり寄る腰巾着の雑魚感が出てしまうんで、ヴェルさんみたいに堂々とした方がジャイアンツファンを公言するにはいいんですよ。王道のファンって感じで」
奇しくも俺は、悪魔であり天使でもある宗教色の塊、さらに地獄の政治と天国の政治のトップをつかさどるルシファーとミカエルの血筋である。
「我が社は社長もジャイアンツファンだからな」
「そうですか。いい職場じゃないですか。あああ……」
ここまでつらつらと言葉を連ねてきた松田が急に歯切れ悪くなる。
「ヴェルさんお気に入りの選手、今、首位打者ですしね」
「そうだな」
松田は俺に嫌われたくなかった……。なんという救い! なんという許容、容赦! あまりにも俺に都合がよすぎる。夢ではあるまいか?
「これでよかったんですよ……」
松田が複雑な表情を見せる。その一挙手一投足に俺は過敏に反応する。
「ヴェルさんが困惑するのもしょうがないと思いますが……。変わらぬお付き合いをしていただけるなら幸いです」
今度は松田が頭を下げた。俺ももう一度頭を下げる。
「ああ。俺の方もそうしてくれるとありがたい」
顔を上げた松田は、どこか疲れたようにイッヒッヒと妙な笑みを顔に張り付けていた。
今日、俺が悪魔である身の上、それも天使に変わりつつある悪魔という説明が難しい状態を話すのは得策ではないだろう。今日は、松田の番だったのだ。OLをやめ、一時的に無職になり、次は漫画家への転身を果たそうとする松田が、その身の上を俺に話す番だったのだ。だから今日は俺の話は出来ない。松田も漫画家を目指す決意を俺に話すのは並々ならぬ覚悟だっただろう。松田にとって大事なことであるはずのその話、その決意が、俺が身の上の告白をすることで薄れてしまう気がする。尊重するためにあえて何も言わないことも必要なのだ。
俺は次回があると勝手に思っていた。
そして! 松田はまだ、俺とベルゼブブ殿の関係を知らず、俺をアイドルオタクだと勘違いしている。その誤解は解かねばならない。真実ではないし、松田がアイドルオタクをどう思っているのかもまだ不明だ。
「……ヴェルさんの知り合いで、絵とか得意な人いませんか?」
「絵か?」
「漫画の手伝い、或いはわたしに絵を教えてくれるような人がいたら助かるなぁって」
再び松田の顔が火炎の如き真紅に染まる。まだ、松田の中では漫画家を目指すという言葉はそれほどに重いのだろう。それ故に俺は丁重かつ慎重にそのことを扱わねばならない。
「もちろん、タダとは言いません。いや、忘れていいです。本当に図々しいですよね。ちょっと疲れてるんですよ」
真っ先に浮かんだのは鈴木だ。鈴木は文才と画才に長ける才媛。だが鈴木はプロであり、環境や報酬を選べる立場にある。加えて苛烈な鈴木は松田との相性が悪いように感じる。それに鈴木は多忙だ。しかも三枝の育成が鈴木の仕事である。やり方に問題はあれど、三枝を放り出すことだけはしてほしくない。
次に浮かんだのは三枝だ。時間と伸びしろを過分に持ち、イラストを得意とする鈴木の直弟子ということは三枝にも絵の才能はあるのかもしれない。いくら三枝がダメだとしても、松田は三枝を決定的に壊すような性格には思えない。三枝と松田、両者の環境を変えるためにも三枝を紹介するのはいいのかもしれないが……。松田にはそんな余裕はないだろう。それに本音を言えば、俺は三枝には、いつか鈴木に感謝するようになって欲しいと思っている。
次に思い浮かんだのは……
「画才のほどはわからぬが、尋常ではなく漫画が好きな者を一人知っておる」





