表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京大魔境編
37/43

東京悪魔は慈悲深い

 夢の中で、俺は金魚と戯れていた。おそらく、昨日の夕方に、風呂場でかつて金魚のいた水槽を洗っていたからなのだろう。金魚が死んで数か月。ベランダに放置していた水槽には雨水が溜まり、底の砂利は苔むしていた。次の金魚を受け入れるならば、準備はしておかねばならないと常日頃から考えていた。だが何故昨日手入れをしたのかはわからない。

 覚醒を告げる鐘が鳴る。憂鬱な月曜日の朝が来た。一週間のうち、思うがままに眠ることが出来るのはたったの二日。働き始めて12年になるがいつまで経っても朝起きることには慣れない。歯を磨き、髪を整え、ネクタイを締める。だがまだいまいち目が覚め切らないというか、怠さや熱っぽさを感じる。体調不良と言うほどでもないが、この違和感は平日のルーティンが崩れるようで不愉快だ。だが風邪をひくような季節でもない。


青山(あおやま)さん」


「なんだ三枝(さえぐさ)


「今日、仕事の後お時間ありますか?」


「ある」


「お話したいことがあるんです。お食事ご馳走しますんで」


 始業直後に三枝に声を掛けられた。相変わらず蚊の鳴くようなか細い声、卑屈な猫背だ。そんな三枝を慮り、慎重に言葉を選ぶ。おそらく三枝は鈴木からのプレッシャーによりギリギリの精神状態で過ごしている。俺の言葉が決定打になり、パワーハラスメントだと告発されると非常に困る。学歴とスキルのある鈴木ならばどこの業界でも引く手数多だろうが俺には何もない。俺の履歴書は白紙だ。同じ白紙でも三枝の白紙とは訳が違う。あちらは18歳だがこちらは30歳だ。もう若さを買ってもらえる年齢ではない。


「それは不要だ。俺が奢ろう。どこか行きたい場所でもあるのか?」


「青山さんに行きたいところがなかったらどこでもいいんですけど……池袋……池袋だと助かります。帰り西武池袋線なんで……」


「わかった。お前が」


 お前呼ばわりはパワハラにならないだろうか?


「遠慮をしない程度の店を探しておく。食事は奢る。話もする。いい店があれば情報はスマホに送る。だが一つ条件がある。現地集合だ」


 職場から池袋までは有楽町線で10分だが、有楽町線は山手線を貫く路線である。うっかり池袋を乗り過ごすとおそらく俺は死ぬと思われるため、有楽町線に乗ることは出来ない。


「好き嫌いはあるか?」


「魚介類と知名度の低い野菜と所謂粉モンがダメなんです。ごめんなさい」


 少し腹が立つ。


「それだとマクドナルドぐらいしか行けないぞ」


「マックでいいです」


「本当にマクドナルドでいいのか? 俺は冗談のつもりで言ったのだが、奢ってもらえるチャンスだぞ?」


「マックでいいんで! 本当に申し訳ないんで……面倒でごめんなさい」


「よかろう。18時30分にマクドナルドだ」


 その後は特に変わったこともなかった。正体不明の違和感はあったが、仕事に支障はなく、普段通りに業務をこなした。何もおかしくない日だ。昼休みには金魚の種類の一覧を調べてみた。次に金魚を飼うとしても、やはり和金がいい。この歳になって金魚すくいに必死になるのは俺が理想とする大人の像ではないので、ペットショップで和金を買おう。


「定時だな。帰る」


 いつものように誰も止めはしない。いつものように退社し、徒歩で1時間の池袋に向かう。しかし、池袋のビル群が見えてきたのと同時に、足が鉛を巻かれたように重くなってきた。怠さ、熱っぽさも増してくる。この感覚を俺は知っている! 山手線の呪縛だ。山手線を無理矢理跨ごうとした時に俺を襲う忌まわしき聖なる呪いだ。秋葉原で松田を走って追いかけ、急性の呪縛で失神し、初対面の……いや、まだ顔も名前も知らない夕子に救出されたことは記憶に新しい。


「何ゆえだ」


 指定したマクドナルドは山手線の輪の中だ。そもそも駅の中までなら問題なく動けるはずなのに、まだ駅も遠いこの場所で呪縛を感じてしまっている。何かがおかしい。


「或いは朝からか?」


 起床時から感じていたこの違和感、その正体も呪縛だというのか? 安全な場所に居を構えているというのに!


「そんなはずがなかろうが。待っておれ、三枝よ。俺は負けぬ」


 一歩ごとに重くなる足を無理やり進め、マクドナルドを視界に入れる。


「待たせたな」


 到着したころには額にじっとりとした、拭わねば消えないような汗をかいていた。


「お疲れ様です青山さん。すみません……カウンター席しか取れませんでした」


 部活帰りの高校生やしゃれた格好の大学生たちが談笑する中、かなり浮いているとも言えるほど地味な三枝はたった一人、カウンター席で縮こまりながら、充電ケーブルをへその緒のように繋いだスマートホンとにらめっこをしていた。その姿を観ていると、大人である自分が苦しいだの、辛いだのとは言ってはいけない気がした。それほどに一人ぼっちの三枝は悲しく映った。


「構わん。楽にしろ」


「すみません」


「何が食いたい? 新作のバーガーか?」


「席を取る時に食べたアップルパイで十分でした」


「そうか。して、俺に何用だ?」


淡崎(あわさき)さんに、青山さんと話してみることを勧められました」


「淡崎が?」


「辛くなったら青山さんと話してみろって。何かが変わるかもしれないと」


「やはり辛いか」


鈴木(すずき)さんは何も悪くないんですよ。でも……」


 口が滑り、やはり、という言葉が漏れてしまったが、鈴木の名前は出していない。今度は三枝が口を滑らせてしまった、ということか。


「いいか三枝。鈴木を悪く思いたくない、という気持ちは理解できる。鈴木を悪く思い始めてしまえば、お前は自分の問題を棚上げし、鈴木を恨むことで現実から回避するだろう。それはお前の成長を妨げる。だからお前は鈴木を恨んではいけない。だからこそ、俺が言わねばならん。鈴木にも問題は、ある。俺はお前や鈴木とは仕事が違う故、わかりきったようなことは言えない。特に技術の問題はな。だが組織とは人間関係だ。人間同士の問題には俺にも口を挟む権利がある。いいか、鈴木は厳しい。俺の叔父がこんなことを言っていた。叱られているうちが華、叱られないのは無関心だ、と。この言葉を借りれば、鈴木はお前を見放してはいないということになるな。俺はお前よりも鈴木との付き合いが長いから、あやつが他人にも自分にも厳しい完璧主義であることは知っている。完璧を求め、お前を叱る鈴木のその言葉の中に、悪意はない。だがお前が壊れるほど叱ってもいい理由にはならん」


 牛乳をすすり、口の中を潤わせる。三枝は俯いたままだ。


「社会、という広い目で見れば、お前と同等、或いはそれ以上に過酷な環境に身を置くものもいる。おそらく社会人のほとんどはお前と同等に厳しいだろう。だが茹でガエルを知っているか? 冷水に浸したカエルは、徐々に温度を上げていけば湯の温度になっても湯から出ない。だが初めから湯に入れれば熱さに耐え兼ね飛び出す。社会人は皆、湯の中のカエルだ。しかし、お前の場合は鈴木が温度を上げる速度についていけていないのだろう」


 俯いたままの三枝がぎゅっと目を瞑った。


「鈴木も完璧ではない。あやつも未完成、そして後世を育成するのは初めての経験だ。だから鈴木を恨むことを拠り所にするな。鈴木に叱られ続けるお前に同情している淡崎のような人間もいる、ということを拠り所にし、耐えろ。俺は何もできん。だが淡崎ならしかるべき時にお前を助けるだろう」


「わたしは鈴木さんに憧れていたんです。一二三さんにも。ずっとブログ読んでて、まさかスカウトしてもらえるなんて思っていなくて……。でもわたしみたいなド陰キャの無能に」


「あまりそういう言葉を口するな。態度に出るぞ」


 ますます猫背になる。三枝(さえぐさ)千鶴(ちづる)も、俺が幾度となく見送ってきた春の風物詩になってしまうのだろうか? あの時の路上歌手といい、俺が興味を持った者ほど俺のそばを離れていくような気がする。


「でも青山さん、今日は話せてよかったです。青山さんの言う、淡崎さんの救いの手が青山さんだということもわかりました。青山さんが、鈴木さんの厳しさをわかってくれたことも少し救われました。わたしに欠けているものはきっと……才能とか学力じゃなくて、コミュニケーションだったんだと思います。助けを求めてもよかったんですね」


「そうだな」


「でも、今の精神状態では前を向けません」


「そうか。ならば俺は気長に待つことにしよう」


「はい」


「帰るとするか」


「はい。あの、青山さん」


「なんだ」


「また話しかけてもいいですか?」


「俺は一向に構わん」


「じゃあ、はい。お疲れ様でした」


 そうして三枝は西武池袋線乗り場へと去っていった。


「辞めるなよ、三枝」


 その痩せた猫背の背中が見えなくなり、周囲の喧騒が気になり始めた頃、急激に地団太を踏みたいほどの恥ずかしさがこみ上げた。


「俺は何をしている。俺は悪魔だぞ。人を堕落させ、悪の底に導き地獄で苦しめることこそ我が使命。何を……真っ当な人間のように」


 何もかもが手遅れな葛藤だ。今日、俺は悪魔ではなく、人間だった。


「目覚めの時が近いようだな、ヴェルよ」


「ぬわあああっ!」


 不意に肩に手を乗せられ、間抜けな声をあげてしまった。だが池袋の忙しい人間どもは俺のことなど全く気にかけない。


「叔父上ではないか。何故ここがわかった」


夕子(ゆうこ)もいるよぉ」


「叔父上と夕子か。さして驚く組み合わせでもあるまい。大方サンシャインシティのポケモンセンターにでも行っていたのだろう。だが世間から見るとかなり不自然な二人だ。怪しげな関係と思われるぞ」


 会社の後輩を励ますという悪魔にあるまじき行いを見られていたかと思うと顔から火が出そうだ。特に夕子には向こう三週間はからかわれるだろう。そんな気恥ずかしさをかき消すように言葉を紡ぐ。


「ヴェルよ。おかしいと思わぬか?」


「どうした叔父上。少し奇妙だぞ」


 ここでようやく俺は気が付いた。叔父上の手は、ずっと俺の肩に乗ったままなのだ。天使の中では最も格が高く、カマエルとは桁違いの聖臭さを持つ叔父上を、俺の中に流れる悪魔の血は拒み、一種の恐怖の対象でもあった。だが今は平気なのだ。背広越しとはいえ、こんな至近距離に叔父上がいて、触れられているというのに……。気配を感じることすらなかった。今朝から続く違和感が雪崩のように押し寄せる。


「お前の天使の資質が目覚めつつある」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ