東京悪魔と高貴な趣味
「お兄様、お姉様、お待たせしましたですぅ」
俺と夕子は仕事終わりの流川千晶と合流した。流川千晶は、どうやら適当にチラシを配っていたのではなく、俺と夕子から聖なるオーラを感じてビラを渡したようだ。夕子の問いかけに、強面の店長スプンタ・マンユから許可を得てゾロアスター教の大地の神アールマティであることを明かした流川に、夕子が叔父上との繋がりを告げるとメイド喫茶ぞろあすたぁはVIP待遇し、流川が俺たちの飲み放題コースが終了するまで接客し、さらにその後の秋葉原の案内役に流川が来ることになった。全てスプンタ・マンユの命令である。恐るべし叔父上。天国のナンバーツー、ミカエルの名はそれほどまでに強いのか。
「お兄様とお姉様、秋葉原のどこを案内しましょうかぁ?」
流川は黒のニーソックスにミニスカート、小さなリュックサックを背負い、女子高生の恰好をしている。世を忍ぶ仮の姿は女子高生メイドか。道理でお互いの正体を知らなかった注文時に酒を飲めぬと言った訳だ。だが正体はアールマティ。俺と夕子をお兄様とお姉様と呼ぶが、30歳の俺や21歳の夕子とはけた違いの年齢だ。
「あそこだな。地下アイドルのライブハウスの近くのけばけばしい店。その正体を知りたい」
「えー多すぎてわかんなぁい。どうしよぉ」
「桜庭梓というメンバーがいる地下アイドルの本拠地だ」
「ならこっちですぅ」
まさか桜庭梓の名前を出すだけで状況が打開するとは。神の名は伊達ではない。流川が俺たちを先導する。
「おお、確かにここだ。だが、それ以上は思い出せぬ。夕子、何か覚えておらぬか。お前もあの場所にいただろう」
「わたしはヴェルをつけてただけだから、その松田さんがどこから出てきたかはわかんないね」
「ぬぅ……」
必死に記憶を辿る。あの時、俺は何かに必死だった。松田に何か勘違いされているような気がして……
「でもさっき好きなアイドルさんはいないって言っていたお兄様が桜庭梓ちゃんが好きだったとは意外ですぅ」
「それは断じて違うぞ流川! 俺は代理で」
ベルゼブブ殿の名前は出せない。今、俺たちは叔父上ミカエルの名の下にゾロアスター教と交流し、流川についてきてもらっている。ここでベルゼブブ殿の名前を出すと話がこじれてしまう。
「俺は断じてオタクではない!」
―「待て松田! 俺は決してオタクではない! 俺はそんな下賤な趣味を持つ人間ではない! 松田よ!」
周囲の目が鋭く俺に突き刺さる。これも既視感がある。
「あの時も俺はそう言った。そう、松田はこの場から見える店から出てきた」
「その松田様というのは」
ハン、と夕子が鼻で笑った。
「要人だよ要人」
「男性ですか、女性ですか?」
「女の人だね」
「お姉様向けのお店と言えばあそこですぅ」
流川がクラーク像のように、目に悪いような輝きを放つ看板を指さした。メイド喫茶ぞろあすたぁがあったような雑居ビルではない。大通りに面した巨大なビルだ。
「確かにあのビルだ! 間違いない。あの客たちと同じ袋を持っていた! その袋を隠し、逃亡したのだ」
「え、まさかだけどヴェルさぁ、大声で変なこと言ってないよね?」
「どういうことだ夕子」
「オタクがどうとかってこと。さっきオタクと勘違いされたことを異様に拒否していたけど」
「ぬ」
「言ってんなぁこれ」
夕子が大げさな仕草で額に手を当て、飽きれたようなポーズをとる。
「何か問題があるか流川」
「割と大きな問題ですぅ。確かに今はオタク趣味は世間から一定の理解を得てますぅ。『電車男』とかもありましたし、匿名のネットで活動しやすいですぅ。でも全員がオープンオタクではないんですぅ。隠れキリシタンみたいに公にはそういう趣味はないように偽装している人もいますぅ。そういう人はオタクと呼ばれることをかなり気にしてますぅ。また、オープンオタクの人と距離を置きたがる傾向がありますぅ。隠れオタクさんは、自分自身でオタク趣味と、そんな趣味を持ってしまったオタクさんである自分を蔑んでいるんですぅ。オンオフをキッチリ分けてる分、敏感で繊細で、その秘密が知られた時は途方もなく絶望と羞恥の底に落とされてしまいますぅ」
「まさか松田は……」
「あの店から出てきて、しかも戦利品まで持っていたなら十中八九、松田お姉様は腐女子ですぅ」
「腐女子?」
「腐った女子、広義におけるオタクのお姉様ですぅ」
「どんな店なのだ。オタクと言っても幅はあろうが!」
「あそこは漫画やアニメの二次創作同人誌のお店ですぅ。真の腐女子ですぅ。男性キャラクター同士のカップリング、ボーイズラブを扱っている可能性がありますぅ」
「おおお。野球だけではなかったというのか」
「野球? ナマモノ? とりあえずわたしもあの店にはよく行きますぅ」
「愚かなり、俺!」
なんということだ! 俺は保身に走るあまり、松田の秘密の花園に踏み込み、それを貶してしまったというのか⁉ 仕事で心に傷を負った松田が、野球とオタク趣味で傷を癒していた隠れオタクだとすれば、俺の自己弁護は罵倒と同じように聞こえただろう。その言葉に松田がどれだけ傷ついたかは想像もできない。
「じゃあ、あれかな」
夕子が腕組みをして眉間に皺をよせた。
「ヴェルがすべきことは三つだ。まず一つ。オタク趣味を理解し、人の趣味を差別しないこと。二つ目、松田さんの趣味を詮索しないこと。松田さんが自ら話してくれるその日までね。そして最後。これが一番重要で難しいけど、連絡を取って謝ることだ」
「ぐぬ。そうだろうか流川?」
流川が目を細めて笑う。
「夕子お姉様の言う通りですね。ヴェルお兄様のご趣味はわかりませんが、それはとってもデリケートなもののはずですぅ。松田お姉様が大事な方なら受容は必要ですぅ。そして、松田お姉様が逃げたいほど隠したかったのなら、過度な追及は不要ですぅ。松田お姉様はヴェルお兄様に知られたくなかったのですから……。ちなみにわたしはオープンオタクなのでオタク呼ばわりされてもダメージは比較的少ないですぅ。流川千晶という名前も、『スラムダンク』の流川楓に嫁いだ、ということにしてますぅ。古くは『北斗の拳』のケンシロウとレイ、『ジョジョの奇妙な冒険』のジョセフとシーザーなんかは雑誌を読んでてドキドキしてたですぅ。でもやっぱり旦那は流川ですぅ」
こういったマンガをリアルタイムで読んでいたということはやはり、流川千晶はアールマティである。
「俺の知らなかった世界だな。店に入るのは止した方がよいだろうな」
「今日この領域に達したヴェルお兄様にはあの店は早すぎるですぅ。刺激が強すぎますぅ」
「そうだな。秋葉原の案内、大儀であった」
こうして俺たちの秋葉原における検証は終了した。俺に残されたのは、松田への謝罪という課題のみである。
「はぁ。三枝さんさぁ」
「はい……」
また三枝が鈴木に叱られている。三枝はいつものように力なく俯き、分厚いメガネには光がない。いつまで経っても松田に連絡を取り、謝る踏ん切りがつかないように、いつか助けようと思っている三枝もいつまで経っても助けに入れない。すまぬ、三枝。
「まぁまぁ幸恵ちゃん幸恵ちゃん落ち着いてさぁ」
「一二三」
ふらっと現れた社長の一二三が鈴木の後ろに回り、肩を揉む。
「千鶴ちゃんだって頑張ってるんだよ。幸恵だって千鶴ちゃんぐらいの年の頃は千鶴ちゃんみたいに……」
「お黙りっ!」
鈴木が顔を真っ赤にして社長の口を塞ぐ。社長は怪しげに眉を動かし、高笑いをしながら去っていった。
まさか鈴木も腐女子とやらではないか? まさか三枝も? だが俺はもう色眼鏡で見たりしない。松田と流川の腐女子も、ベルゼブブ殿のアイドルも、叔父上のゲームも、淡崎の野球も、夕子の料理も、鈴木と三枝の何かも、この世の全ての趣味は、普く高貴な趣味であるのだから。





