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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京大魔境編
34/43

東京悪魔は親不孝

 夕子(ゆうこ)の誘いで銭湯に行くことになった。腰痛に効く、とのことだったがもちろん乗り気ではなく、夕子を異常に贔屓する叔父上の影、そしてギックリ腰で動けない間に介抱してもらった借りがある。銭湯だと? どこの誰かもわからない馬の骨が浸かり、裸の尻で座った椅子に座り、どこの誰かもわからないガキが浴槽の中で粗相をしたかもわからない。だが夕子によると知り合いの店だそうで、開店前の一番風呂にしてくれるという。


「いらっしゃい夕子ちゃん。久しぶりだな。そっちの兄さんは……」


 番台は短く刈り込んだ金髪に、室内なのに薄く色のついた銀縁の厳ついメガネをかけ、禁煙パイポを咥えて日焼けした、俺と同年代の男。俺とは相いれないタイプのように見えるが、恰好の割に渋谷や新宿にたむろする不良ややくざ者、六本木のクラブで飲み明かす輩ではなく、心根は曲がっていない少し派手な田舎の漁師のように思える。夕子を見るや否や、まるで自身の方が格下とでも言わんばかりに読んでいた新聞を畳み、頭を下げる。そして俺を見て眉をひそめた。


「こっちはヴェル。わたしの相方だよ」


「相方?」


「ああ、相方って言ってもそういうんじゃない。お笑い芸人としての資質はあると思うけど」


「まぁ夕子ちゃんの連れってんなら。350円な」


「あ、ヴェル、50円貸して」


 掌を差し出す夕子の手に50円玉を落とす。


「返せよ」


「それぐらい返せるよ」


 夕子と別れ、男湯の暖簾をくぐる。広い脱衣所に番号が振られた籠、大きな扇風機に並んだ鏡、ポカリスエットの自販機。誰も見ていないとはいえ、こんなに広い空間で裸になるのは初めてだ。誰も見ていない、誰も見ていないとはいえ……羞恥心が乗り気ではない俺の銭湯への思いを追撃する。未だ余韻を引きずる腰を庇いながら服を脱ぐが、ふと鏡に自分の姿が映る。俺は一体何をしているんだ。本当に腰に効くのか? しかしもう引き返せない。一糸纏わぬ生まれたままの姿になり、ガラス戸を開ける。湯気で一気に視界が曇った。


「ヴェルぅ。どう?」


 壁の向こうから夕子の声がする。どうやら男湯と女湯は完全には仕切られていないようだ。壁の上の部分は繋がっている。


「まだ入っておらぬ。ぬ?」


「どうした。滑った?」


「石鹸等は備え付けではないのか」


「あぁ言うの忘れてたね。じゃあ使い終わったら壁越しに投げるから、それまで湯舟に浸かっちゃダメだよ」


 蛇口の前の低い椅子に座るが、腰に悪い。目の前の鏡に映る自分を見るとなんとも景気の悪い顔である。


「ヴェルぅ。投げるよぉ」


「おう」


「それっ!」


 壁を越え、石鹸が男湯にやってくる。落下点を見極め、キャッチするつもりだったが、この足場、石鹸という滑る相手、そして……


「夕子が使った石鹸か」


 なんという破廉恥! この壁一枚を隔て、向こう側では夕子も裸なのだ。そしてその体の隅々をこの石鹸で洗ったのだ。物質としては、これはたかが石鹸である。しばらく流水に当てれば表面は流れ落ちるだろう。そうすれば石鹸越しに夕子に触れる、ということもなくなるのだが、俺の羞恥心がそれを拒む。腰を痛めた時に見た夕子の生足、屈めた太もも、イヒヒと笑う屈託のない笑顔、そういった夕子に関するすべての記憶がこの石鹸を拒む。


「湯船に入っちゃったかな?」


「いや、床に落ちた」


「さすがにシャンプーは投げられないから、石鹸で髪洗うしかないね」


「石鹸で……髪を?」


 なおさらこの石鹸を使う気になれない。未だに後退の兆しも大きなダメージもない俺の頭髪が取り返しのつかないことになる気がする。壁の向こうで夕子が湯に浸かったのか、声をあげた。


「話はわかった」


 ぴしゃりとガラス戸を開け、番台の男が全裸で入ってくる。小柄で線は細いが引き締まった筋肉質の体で、その体には入れ墨やピアスの類は全く見られない。親からもらった体を大切にしているのだろう。小脇には洗面器に入ったタオル、シャンプー、真新しい石鹸と、入浴の必需品を2セット抱えている。


「裸の付き合いと行こうぜ、兄ちゃん。あんた悪魔だろ」


「ぬぅ」


 真っ先に股間を隠し、番台の男を睨みつける。


「貴様、何故それを」


 壁の向こうの夕子に聞かれると厄介だ。お互いに声量を落とす。


「俺も人間じゃなくてな。簡単に言うなら神だ」


「なんだと?」


 叔父上の東京大魔境計画の手は、こんな街中の銭湯にも及んでいたと言うのか! 道理で夕子の知り合いの訳だ。


「東京には一人、悪魔がいるという話はミカエルさんから聞いていた。だがさっき見てピンときた。この人だってな。俺の名前は(かがみ)真実(しんじつ)。だがそれはこの東京を生き抜くための仮の名前だ。俺の本当の名前はカグツチ。イザナギとイザナミの息子だが、俺は日本史上最大の親不孝者でね。俺は火の神で、生まれた瞬間お袋を焼き殺した。その後、俺は親父に殺された。親父は死んだお袋に会いに黄泉の国に行ったが、まぁかいつまむが黄泉の国で親父とお袋は決裂した。だから俺は高天原や黄泉の国には居づらくて、東京でチマチマ生きてる」


「なるほど、確かに……親不孝だな。デスメタルでしか聞いたことがない生い立ちだ」


「死んだ後も両親の仲に禍根を残して、その一部始終が古事記に載ってるのなんて俺ぐらいだ」


「話はわかった。入浴の必需品一揃い、用意してくれたことは感謝する。だが火の神が何の用だ。俺は悪魔だが、悪魔らしい行いはしていない。日本神話とも無縁だ。ヤオヨロズデンキには行ったが」


「直感さ。俺は火の神以上に親不孝の神。あんたがどっか、親との問題を抱えているような気がしたんだ」


「ぬ」


 確かに俺は家族関係に問題を抱えている。両親ともに健在でありながら、両親が揃っているところを見たことがない。山手線の呪縛も理由の一つだが、父上と母上も山手線の駅構内でなら会うことが出来る。母上が山手線の外に行けば、二人はどこででも会える。しかし、母上はそれをしなかった。父上が母上との再会を願い、未だに未練を持っているにもかかわらず、母上が父上を意識的に避けているのが幼心にもわかっていた。

 母上は「悪魔の子を普通に育てるのはもったいない」と、出生届も出さず、俺は学校にも通わず保険証も持たなかった。しかし母上は俺を甘やかさなかった。叱る時は厳しく、しかしそうでない時は気さくによく笑い、人間としての俺を問題なく育ててくれた。しかし、人間として問題はなくとも、母上は結局、俺を悪魔には出来なかったのである。そして、母上が俺を品川の路上で生み、生まれながらに山手線に封印してしまったその事実に、時に袖を濡らすほどの罪悪感に苛まれていることも俺は密かに知っている。その責任感の強さが、母上の俺への教育のメリハリに繋がったのだろう。そして抱えきれない罪悪感の矛先が、山手線を跨げず、俺にも母上にも会いに来ることが出来ない父上にも向かった。

 そのために、18歳で家を出て以降、大人としての自分と悪魔としての自分は父上と叔父上に頼っていく、と決め、母上と少し距離を置いたのだ。母上と過ごした幼少の期を人間としての自分と子供としての自分と位置づけ、子を持った喜びを一切感じることの出来なかった父上への親孝行のつもりで大人になってからの俺は父上に接した。

 決して俺と母上との間に確執はない。山手線に封印された生まれを呪ったことはあったが、母上を恨んだことはない。大人になってからも、母上は食事に誘ったりしてくれる。俺が熱を出して寝込んだ際には、直感で俺の危機を察し、ふと連絡をくれたこともある。だが、俺から母上に連絡したことはほとんどない。俺は母上が父上にしたように、意識的に距離をとっていた。父上に比重を置いた今、母上とは今までのように付き合えないのだ。そして両親の関係は、俺にはどうにもできない。

 ふと考えれば、俺は鏡真実と同じく、生まれた瞬間から両親に溝を作った親不孝と言える。


「まぁ、初対面の俺には話せないことはあるわな」


 鏡真実は達観したような言葉を吐き、頭を洗った。


「鏡よ」


「おう」


「貴様も大変だな」


 どことなくこそばゆいセリフだが、俺も鏡真実も親不孝を嘆く仲であり、加えて人間ではない。ゆっくりと湯に浸かり、ここ最近の心労と腰の痛みを癒した。鏡真実という新たな友人候補に出会えたこの機会、そこは夕子に感謝したい。


「どうだった?」


 風呂を上がると、妙に肌つやの良い夕子がマッサージ椅子に腰かけていた。随分と気分がいいらしく、時折マッサージ椅子の動作音に合わせて快楽の声を漏らす。


「あの鏡と言う男、見た目のわりに意外といいやつだな。あやつとは仲良くなれそうな気がする」


「ヴェルにしちゃ珍しいねぇ。っていうか鏡っていうんだ、あの兄ちゃん。知り合いだけど名前は知らなかったよ」


「俺と鏡は親不孝仲間だからな」


「親不孝か。わたしもそうだな」


「そうなのか?」


「親から仙人破門食らってるからね。美味しいものを食いたいことがそんなに悪かったのかな?」


「……貴様も大変なのだな」


「そうだよぉ」


 鏡真実に対し、仲良くなれそうだと心を少し許したこと、それはここ最近、俺の心の城壁を無理矢理乗り越え、俺を幾分柔和にした夕子の存在が大きいように思える。


「貴様とはこれ以上仲良くならんがな!」

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