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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京大魔境編
33/43

東京悪魔と魔女の一撃

 休日である。

 昼前に目を覚まし、軽いブランチを摂り、紅茶を淹れる。テレビの音量を少し大きめにし、リビングの片づけを衝動的に始める。だんだんその気が湧いてきて、本格的な片付けと掃除を始める。なんと優雅で有意義な休日だろうか。家事に時間を投じ、今夜は心地よい疲れで安らかな眠りにつくだろう。


「ぐあああ!」


 一仕事終えた掃除機をしまうべく、持ち上げた瞬間、腰に激痛が発生。そして熱を帯びたように痛み出し、横隔膜を締め付けられたように呼吸が整わない。全身から汗が吹き出し、混乱と痛みに目を見開く。少しも動くことが出来ない。なんとかポケットのスマホを取り出し、現在俺の身に起きている現象をうめき声混じりに入力する。


「腰、突然、激痛」


 浮かび上がったワードはギックリ腰、通称魔女の一撃である。


「ぬ」


 だがそんなことはまだどうでもいい。この腰の痛みがギックリ腰だろうが他の理由だろうがどうでもいい。今、この場で動けないこと、耐えがたき激痛をどうにかせねばなるまい。助けを呼ばねばならない。


「母上……父上……叔父上、斎藤(さいとう)、カマエル、松田(まつだ)淡崎(あわさき)、ベルゼブブ殿、夕子(ゆうこ)……」


 なんということだ。俺のスマホに呼べる助けは9人しかいない。保険証を持たない俺は救急車を呼べないのだ。そして救急車で山手線を無理矢理跨ごうとすればおそらく俺は死ぬと思われる。


「母上か?」


「どうしたのヴェル。声がおかしいわよ」


「腰が痛い」


 なんとも子供じみた訴えだ。いつまでも子供でいるつもりはなかったが、これでは風邪に苦しむガキではないか。


「落ち着いて話しなさい」


「そう、あれは突然のことだった。掃除機を持ち上げた途端腰に激痛が走り、動くことが出来ぬ。スマホの情報ではギックリ腰だ」


「ギックリ腰ね。闇医者を回す? ギックリ腰じゃ痛み止め程度しか出せないと思うけど」


「ならば闇医者はいらぬ。ぐぉ……」


「だいぶ痛そうね。行った方がいいかしら?」


「いや、大丈夫だ」


 この年になってもまだ母上の声を聴いて幾分落ち着いてしまった自分に嫌気がさす。18歳で家を出た時、母上から少し距離を置き、困った時は父上と叔父上を頼って生きていくと決めた。しかしどこかで、人間としての痛みを感じると、この肉体を作った母上に本能的に縋ってしまうようだった。理性は悪魔の父と天使の叔父上に、本能は人間の母上に……。


「すまぬ母上。もう大丈夫だ」


 電話を切り、心の無事を確かめる。腰は折ったが心は折れない。さまざまな呼吸を使い、動こうとするが痛みには勝てない。そして一つ思い出した。


「風呂場の水道!」


 最高の休日を送るべく水を張り出していた風呂の水道は全開に近い! このままでは水道代が俺の財布の限界を超える。


「叔父上!」


「どうしたヴェル。随分と余裕がないな」


「話は後だ。動けぬ」


「話は分かった」


 一体何がわかったというのだろうか。


「すぐに向かう」


 約30分、俺は痛みに耐え抜いた。仏教の地獄のような永遠に近い時を過ごした。


「ヴェルよ。凛々子殿から話は聞いた。鍵も借りた。開けるぞ」


「うむ!」


 錠が開かれ、スリッパを履いた叔父上の神経質な足音、しかし足音は一つではない。


「ソファまで動けるかヴェル?」


「何をしに来た夕子!」


 俺の視線は手を差し出す叔父上を貫通し、背後で部屋を詮索する夕子に突き刺さった。


「ミカエル、あったよ風呂場。もう溢れてるけど」


「締めてやれ」


「了解」


 断続的に続いていた水の音が途切れ、靴下を脱ぎ、裾をまくった生足の夕子がリビングに現れる。ピカピカのフローリングに夕子の足跡がつく。


「どうしたヴェル。どうしたヴェル‼ 何故夕子に礼が言えんのだ‼」


「ありがとう夕子。ありがとう叔父上」


「そうだ。それでいい。よくできた。私も少々熱くなってしまったな。だが痛みに屈し、人として当然の礼儀さえも忘れ吼えるようではただのけだものだ」


 何ゆえに俺はここまで言われねばならないのか。これが夕子の言う「輪っか出る」という状態だろう。


「して、何ゆえに夕子が?」


「凛々子殿から話は聞いていると言っただろう。何しろさっきまで一緒にウォーキングをしていたからな。お前が凛々子殿に電話を掛けた時、実は私もいたのだ。ギックリ腰と聞き、サポートが必要だと知った私は夕子を呼んだ」


「サポート? 夕子に何ができる」


「逆に聞こう。水道の栓すら塞げぬ今のお前に何ができる。夕子は幸いにもヒマだ」


 叔父上と母上の関係についても深く気になるところだが、夕子はテレビのリモコンをちょいとつまみダイヤルを回し夕方のアニメを映す。


「ほらヴェル、今日は後編だからトリックが」


「言い訳をするぐらいだから俺の言いたいことがわかっているようだな」


 若い女性の好みそうな、血管の良く浮いた叔父上の手を握るが立ち上がることは依然できない。


「動けぬか」


「動く気すら挫かれる。叔父上の特別な力などで……いやダメだ! 死んでしまうぞ!」


「そうだな。私の祝福では死ぬだろう。夕子、仙人の秘術などはないか?」


 夕子が腕を組み、首をかしげる。


「今のわたしにできてヴェルに効果のあるものはないかな。でもこれをあげよう」


 夕子の指が俺の口に刺激物をねじ込み、水を飲ませる。


「なんだこれは」


「偶然持ってた頭痛薬だよ」


「忝い」


 夕子を贔屓する叔父上がいるのだからまた礼を言わねばまた雷を落とされてしまう。


「まさかこんな理由でこんな凝った殺し方をするとはな!」


 しかし叔父上はアニメに夢中である。


「夕子はここに置いていく。私は仕事があるからな」


「待ってくれ叔父上! 俺はもう大丈夫だ!」


「ならば立ってみよ」


「ぐぬ!」


 まるで聖書の一節のようなセリフだ。


「ここのテレビはチャンネルが多いね」


「と、夕子もここが気に入ったようだ。しばらく面倒を見てもらうといい」


「ぬう!」


 しかし現実を観れば、叔父上か夕子、どちらかがいなければこのギックリ腰の前に手も足も出ないのだ。食事もとれず、トイレにも行けない。


「夕子よ。ヴェルを頼んだぞ」


「オッケーミカエル」


「だが私からも言っておく。あまりヴェルの嫌がることをしてやるな」


「なにそれ。フリ? なんて冗談だよ。ちゃんとやるよ。こっちもいい大人だしね」


 夕子が親指をぐっと立てると叔父上は満足げに頷き、俺の顔を覗き込む。


「私は帰るぞ。いいな?」


「すまぬ叔父上」


「邪魔したな」


 リビングに這いつくばっている俺の視界から叔父上のスラックスが去り、夕子の生足が現れる。この家には俺と夕子がたった二人だ。


「なんて言ったところでわたしにできるのはここで生活することぐらいだ。まずはメシかな。ヴェルはまだ動けないでしょ?」


「動けぬ」


「刺激物もよくなさそうだなぁ。タバコぐらいにしておきなよ」


「理解があって助かる」


 今度は夕子の白い指が俺にタバコを咥えさせ、屈みこみ、火をつけてすぐ顔の下に空き缶を置く。


「やっぱ普段からストレッチとか筋トレしないとそうなるのかな? 腰って字には要って入ってるぐらいだからやっぱ痛めるとヤバイね」


「俺の不養生が招いた失態だと言うのか? 俺はこれでも普段からジムに」


「まぁそれは置いといてメシだな。さっき冷蔵庫見たけど宝の持ち腐れだよぉ。あんな食材、わたしの店にはないね。賞味期限が近そうでわたしの好みのものから使おう。これは美味しい料理ができそうだ」


 夕子が持参したグリーンのエプロンを巻き、キッチンに立つ。腰を痛めた介抱をされ、食事まで作ってもらえる。なのに俺の中では何か夕子への嫌悪のようなものがあぶくを立てる。


「俺の秘蔵のワインでも飲むか? いいワインだぞ」


「わたしは下戸だ」


 その正体不明の嫌悪を振り払うように夕子に好意的な言葉を投げかけてもこうなる。腰に加えて心まで病んだか。俺はどうなっているのか。しばらくしてようやく激痛の初動の恐怖をはねのけた俺は、小鹿のように立ち上がりゆっくりとソファに腰かける。やっと見渡した我が部屋……有意義かつ優雅に掃除した我が部屋はまるで夕子を迎えるためだったかのように思えてしまう。


「夕子特製、店じゃ作れないレベルの野菜たっぷり冷製パスタ。少ない動作で食べられるように麺だよ」


「すまぬ」


 冷める心配のない冷製パスタか。こんな厚意を受けてまで何故俺はこんなにも夕子を……。


「ヴェルは時間かかるだろうからじっくり食べなよ。わたしはお風呂もらうよ」


「何⁉」


「お風呂をもらうよ。ヴェルは入れないけど、あんなになみなみ入れといて捨てられるんじゃお湯が浮かばれない」


「つまりお前はその……脱ぐのだな?」


「落ち目のグラビアアイドル相手でもそんなことは言っちゃいけないよ」


「ここで脱ぐなよ! 脱衣所で……」


「いくら相手が動けないヴェルとは言えそんなことはしない。バカかわたしは。止められるもんなら止めてみなぁ。わたしは風呂に入るぞぉ。シャワー以外は久々だぁ」


「既に俺の水道代は……夕子! 貴様がやっていることは人間の仮面をかぶった野獣だけができる許しがたい空前絶後の傍若無人な反人倫的……」


 などと言葉を並べても夕子を止めることは出来ない。浴室で夕子がお湯を被る生々しい音や鼻歌が聞こえる。俺の浴室は今、初めて俺以外を受け入れたのだ。俺の縄張りが夕子に侵略されている。魔女の一撃目は腰だったが、魔女の攻撃はまだ続いている。


「やはり夕子は叔父上と帰らせるべきだったか」


 またもや仏教の地獄のような長い時間の辛苦を受ける。ドライヤーで髪を乾かす音の後、洗面所から湿気と甘い匂いがして、俺の仕事着のワイシャツを寝巻替わりに着た夕子がやってきた。薄手の生地だ。なんという恥じらいのなさ! なんという傍若無人!


「ちょっと調子に乗りすぎたかな。でもその様子じゃ明後日は仕事休みでしょ?」


「仕事は休むが、泊っていく気か夕子」


「もち。どうせ誰も来ない店さ。仕方ないから寝室借りるけど、困ったらいつでもスマホで呼んでよ。ポータブルバッテリーとスマホは繋いでお……自分で繋いだ方がいいか」


「そうだな。それは俺にやらせろ」


「本来なら面倒な客のわたしがソファなんだろうけど、ヴェルもう動ける?」


「まだ無理だ」


「ベッドは清潔に使わせてもらうよ」


 それからしばらくして夕子は俺の寝室に入って電気を消した。俺は眠れぬ夜を過ごすことになる。夕子の多少の悪意混じりの厚意は、今の俺からすれば差し引きでプラスだ。夕子のコーヒー以外の料理は初めてだったが、確かに店を開けるほどの腕前の手料理だった。確かに風呂に入ったりというような調子に乗った行動はあったが、誰かと生活をすれば、他者が自分の生活に入り込むことは普通である。その心構えをしていなかったので今の俺は夕子への愛憎が入り乱れる感情の渦中にいる。人間としての俺と悪魔としての俺、その二律背反で人間関係を分けて考えようとしながらもそうはいかないように、夕子をどう思い、どう接すればいいのかが今、わからない。妹のように思えばいいのか? その傍若無人さゆえに……


「まるで自分がこの部屋の王者であるが如く振る舞……」


 ハッと気が付いた。


「松田に似ているのか」


 その傍若無人さ、その他者の目を気にしない振る舞い、自己を他者に踏み入れさせないようドライを演じ生きる様は、在りし日の松田に似ている。いや、松田が俺と出会い、本質が変わったのかすらも俺は知らない。あの日、秋葉原で松田が何をしていたのか、松田がなぜ逃げたのかも俺はわからないままなのである。その問題を抱えたまま俺は夕子と出会い、さらに問題を重ねていく。俺自身も他者が踏み込めない領域を俺も知らぬ間に作っており、そこには松田も夕子も招き入れなかった。しかし叔父上は強引に夕子をそこに押し込んだ。それこそが、停滞している俺と夕子の「深いところでの付き合い」というものなのだろう。だから夕子は「調子に乗った」。おそらく夕子自身も他者に踏み入ったことはなかったのだろう。俺に余裕がなかったとはいえ、今日、大人だったのは夕子の方だったのだ。

 だが夕子は松田の代わりにはならない。やはり松田は俺にとって特別なのだ。だがなまじ似てる分、無意識に俺は夕子に松田を投影し、その拒否反応が夕子への嫌悪感だったのだろう。

 決して女性への不慣れなどではなく‼


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