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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京人間模様編
18/43

東京悪魔vs探偵

 安く早く栄養分を摂取することを理想としながらも、ラーメンの誘惑にうつつを抜かし、食事を伴った良き体験を望んでバーに繰り出し必要以上の金銭を消費してしまっているのが俺の哀れな現状である。月が終末を迎えた。労働の対価でにわかに厚みを増した財布をポケットに隠し、今宵はこの店で良き体験を伴った食事をしようかと東京を徘徊し、恵比寿にある懇意のバーにて体験を購入することに決めた。このバーは下らない手品で俺を愚弄した自称魔術師や愛想のいい店主、美形だが寡黙で隙がなく、気楽に声をかけづらい女の奴隷が夜毎客共に酒や料理を振る舞っている隠れ家的なバーである。

 本日はどこの歯車共も月に一度の賃金を受け取る日であり、また翌日が土曜日であることから普段の閑古鳥が声を枯らすような店内とは一変して多くの客が訪れている。やややかましい。このバーのカクテルはこの悪魔である俺でさえ祝福したくなるほど美味であり、監獄のように薄暗い照明や家具はまだ見ぬ遠い彼の地、英吉利のパブのようであり大変に居心地がよい。安く早く栄養分を摂取するだけの日常生活で、このバーは月末のみ許された天国……などというと格が下がる。地獄のような心の安らぎを以て人間に交じって社会の歯車をやっている自分を癒す、自分への褒美なのだ。

 しかし一人では心もとない。斎藤を誘おうと思ったが彼奴は今亜米利加にあるラスベガスという賭博の町に旅行に出かけているのですぐさまここに馳せ参じるのはまず無理であろう。東京天使カマエルはどうかと考え連絡を取ってみるも、新聞拡張員の仕事が芳しくないらしく断われることになった。駆けつけ一杯と、人の生血にコキュートスの氷の破片を浮かべたようなカシスオレンジを所望し、舐めるように携帯電話の電話帳を検める。一覧のも終盤に差し掛かるま行で松田(まつだ)、という名前が目に入った。もし叶うことならば、この良き体験を松田と共にしたい。神経が過敏になり、その名を食事に誘うかどうかの因循を洗い流すようにカシスオレンジを一度に飲み干し、グラスを置いた。もし松田を誘って松田がそれに応じ、共にこのバーが齎す良き経験を共にする時、俺はどうなってしまうのだろうか。松田が俺と食事をするために赴いたとき、俺は緊張で何も言えなくなってしまうのではないだろうか。それとも酒の力に任せてあたかもお調子者であるかのように振る舞い松田を楽しませることに成功するか。そもそも松田が誘いに乗ってくれるかどうかも果たしてわからない。仮に断られるとしても「遠くにいるので今日は無理です」ならまた溜飲が下がっても「ヴェルさんと食事はちょっと……」などと俺と食事をする行為自体を拒絶されてしまったら俺はこのバーの良き体験でも太刀打ちできないほどの痛手を負ってしまうだろう。思えば松田の誘いで山手線の外にある人形町のカフェを目指し、山手線の呪縛で俺が志半ばに脱落したのはもう2か月も前のことである。あれ以降女の姿をしたカマエルと山手線を出ないように綿密なスケージュールを立て予行練習までしたが実現には至っていない。ツイッターでいいねの評価を与えてやったことはあれど、神の野郎なら8回も世界を創造できてしまう2か月にも及ぶ長期間、松田とはツイッターを介してすらも会話をしていない。松田にとって俺はどんな存在であるのだろうか。悩んでいてもしょうがないと二杯目のカシスオレンジを飲み込み、震える手で松田の電話番号をダイヤルした。俺が人間如きに臆し悪魔にあるまじき震えた声だというのに松田からは相も変わらず気の抜けた声で「今渋谷にいるのですぐ行きますよ」とこの上ない返事を拝した。俺が店名と位置を告げ、電話を切るタイミングをうかがっている間に松田が先に電話を切った。


「デートですかい?」


 店主がにたにたと下世話な笑みを浮かべた。


「貴様如きには関係ない」


 と冷たく突っぱねてやった。


「お兄さん、割と酒乱なんだから、しばらくは水でも飲んでた方がいいんじゃないの?」


 一理ある。松田が到着した時に既に俺が出来上がっていたら松田も居心地が悪かろう。


「うむ、危惧すべきことではあるな。酔いを覚まさねば」


 松田がこの場に来ると決まったことでいささか俺の心臓が騒ぎ始めたようで、それに影響されてか精神が細かなさざ波を立て手先にまで伝播する。


「酔い覚ましにピッタリのブラックコーヒーがありますよ」


「その提案を受けてやろう。ミルクと砂糖を忘れるな」


「それじゃブラックじゃなくなっちまいます」


「多少の慰みにはなるだろう」


 店主がコーヒーとミルクと砂糖を携えてすぐに現れ、盆を卓において踵を返し、カウンターの向こうでまたにたにたと不躾な顔で俺を観察している。松田を待っている間、手持無沙汰になった俺は逃げるようにコーヒーを口に注ぎ続け、矢継ぎ早に煙草を吸って貧乏ゆすりをした。入り口のドアにつけられた鐘が鳴る度、即座に音の鳴る方を向いてしまう。

 何度目かの鐘でついに松田がやってきた。あれほどコーヒーを飲んだのに喉が渇きを覚える。俺が松田の名を呼ぶのを躊躇っているうちに先に松田が俺を見つけ手を振った。職を辞する以前は非業の死を遂げた魚のような目で拘束衣のような背広しか着ていなかった松田も、現在では顔に生気が戻り、服も垢抜けて化粧による彩も変わっている。短く矮小な人間の人生のどん底にあった松田が自由を得て遂げた変化に、図らずも胸が高鳴った。


「遅くなっちゃってすいません」


「構わぬ。俺も今来たところだ」


 とテレビドラマなどでは定番の言葉を返す。


「いいところですね。ヴェルさんのいきつけなんですか?」


 そういえば松田は俺をヴェルさんと呼ぶ。あの時俺が名字を名乗らなかったのが全ての原因だが既にファーストネームで呼ばれているのだ。頬が煉獄のように熱さを持つが酒を少し飲んでいたとして誤魔化そう。


「足しげく通う訳ではないが気に入った店ではある。ここのカシスオレンジは比肩する者なきほどの美味である」


 おっかなびっくりではあるが人間共がポーカーなる博打を打つ時の顔を模して冷静であることを演じる。


「唐突だが松田よ。最近はどうだ?」


「毎日が夏休みですよ。羽根が伸び切って」


 松田は軽口を叩けるようになったようだ。まだ俺の知らない松田があるのだ。しかし、羽が伸びきっているということは未だ再就職をしていないことである。貯金を切り崩して生活しているのだろう。そして俺の羽が伸びきることはあるのだろうか。山手線がその存在を消すその日まで俺が羽を伸ばすことはないだろう。


「そうか。俺は最近稼ぎがいいのでな。今夜は俺が持とうではないか」


 これもテレビドラマや映画で学んだ常套句である。


「気前がいいですねぇ。今回は甘えさせてもらいますよ。もちろん、次は割り勘ですよ」


 次。次があるのか。松田は次があることを期待しているのか。ややもすると次を松田自身が望んでいるのかもしれない。


「カシスオレンジを頼む」


 これ以上は気の高ぶりに堪えられないと、まずは酒の力を借りて一度気分の器を大きくすることにする。


「女子力高いもの飲みますねぇ。わたしはギネスビールとチーズ盛り合わせ」


 と注文する。カウンターの向こうにいた店主が下世話な微笑を浮かべている。


「ヴェルさんは最近どうでしたか?」


「あぁ、勤め先の社長が結婚をした」


「それはおめでとうございます。社長さんは若いんですか?」


「27、8と聞いている。相手は30も半ばと言ったところか」


「姐さん女房なんですね」


「いや、社長が花嫁だ。我が社は社長が二十歳そこそこの小娘の時分に立ち上げた会社であるからな」


「へぇ、社長さん頑張ったんですね。どんな会社なんですか?」


「面白読み物制作会社だ。俺は経理をやっている」


「わたしは鬼営業ブラックだったなぁ」


 などと他愛もない会話を続けることに成功し、俺は今松田と共にまともに話を交わすことが出来る喜びに浸っていた。このまま行けば松田の言う気たるべく次、の展望も明るい。

 じゅうじゅうと肉の焦げる音と香ばしい匂いを強く感じる。女の奴隷が持っている盆の上には、俺が所望したカシスオレンジ、松田のギネスとチーズ盛り合わせ、そして屠殺した牛の腰肉、唯一サーの称号を与えられたサーロインと呼ばれる部位を大きな切り身にし、両面焼きしたものに、渋谷の愚かなガキ共の頭髪のように彩り鮮やかな野菜が添えられている。


「こんなものは頼んでいませんよ」


 松田が言うと、店の女は冷たい微笑を浮かべて俺たちからやや離れた席に一人で座っているトレンチコートの男に顔を向けた。


「あちらの方から」


 松田が首をかしげてトレンチコートの男をじぃと見つめている。俺も同じくトレンチコートの男に視線を向けるが、ばったりと目と目が合ってしまった。男は嘲笑にも似た微笑を浮かべ、「食べるがよい」と言わんばかりに手を差し出した。


「なんでしょうかね」


 松田が訝しげに顔をまた俺に対面させ、煙草を一本吸った。俺も腑に落ちないまま煙草に火を着ける。意図が不明確な献上だが、やはりサーロインステーキはサーロインステーキであり、その名の持つ高貴な響きと甘美な芳香は煙草如きで紛らわせることのできる物ではない。


「まぁ、毒でも入ってるわけじゃないだろうし、いただきますか」


 松田がフォークと呼ばれる三つ又の悪魔の必需品にも似た食器と刃の食器を手に取り、サーロインステーキを両断した。


「半分こしましょう。大きい方はどうぞ」


「うむ、忝い」


 松田と料理を半分子。カシスオレンジを一口飲んで脳を弛緩させ、フォークとナイフで手頃な大きさに切断して口に運ぶ。口の中の溢れんばかりの脂肪、下の上でほぐれてしまうような肉の繊維。味覚を中心に全身が歓喜するような圧倒的美味。松田も美味に顔を綻ばせている。トレンチコートの男に感謝してやらないでもない。


「しかし、なんなんでしょうね」


 この世の喜びを全て享受したような至福の表情を浮かべる松田にまた胸が早鐘を打った。


「日ごろの行いがよかったということだろう」


 悪魔の日ごろの行いがよくあってたまるものかと心の中で毒づいたが、ここ最近での俺の悪行は無断欠席程度である。悪魔としていささか威厳にかける。詫びの電話を入れて午後から出勤までしている。


「食事中に申し訳ないが手洗いに」


「はいはぁい」


 紙ナプキンで口を拭って席を立ち、下水道と繋がった窪んだ縦長の陶器の前に立ち用を足していると、先ほどのトレンチコートの男が隣の陶器の前に立った。松田を喜ばせてくれたので感謝の一つをしても罰は当たるまいと「心遣い感謝する」と謝辞を述べると男は不敵な笑みで、


「ええ、だって一日中まで私を尾行してきたんだ。交通費もバカにならなかったでしょうから」


 とひどく的外れな言葉を吐いた。


「尾行?」


「しらばっくれるんじゃない」


「待つのだ。俺が一体何をしたと言うのだ」


「往生際が悪いぜ」


「お主、酔っているのか?」


「俺はプロだぜ。探偵が素人の尾行に気付かない訳ないだろ」


 と威圧的な目で俺を睨みつける。


「お主、人違いをしていないか?」


「あの女と二人で三鷹からついてきてただろう」


 三鷹だと。三鷹と言えば山手線外、東京23区外ですらある。もちろん俺が尾行出来る訳がない。つまり、この男は三鷹から何者かに尾行され、その追跡者が俺と松田であると勘違いしているのだ。そして貴様ら如きの稚拙な尾行など俺はお見通しであるとサーロインステーキを献上して皮肉ったのだろう。或いは、初めから追跡者などいなかったのかもしれない。いずれにせよこの自称探偵はプロが聞いてあきれるうつけ者である。


「誰の差し金だ。言え」


 まだ用を足していると言うのに自称探偵が無礼にも俺の胸ぐらをつかむ。人違いで俺を恫喝するとは、愚かなり。だんだんと腹が立ってきた。しかしここで怒りに任せて騒ぎになってしまえば松田との食事も人間共の生涯のように儚く終わる。俺は湧き上る怒りを抑えて自称探偵に勘違いであることを理解させることにした。


「まずは薄汚いその手をどけろ。ホモサピの分際で俺に触れるんじゃない。この俺を誰だと思っている。手を洗え。話はそれからだ」


 用を足し終え、二人で睨み合ったまま水道より出水流で手を洗い、ハンカチで手を拭き化粧室を退出、松田のいるテーブルに向かう。せっかく松田が食事を満喫してるところにこの無能な自称探偵を連れてくるのは気が引けたが、彼女もまた無能な自称探偵からあらぬ疑いを掛けられている張本人である。


「松田、食事中のところを忍びないが、こやつが俺たちがこやつを尾行していたと勘違いをしているようだ」


「はぁ」


 松田も困惑した面持ちで煙草を灰皿に押し付けた。


「とぼけるんじゃない。三鷹から俺を尾行していただろう」


 松田は別段慌てる様子もなく、鞄から財布を取り出し、一枚の紙きれを自称探偵に見せる。


「渋谷で15時40分からの映画を観たんですけど」


 差し出された映画の半券に自称探偵の顔が引きつった。おそらく渋谷には行っていないのだろう。


「そんなもの、どこかで拾ったに決まっている!」


 と苦し紛れに否定するが松田は動じない。


「いえ、間違いなくわたしの半券ですよ。この映画、上映中に火災報知器の誤作動で上映が中断されたんですよ。そのお詫びの特別招待券がこっち」


 もう一枚別の紙を取り出し、勝利の一手を詰めるように見せつける。


「なんなら映画館に問い合わせてください。映画館のポイントカードを使ったんでわたしがこの回の映画を観たってことが記録に残っているはずです」


 自称探偵は言葉に詰まり、赤鬼のような真っ赤な顔で歯を食いしばっている。


「しかし、この男は!」


 不穏な空気を感じ取った店主と店の客がざわめき始める。


「今日はちゃんと朝から定時まで仕事をしていた。問い合わせてみるか? 俺の名は青山ヴェルフェゴールである。まだ残業している者もいよう、問い合わせるがよい」


 職場の電話番号をダイヤルし、電話を自称探偵に渡してやる。自称探偵は小声で俺の出勤時刻と退勤時刻を尋ね、俺の主張が正しかった証拠を突きつけられ意気消沈して肩を落とした。


「おい、貴様もしっかりとした大人なら謝罪の一つもあったらどうだ」


 俺が促すと自称探偵は苦虫を数百匹噛み潰したようなような苦渋に満ちた表情で


「お騒がせして本当に申し訳ございませんでした。お代はこちらが負担させていただきます」


 と俺と松田に深々と頭を下げて万札を二枚渡し、ばつが悪そうに自分の会計を済ませてそそくさと店から出て行った。自称探偵が本当に尾行されていたかどうかは定かではないが、仮に尾行されていたことが真であったならば、真の追跡者には撒かれ、もしく初めから尾行されていないのであれば尾行をされていたと独り相撲の挙句、俺と松田が下手人であると勘違いをしてかっこうをつけてサーロインステーキを献上してしまい、挙句の果てには謝罪までして我々の分も払わねばならなかった自称探偵はあまりにも哀れである。


「ラッキーラッキー」


 と松田は万札を翻している。


「余った分は山分けですよ」


 俺も席に着き、一つ溜息を吐いた。


「騒がせてすまなかったな」


「いえ、面白かったですからアリです」


「そう言っていただけると助かる」


「今回は優秀な探偵さんに奢ってもらったってことで。次は割り勘ですよ」


 やはり次はあるものとして期待しても良いのか。


「松田、その……野球は好きか?」


 天国新聞ヘヴンタイムズを契約した時に渡された東京ドームのチケットがまだ残っていたのだ。


「ジャイアンツ命です」


「券が余っているのだが」


「一緒に行っていいですか?」


 松田が嬉しそうに目を丸くした。


「決まっておろう」


 タバコを口元へ運んで、綻ぶ口元を隠した。

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