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東京悪魔  作者: 三篠森・N
東京人間模様編
15/43

東京悪魔とはやり病

 俺を覚醒させる絡繰りが、時が来ても音を奏でなかった。


「電池切れだとぅ……」


 目を覚ました時には既にテレビの隅に映し出される時が4ケタになっていた。覚醒が遅すぎた。すでに始業の鐘は鳴ってしまっただろう。本能的に歯を研磨し、母から譲り受けた胚を持つ米を炊いたものを口にして我が城を出たが、出勤時にはあり得ない角度で俺を照らす暖かい陽気を背中に受けていたら尚更仕事に行く気がなくなった。踵を返して仕事場のある麹町とは反対方向の新宿方面に向かい、通りがかったファミリーマートで朝からビールを買ってしまった。棚に陳列されていた週刊少年ジャンプも久々に手に取ってしまった。


「おのれ、まだ休載しておるのか」


 就職する前から連載しているはずなのに一向に話の進まない漫画に一抹の怒りを覚え、雑誌を棚に戻した。無断欠勤という大罪を犯したからか、気分が浮ついて言い訳を考えるほど集中できず落ち着くことが出来ない。煙草を一本吸い、新宿駅の改札をくぐって憎むべき我が仇敵、JR山手線に乗った。


「おいあんた。どこに行きたいんだよ」


 言葉と態度の大きさの割に、声にはまだあどけなさが残っている。視界に入った紺色のズボンとスニーカー。目線を上げると、学ランを着た少年がいた。顔つきや身長、声から察するに、高校一年生か中学三年生。何かを達観したような、どこか冷めたような表情をしているが、そんな表情をするのにはまだ幼すぎる顔つきだ。精一杯の背伸び、と言ったところだろうか。

 俺は何も言わなかった。


「今何時だと思ってるんだ? 昼の11時だぜ。なのに、あんたはもう二回も目白駅に来てるだろ? 山手線を何周するんだよ。どこも行くところなんかないんだろ」


「……泣く場所を探して」


「なんだよ、それ」


 と少年の声。


「すごく泣きたいの。でも、泣ける場所なんかどこにもないのよ。でも、わたしはすごく泣きたいの。少なくとも、この東京っていう冷たくて、無表情な町にはないんだわ」


 俺は一度上げた顔をすぐに伏せ、少年の顔から目線を逸らした。


「俺が連れてってやるよ。あんたの言う、泣ける場所ってヤツにさ」


 少年が差し出した掌に、真っ白な掌が重なる。それに引っ張られるように席から腰を上げて少年の隣に並ぶ、俺の隣に座っていた少女。

 俺は恐らく、今『達観した少年』と『悲観した少女』の二人を直視したらあまりの青春のむず痒さと二人のその若さ故の恥ずかしさに吹き出してしまうだろう。笑いをかみ殺して頭を垂らし、居眠りをしたフリをする。瞼は薄く開け、二人を見失わないように少年のつま先を視線で捕まえる。

 すでに手垢にまみれているカッコよさや美しさや儚さの観念について語ったり実際に行動に移してしまう若者が、中二病というあまりにも的を射過ぎた言葉により、幼くイタいやつの象徴としてやり玉にあげられたり陰口の対象となる反中二病プロパガンダが流布される今日この頃。そんな彼らにとっては一種の差別さえあるような世の中でありながら、彼らは電車内という公共の場所、あまつさえ山手線でそれを隠そうとしない。いや、むしろこの乗客の入れ替わりの激しい山手線の中で、『達観した少年』と『悲観した少女』の二人が同じ時間に同じ車両で出会えたことはもう奇跡ではないのだろうか。一種のシンパシーか、それとも、きまぐれでイタズラ好きな運命を操る神の野郎が彼らを引き合わせたのか。

 新宿駅に停車すべく減速を始めた山手線。少年のつま先は扉の方へ向き、強引に引っ張られるように少女のつま先も同じ方向へ。

 そうだろう、そうだろう。なにせ『悲観した少女』は泣く場所を探していて、『達観した少年』はその場所へ彼女を連れて行くのだ。彼女は、彼の行き先について行くだけだ。そこがどこであろうと、行きついた先で彼女は泣くのだ。

 停車と共に彼らは歩きだした。俺は新宿駅到着のアナウンスで目をさましてうっかり乗り過ごすところだった男性の小芝居を入れ、彼らより数歩遅れて新宿駅で下車した。

 新宿駅という場所は、交通のアクセスという一点を除けば人間に対しかなり厳しいと言わざるを得ない。ただでさえ複雑な構内、それに迷い込んで困憊しなからも未だにさまよっている愚かな子羊から我が庭のように自在に歩き回る熟練者まで多くの人々でごった返し、その過酷さに拍車をかける。そんな目の回るような人の多さに辟易しながらも、あの二人を見失わないようにしなければならない。かく言う俺は後者。20年以上も利用していて慣れない方がおかしいだろう。

 今日、仕事を放棄し山手線をすでに2周した俺は、ついに下車する理由を見つけた。あの小僧どもをつけよう。そうして無断欠勤をした今日という時を過ごそう。




 強いビル風に吹かれ、俺はコートの襟をつまんだ。『達観した少年』、『悲観した少女』、そして俺の三人を監視するように、上空をカラスが旋回する。俺もあれになりたい。ああやって世界を見下ろし、たかが一度の無断欠勤に臆することなく自由にこの二人のような面白いものを見つけたい。しかし、今の俺に出来ることは、5月の新宿を歩く彼らを見失わないように後をつけ、事の顛末を傍観者として見届けるだけだ。

 新宿の目の回るような雑踏を踏破した彼らは新宿を歩き、新宿御苑の入場券を購入する。その間も『達観した少年』は『悲観した少女』に言葉をかけ続けていたのだが、『悲観した少女』の声は小さくて俺の耳ではその声を聞き取ることはできなかった。しかし、言えることがある。あの今すぐにでも泣き出してしまいたい少女は、名も知らぬあの少年に心を開いているということだ。

 運命の人、というのは使いまわされた陳腐な響きだが、あの二人は確実にそれ同士だと言えるだろう。運命の歯車が、お互いにかみ合った二人。片方からその運命の歯車にはめ込もうとしてもああはならない。初対面からここに至るまでの数十分、文句も言わずに『悲観した少女』は導かれていく。俺は思う。きっと、『達観した少年』は『悲観した少女』と同じように泣きたくなったことがあるのだろうと。東京という砂漠のように乾ききった無表情な町での生活に疲れ、乾いた心を涙で潤すために乗り込んだ電車で、新宿御苑にたどり着いた。そして彼は、泣いたのだろう。きっと彼は、その時の道のりを彼女と共になぞっているのだ。これは、ドラマだ。高層ビルに悉く視界を狭められる日常から、果てしない空が眼前に広がっているある種の非日常へと逃げだし、思い切り泣くための二人の、東京からの、生活からの、あるいは世界からの逃亡劇だ。逃避行だ。長く東京に根差し、雁字搦めとなって逃げだすこともできない俺のような大人には出来ないことだ。東京から逃れることが出来ないと理解した時、俺にはもう流す涙も逃げる場所すらも残っていなかった。しかし、今なら泣けるような気がする。瑞々しい彼らの逃亡劇が、俺の心に少しずつ体温を取り戻していくような気がする。

 そんな瞬間だった。上空のカラスの声も道を往く車のエンジン音も聞こえなくなったような静寂の後。赤ん坊のような、精一杯の声で少女が泣いた。

 人目もはばからずただ叫び、涙を流す『悲観した少女』は立つ事すら出来なくなり、その場に座り込む。『達観した少年』は学ランの上着を脱ぎ、ここまで旅をした運命の人の背中を優しく叩き、寒いビル風からかばうように震える肩にそっとかぶせ、その隣に座った。

 若さゆえの間違ったバイタリティが、見たこともないような珍プレー好プレーを見せてくれるのではないだろうかと好奇の目でここまで付け回してきた哀れな自分を少し恥じた。あのような愚かな小僧どもでさえ己の行動に一点の曇りもないと言うのにたかが寝坊と無断欠勤如きで俺はいったい何をしているのか。


「もしもし、我が名は青山(あおやま)ヴェルフェゴールだ」


 電話の向こうで淡崎(あわさき)がため息を吐くのが聞こえた。


「俺ともあろうものが目覚まし時計の電池が切れていることに気付かなかった。今から向かう。無断で遅刻したことを詫びよう」

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